第7話 さくらと、ゆいか

 あれはいつだっただろうか? 普段から妄想を抱くことが多いゆいかは、その日見た夢が怪しかったということを覚えている。

 どんな夢だったのかということでいえば、

「怖い夢だった」

 という意識が強い。

 基本的に、

「楽しい夢はほとんど記憶にないが、怖い夢は、鮮明すぎるくらいに覚えている」

 というものだと思っていた。

 怖い夢で、どんな夢を見たのが一番怖かったのかというと、

「もう一人の自分が出てくる夢」

 だったのだ。

 そのもう一人の自分というのは、夢の中なので、ドッペルゲンガーではないと思っている。

 ドッペルゲンガーというのは、あくまでも、同じ次元の同じ時間に存在している、

「もう一人の自分」

 だからである。

 そうなると、完全に妄想なのか、それとも、自分の中に存在している自分なのかである。

 ジキルとハイドなどでは、多重人格というテーマで、同じ自分であるが、まったく違う人格を持っているという発想であった。

 これは、ドッペルゲンガーではない。

 同一の身体に異種類の性格だからである。

 ドッペルゲンガーというのは、

「別の身体に、同じ性格がある」

 という意味ではまったく正反対ではないか。

 夢の中では、主人公として出演している自分と、それを見ている自分、違う身体だといえるのだろうか?

 ただ、夢の中の自分をドッペルゲンガーだと考えてしまうと、

「自分を夢で見てしまうと、死ななければいけない」

 ということになる。

 となると、夢の中では、ドッペルゲンガーではないということになる。

 そう思うと、夢の中の主人公である自分は、

「自分が作り出した妄想ではないだろうか?」

 自分の妄想が別の人間を作りだすというこの発想は、

「カプグラ症候群」

 と似ているような気がする。

 自分が知っている人間に、知らない人間が入れ替わっているというものだからだ。

 一番知っているはずの自分が、実は知らない人間だったというと、

「自分に似た人」

 という発想になる。

 逆の意味での、

「フレゴリ症候群」

 というのは、

「まったく知らない人を見かけた時に、親しい誰かが変装していると、誤認すること」

 なので、ドッペルゲンガーとは、そもそものところで違っている。

 それを考えると、どちらの方が怖いのか

 と思えてくる。

 もう一人の自分がとにかく怖いという発想から考えると、カプグラ症候群の方が怖い気がする。

 もし、夢に出てきたのが、

「もう一人の自分」

 ではなく、自分になりすました他の誰かだと思うと、これは逆に、その人物が、フレゴリ症候群によって引き起こされた錯覚だとすると、

「ドッペルゲンガーは、カプグラ症候群と、フレゴリ症候群の抱き合わせの恐ろしさなのではないか?」

 と感じるのだ。

 この二つをそれぞれ抱えているのが、まりえであり、さくらだったのだ。それを思うと、この夢は、もう一人の自分ではなく、

「さくらとまりえが出てきたのではないか?」

 と考えるのだった。

 その日の夢の、

「もう一人の自分」

 というのは、果たして、まりえだったのか? それとも、さくらだったのか? ゆいかは考えていた。

 もう少し思い出してみると、その時見た夢というのが、自分が誰かの生まれ変わりだという認識を最近持ち始めたのだということを、思い知らされた時の感覚を思い出させるものに感じた。

「ということは、さくらだったんだ」

 と思われた。

「自分が誰かの生まれ変わりではないか?」

 という意識が強くなるにしたがって、

「それは、さくらではないか?」

 という妄想に駆られるようになっていた。

 それを最初に感じた理由が、最近のさくらの愛想笑いを見たからだった。

 時々、ゆいかは、誰彼ともなく、愛想笑いをするようになった。最初は自分でもまったく意識をしていなかったので、いつからするようになったのか分からないが、さくらが最近するのを感じると、さくらのそれと、同じではないかという妄想に駆られるのだった。

