狼の少年と月の楼

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「その昔、保有する戦力をどのように数え、諸国へ対抗したのか。それは兵士の数であり、騎士の数であり、火器の数であり、核の数であった。やがて、戦力は年月で数えられるようになり、千年と幾何かを越える兵器に紋章が与えられた。何故その様な戒律を採ったのか、あらゆる史実には嘘があり、その答えは単に時代が変わったからに過ぎない。把握するのに必要なこと、残された唯一のもの、それらが時の概念と重なり始めた。つまり、それは国境を越えた証であり、いとも容易く平和を覆す結果となった。次に求めるものが何であれ、人はその条理の中に身を置くことでしか生き永らえることはできない。結局、兵器という存在そのものが人の背後に在り、それらは守る対象を選ばない、或いは、選べなかった。そもそも神を戦力に含めないことが何よりの否定と言える。傍から見ればその様な賢明な生こそが負い目となり、そこに自身の影を落とす結果となる、忘却と覚醒を何度繰り返そうと、その域を超えるのは困難だ。貴方の論理の解釈として以上が求められる」少年が答える、闇に臥すように沈み、いくつかの光子が箱庭で遊ぶような無邪気な配列で舞い、ソファの背凭れと壁との境界線を曖昧にしている。柱から下げられた金細工に月が掛かり、青白い灯が瞳のような輪郭を主張する、赤を基調とした内装は光量が足りず血溜まりのようにくすんでいるが、波打つ白金の線がアクセントとなり陰鬱な雰囲気を飛ばしていた、但し、その行き先も限られており、室内のあちこちで音もなく燻っている。


二人はホテルの一室にいた。教授は『狼』の少年を招待したが、教授の思惑通りにはならず、様々な思念が渦巻く渾沌とした場と化していた。隣室の開け放した扉から漏れた光が影に色を付ける、微かに流れる風が重く沈んだ空気を通路の方へと運ぶ。教授はそれが道理と反対の方向を示していると理解するのに数秒も掛からない。教授の配慮で部屋の照明のいくつかを落としている、薄暗い空間の中、それぞれがソファに座り相手を見据える。どうやら、『狼』の少年をこの場で殺すよう機構から通達があったものと思われる。教授は理解のない連中に嫌気が差したが、自身も殺し合いの場に投入されている状況を加味すれば一定以上の理解はあったものと判断し、殊更に神経を逆撫でする。但し、傾いた精神であればこそ、その意気込みも利用すべきである、と既に教授は手札の一枚に数えていた。テーブルの上には秘書が用意したティーセットが置かれているが、この状況下で飲む者はいない、緩やかに熱を失っていくだけの香りが毒である可能性もあるが、問題は否応なく繰り返されるフィードバックの方にある、逆巻く感情が露見すればスパイスを失った料理のように途端に味気ないものとなる。不安が残れば踏み留まるが定石といった形の蒸気も目には映らない。


「何事にも例外はつきものではあるが、その例に漏れず。君だけが忘却されることでその紋章を剥奪された」教授が答えた。

「失った紋章に価値は無い、しかし、名の方は重要だ。たった一つの言葉から兵器の構造を紡ぎ出すこともできる。その昔、ある考古学者がいたが…」

「ああ、『月の楼』か、あれは実に見事な兵器だ。尤も、今ではただの映像作品に成り下がっているようだが。私があそこを訪れたのは20年以上前だろうか…君は当時の記録を辿ってここへ来たのだろう、そうでなければ私のような老耄に用などある筈がない、私が君の立場であってもそう考えるだろう、その年で、と言っても実際の年を数えるのは難しいだろうが、立場上は紋章官であるから様々な制約を受けているものと考えられる。尤も、過去に紋章官であることを公言した者も存在しないが…」教授は当時を懐かしむように語り、少年の目的を今一度読み返す。

「聞きたいのは『楼』のことじゃない。何故、貴方が失われた紋章のことを知っているのか、その一点だけだ。それと、私の考えでは、『月の楼』は模倣であって原型ではない。故に、あそこには何の情報や手掛かりも残されていない。全ての点に於いて不自然であり、その状況が故意に作り出されていないという矛盾、つまり、それだけを扱った式が別に存在する筈。その可能性の一つに『オルレアンの蝶』がある。貴方の記憶にもそれが存在し、『楼』での計算式を狂わせたとも考えられるが…」少年は含みのある言葉で次の反応を見る。

「平時であれば、この様に情報が溢れた世界に於いて忘却などあり得ないと誰もが考える、しかし、情報そのものに不可逆的な加工がなされれば個々の認識の度合いに差異を見ることになる。それまで0か1だったものが以外の数値で吐き出される、それを発現と呼ぶのであれば、既に我々は喪失したものを数えられない、特性であればまだ諦めも付くが、問題は事態を想定した第三者の関与に絞られるだろうか。無論、逆説的に表せばそれは確実に存在するが解に数えることもしない、単にイメージの問題でもある。そして、確かに『蝶』の兵器は存在する、その呼び名は初耳だが。我が国でもその兵器の存在を確認している。但し、全世界が数百年探して尚明かされていないのだから、何らかの介入があったものと推測される。また、私が失われた紋章についての知識を持っているというのは誤りだ。何故なら君を招待するための口実、この場限りの推論に過ぎない」

「貴方を侮りはしない。但し、その介入とやらが問題視されるようであれば児戯に等しい、まさに『オルレアンの蝶』の作用と考えるのが模範で、次元へのシフト…つまり、『月の楼』と同様、若しくは、等価の軸が存在するという証左でもあるが、私の方ではまだ決め兼ねている」

「『月の楼』が完成したのは千年以上前だが、君の存在も百年以上前からループしているものと考えている、存在ではなく、存在価値や存在意義のようなものかも知れない、概念として在るだけでは証明には足りない。その鎖を切り飛ばしたものが『蝶』であるならば、目的が見えないのも当然の帰結ではあるが、そもそも目的などないと言うのが解に当たるのだろうか」教授の中では結論に達し、窓の外の様子を気に掛けた。20人以上のスナイパーが配備されているのだろう、そんなものが役に立つとは思えないが、好きなようにさせるのがこの場では正しいと考えた。

「目的は、その価値に関わらず認識できない」少年はティーカップに視線を落とす、雫を象った闇の中で瞳が僅かに赤く揺れる。

「認識できないものを追いかけたところで何にも得られないだろう。本質を追うべきだとは思うが、当てがあるということか。いや、君ならば目的そのものを追跡できるだろうか…」教授は足を組み直し、眼鏡を外した。

「いや、それはないが、次は歴史以外を洗う予定だ。手に入れたいものがそこにあるならば、貴方も追うといい。互いに条件は同じだ、私にも貴方にも残された時間はないのだから」

「つまり、君は『蝶』と接触している可能性が非常に高い、と。そして、その際にこの世界が傾いた、但し、それが何れかの望みだったのかは分からない。自意識そのものを切り飛ばしたものか、『蝶』の特徴としては、羽ばたくものではないと聞いたことはあるが、何の裏付けにもならないだろう、その出典も既に失われた。『月の楼』には何もないと言ったが、やはり、あれはそういう類の兵器ではない、隔絶だけの装置にあれだけの出力は誰も求めない。不自然な設計ではあるが、かと言って破綻している訳ではない、『蝶』に関連のある兵器には違いない、私はそう考えている」

「あそこにはまた別のものが在った、それだけの話ではあるが、聞いたところで納得はできないだろう。才華は時に爆ぜる、律動も同様、重畳に依って九鼎と成る、その程度のことだろうと予測はできる」

「時間があれば何でもできる訳ではなく、時がなく諦めることもしない、瞬間的に世界に置き去りにされるという、その感覚は失われない。尤も、その一瞬を待つことはしないが、切っ掛けがあれば迷わず追う、そういう風にしか生きられない。ところで、君はここを出た後で撃ち殺されるかも知れない」窓に駆動音が共鳴している、何機かのドローンを浮かべているが少年は意に介す様子もない。

「いや、貴方は十全の備えを以て私を殺すべきだった。また、そうでなくてはここへ来た意味がない。その先の価値とやらを試してみればいい。計算違いであったことを祈るばかりが能か、一度じっくりと考えるといい。十分な話が聞けたので、そろそろお開きとしよう」少年はソファから離れ、窓から外の様子を伺う。制御された光の粒が規則に沿う形で揺れている。少年が手を翳すと、窓に歪な形の亀裂が下から上へと登るように入る、ガラスは室内へと転がり破片となる、吹き込む風と膨らむカーテンの隙間に刺さる、それは一つの合図となっていた。少年はこの場に於いて全方位から命を狙われており、経路の一つとして外壁も押さえられていた。待機中の部隊に司令が走る、地に着くまでのカウントダウンが始まった。