 そして、それを題材にした小説を書くようになると、当然のことながら、妄想が強くなり、さくらへの意識が次第に強くなった。

 だが、不思議なことに、さくらに対しての意識が強くなるに比例して、まりえに対しての意識も強くなった。

 最初は、小説内の登場人物として観察しているつもりだったが、そのうちに見え方が変わっていった。意識をし始めたのは、まりえが、さくらとはまったく正反対に近い人物だと感じたことだった。

 自分に自信がなくて、いつも人の顔色を伺いながら生きていて、愛想笑いをするに至る、さくら。自分ファーストで、

「他人と一緒では嫌だ」

 という感覚を持ち、そのくせ、まわりのことが気になって仕方がなくなってきている、まりえである。

 カウンセリングに通いながら、知り合った相手なのだから、当然、曰くがあっても当たり前である。

 だから、さくらも、まりえも、ゆいかのことを、

「普通ではない女の子」

 という目で見ているに違いない。

「私って、そんなにおかしいんだろうか?」

 と感じたのは、さくらの視線からだった。

 さくらの視線は実に冷たいもので、その視線の先に見えているのは、果たして自分なのかということを、ゆいかは考えた。

 確かに、さくらの瞳には、ゆいかが、上下逆さまに映っている。しかし、心で捉えたゆいかが映っているのかどうか、考えさせられた。

 というのが、瞳に映る姿が、

「上下逆さま」

 に映っているということだからだ。

 鏡に映る自分の姿は、左右対称ではあるが、上下が逆さまに映るわけではない。だから、今まで、ゆいかが意識してきた他人の瞳に映った自分は、上下逆さまになるということはなかったのだ。

 それは、小学生の頃から意識するようになったのだが、どうして意識するようになったのか、ハッキリと覚えている。

 小学4年生の時だったが、学校で、誰かが悪戯をした。それは、そこまで大きな問題になるほどのことではなかったが、当時の担任の先生が、クラスの女の子の給食費がなくなったといって騒いだ時のことだった。

 結局、あとで見つかることになったのだが、その時、疑われたのが、ゆいかだった。

 体育の授業前だったので、着替えで一番最後にいたからだというのがその理由で、

「まさか、そんなありきたりな理由だけで、先生が生徒を疑うわけ?」

 と感じたが、この先生も、思い込んだら、一直線の人だった。

 相手が何を思おうが関係ない。そんな人が先生だなんて、ちゃんちゃらおかしいというものだ。

 そんなゆいかを見る先生の視線は、実に冷たいものだった。

「人間が人間を見る目」

 というわけではない。

 人間を見る目というのは、もう少し、生気があるもののはずだと思うくらいに、死んだ目をしていた。

 そしてその時に瞳に映る自分を初めて意識していて、その姿が上下逆さまだったのをハッキリと覚えている。

「ああ、人の瞳に自分の姿が映る時というのは、上下が逆さまになるんだな」

 と感じたものだった。

 だが、友達が増えていくようになって、相手の考えていることを探ろうとして相手の瞳を見ることが多くなってきた。

 瞳の奥を覗くことで、相手の気持ちが分かってくるというわけではなかったが、その視線を感じる相手が、たまにビクッとなるのを感じると、

「私の視線の威力というのも、大したものなのかも知れないな」

 と感じるようになった。

 ただ、その時にも、自分の姿が相手の瞳に映るのを見るようになると、

「あれっ?」

 と感じたのだ。

 その理由として、相手の瞳に映った自分が、上下逆さまになっているわけではなかったからだ。

 ただ、相手の瞳に映っている自分が、

「本当に自分なのか?」

 と聞かれると、疑問でしかなかった。

 自分が写っているわけではないと思うと、思えなくもない。そういう意味では、上下逆さまの自分の方が、本当の自分のように思えるのだ。

 その理由について、

「最初に感じたのが、上下逆さまだったことだ」

 ということである。

 もし最初から逆さまに見えていなかったら、こんな感覚になっていることはなかっただろう。

 上下逆さまという感覚で思い出すのは、

「サッチャー効果」

 あるいは、

「サッチャー錯視」

 と言われるものである。

「上下逆さまに映っている絵や写真は、元々の正常な絵の感覚と違って見える」

 というもので、かつてイギリス首相だった。通称、

「鉄の女」

 と言われた、

「マーガレット・サッチャー」

 の写真を、上下逆さまに見た時に感じたことから、そういわれるようになったという。

 そもそも、上下逆さまという感覚は、人の顔というよりも、風景ではよくあることではないだろうか?