「また会うこともあるだろう、その時まで達者で」教授は胸の前で手を組みソファに沈む、より深い洞察が必要となる、閉じた瞼の中に眼光を灯す。


『狼』の少年の能力は未知数だった、紋章の剥奪と共に式の理解も失われた、とされている。教授は暗がりに佇むソファを眺めてはそこに在るべき姿を思い浮かべる、命に直結するこの状況下で何と答えるべきか。教授の試算では、世界システムの応用だった、装置を使いある地点からある地点へとエネルギーを伝達する、基本理念は間違っていない。但し、その方法はここには存在しない何かであり、共振ではない。また、不可視のため、結果のみを享受する必要があった。つまり、少年は高層階から落下し無傷で着地する、若しくは、空中で進路を変えて隣接する建物に移る、または、着地をしないことが予測される。何より、接地時の空白は狙撃に最適のため、あの少年ならば敢えてそれを選択するだろうという当てはあった。軍のスナイパーライフルの半数には誘導機構が搭載されている、それを如何に狂わせるかが生死を握る鍵となるが、飽くまでも机上での議論に過ぎない。少年の忠告通り、紋章兵器で相殺すべきなのだろう、しかし、バタフライ効果は読めない、この選択が余地あるものとして受け入れられるかどうか、教授は思案する。

「もう遅いが、やはり着地前を狙うべきだ」教授の呟きと共に部屋に明かりが灯り、暗がりに転がっている月明かりを掻き消した。隣室から秘書が飛び出し、教授の無事な姿を目にし安堵する。廊下には特殊部隊が配備されていたが、対象を見ることなく待機の命が下る。対照的に教授は肺に残った空気を数秒で吐き出し告げる。

「いや、無事とは言えない。私は彼の言う『輪廻』に参列させられたのだから。つまり、この先に安寧はなく、文字通り死に損ないの老耄として戦地に立つ。投じられた一石にさえ抗えないのは甚だ情けなくもあるが、それだけで語れるものではないからこそこうして自ら赴く意思も残る。あの少年は、決めるのは貴方ではないと言っていたが、現時点であればまだ選択の余地があるというもの。そして、彼を追ったところで何の意味もない、私がすべきことは断じて殺し合いではない、戦地での仕事と言えばそれに限ったことではない。あの少年に協力することこそが、紋章兵器の情報を持ち帰るという点に於いては近道ではあるが、時には出し抜く必要もある、それこそが私の…」教授は再び沈黙する、現時点ではこれ以上動く意思はなかった。


少年は段差を越すような軽いステップで眼下へと落ちる。教授を確保した数秒後に第一射が放たれた、17発の弾丸はホテルの外壁に跡を残し爆ぜる、夜空に反響した音は理由もなく壁面を駆ける。ライフルの誘導機構が時間差で追う、0.25度の補正で数メートルの誤差を追尾する、しかし、自由落下をするだけの少年を捉えることはできない。23人のスナイパーの意思を確認し、下層のスナイパーの目視へと移るゆとりがある。対空ボットは少年の捕捉と同時に破壊される、音もなく動作を停止した、ブレードが空回りし慣性のままに落ちていく。終端速度を狙うスナイパーからの第二射も結果は変わらないが、少年はビル風に合わせて翻り再度補正を殺す。少年に警戒色は微塵もないが、とある一つの弾丸に着目した、旧式のライフルに載せたフルメタルジャケットの弾丸が後頭部近くを走る、直後に短い音が抜ける。少年はふと思った、彼が命令に背くのは何故だろうか、理由はとても単純で、彼は何も見てはいなかったから。補正ありきの弾丸では決して届かぬ距離を求めた、その軍人の名をパガヤと言った。パガヤは命中を確信していたが、そうならなかったことに疑問を抱く、経験上ではあり得ない、完璧なタイミングで発射された筈だった、結果を狂わせたものがターゲットの能力なのだろうか、次射までに詰める必要はあったが、現状では何もヒントがない。

「あれは見た目通りの姿をしていないのか、そこかしこに乱雑な力が働いているように見える…馬鹿げているな、まるで嵐だ」パガヤは着地前の第二射に備えたが、やはり結果が遠ざかっていくような感覚を覚える、その勢いは落下速度の自乗を越える。少年が着地をする直前、つまり、パガヤが第二射を撃つ直前、地面から垂直方向へ大きな力が加わった、音もなく、まるで破城槌で叩かれたような衝撃に身体が数メートル上方へと跳ねる。スーツの一部破損と全身に拡がる痛みにバランスを崩し半身となるが、即座に半回転を加えライフルを水平に保つ、そして、引金を引いた。カンッという鋭い音が走る、少年の着地を狙った弾丸はこの一発のみだった、当然ながら大きく外れた、その他のスナイパーは発射することすらできない、銘々が不可視の衝撃に足を掬われており、その内の半数は気絶していた。パガヤは慌てて受け身の姿勢へと移行したが、10メートの高さからコンクリートに落下した、耐衝撃性能の高いスーツがダメージを肩代わりする。

「あそこから数百メートルは離れているのに…何をした?でたらめな奴だ、そして、遊ばれているのか…」パガヤはライフルを背負い、そのまま屋上から飛び降りた。


少年はそのまま地上に配備された小隊と交戦、アスファルトに花壇、駐車した車に灯の消えた街灯。小隊は四人一組で行動しており、着地地点の周囲にも何組か確認できた。少年と接触するものの、少年の脚は銃を構えるより数段速い。如何なる武装があったとしても捉え切れない、プロとしての自負があればこそ、絶望的なまでの差を明確にイメージできた。

「発砲するな、このままでは同士討ちとなる、作戦を変更する」即座に小隊長の伝令が飛んだ。「ゴム弾の使用、及び、LL装備へと切替」

伝令の有無に関わらず、その後も発砲できる者はいなかった、視界に置くことすら儘ならない。スタングレネードなどの足留めも見切られている以上、無駄にしかならない。精鋭のみで構成されているからこその判断だが、結果的には手も足も出ないのと同義であった。少年の三次元的な動きは飛行と言っても差し支えなく、慣性の法則にも当て嵌まらない、あらゆる力を打ち消しながら移動するような、前例のない事態だった。

「あれが紋章兵器、確かに手には負えないが、攻撃する意思がない以上はこちらとしてもこのままやり過ごすのが賢明だ」小隊長は交戦時から理由を用意する羽目となった、幸い時間だけはあるため隊を守るくらいはできよう、と内心では考えていた。

「目視で得られる情報は余りにも少ないが、一つでも持ち帰る必要はあるだろう」小隊長は範囲無線に切替、最後の伝令を飛ばした。小隊は全力で少年の行方を追いはしたが、ドローンや監視カメラでも捕捉できなかった。少年は包囲網を難無く抜ける、数も兵器もここに用意された全てを考慮する必要はなかった。通りの先で待ち構えていたのはパガヤだった。二人の距離は50メートル程度、ライフルを手にしているが撃つ気配はない。

「対峙する意味を君は求めるのか?」少年は奪った無線機でパガヤに告げた。「いくら撃っても届かない、君の選択のすべてはここでは何の意味もなさないから」

「その自信が気に食わない、俺は何でも試したくなる性分でな」パガヤはハンドガンに持ち替え、少年に向かって駆け出した。だが、その前に距離を詰められていた、少年は一蹴りで数十メートルを駆ける。パガヤは瞬時に腕を交差し防御姿勢へと移行し反撃を狙う。空中であれば狙える、そう考えたパガヤだったが、少年は空中で側転のような動きに変化した、当初の予定では右手を犠牲にして攻撃を往なしつつ、左手で銃を放つ算段だったが、眼前での回転した動きには反応することすらできない、理解が追いつく次の瞬間には背中を取られていた。失敗に終わったという認識を忘れるほど、華麗なステップのような空中制御を反芻していた。

「これか…」パガヤが理解するのと同時、背中へ強烈な蹴りが刺さる、衝撃音と共にスーツの根幹を破壊される。そのまま緑道まで数メートル跳ねた。スーツの機能が停止し、乾いた駆動音を繰り返す、重たいだけのそれらをパガヤは力任せに振り起こし、周囲を確認したが既に少年の姿は何処にもなかった。


「結果は見えていた、性分というやつは随分と勝手な振る舞いをする」少年はそう言い残すと、灯りのないトンネルへ闇と同化するように消えた。

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