 その最たる例というのが、日本三景の一つ、

「天橋立」

 ではないだろうか?

 あそこには、股の間から覗くという絶景スポットがあるという。

 そこで、股の間から覗いた天橋立が、

「龍が天に昇っていく姿に見える」

 ということらしい。

 これも一種のサッチャー錯視の感覚に影響を与えているのではないだろうか?

 風景に関しては確かにその傾向はある。一番の感覚としては、

「空と海(陸)の感覚がまったくその比率に違いがある」

 ということだった。

 股の間から覗いたり、逆さに見えるような体勢になった時、

「空がやたらに広い」

 という感覚だった。

 きっと、普通に見ている時は、空を意識することなく、地上の風景だけを見ているからだ。

 空を見ようとすると、見ている光景は、空だけになるだろう。普段から、空と、空以外というのは、意識しているということだ。

 いつもは無意識なので、そこまで気にすることはないので、余計に違った方向から見ると、空が意識される。だから、逆さから見ると、空が広く感じるのだろうと、自分なりに解釈していた。

 それが、サッチャー効果のすべてではないのだろうが、サッチャー効果に影響を及ぼしているといってもいいのではないだろうか?

 あくまでも、上下逆さまに見る光景というのは、錯覚でしかない。そういう意味で、相手の瞳に映った自分が逆さに見えた時、まったく同じ自分だと感じる方が、却って違和感があるのではないだろうか?

 そんなことを考えていると、その時先生が、

「明らかに、犯人を私だと思って疑う余地なんかなかったんだ」

 と感じた。

 まさにその通りで、それと同時に、

「相手の瞳に自分が逆さまに映っているのを見ると、相手は自分を意識しているのか、それとも、こちらを欺こうとしているのか?」

 と考えるようになった。

 そのことを感じると、さくらの瞳に映った自分が、上下逆さまだったことに気づき、その時に、

「彼女の意識は、自分を意識しているということなのか、自分を欺こうとしているのだろうか?」

 という意識と、さらに、彼女の瞳に映った自分が、

「本当の自分なのか?」

 と感じると、どう考えていいのか、疑問が生じてくるのだった。

 その時、突如浮かんだ疑問が、

「私が、さくらの生まれ変わりではないか」

 ということであった。

 だが、考えてみると、生まれ変わりって、現在生きている人の生まれ変わりというのも、おかしなものだ。そこでいろいろ考えてみると、

「さくらには、実はもう一つ生まれ落ちようとしていた命があり、身体の中で、そっちの栄養をさくらが取ってしまったことで、もう一人が死産だった」

 ということである。

 つまり、さくらは双子として生まれてこようとしていたが、

「もう一人が死産だったため、その魂が生まれようとしていた、ゆいかの中に入り込んでしまったのではないか?」

 という発想である。

 この考えが一番しっくりくる気がした。

「では、さくらは、そのことを知っているのだろうか?」

 ということであるが、さくらの様子を見ていると、

「知らないのではないか?」

 という方が、考えやすいような気がした。

 もし、知っているとすれば、違った形で接してくる気がするし、もう少し、ゆいかが、さくらの気持ちを分かってしかるべきだと考えたのだった。

 ということは、ゆいかは、厳密にいえば、

「さくらの生まれ変わり」

 というわけではないが、そう感じたのは、

「さくらが、このことを知らないということ」

 からだったのだ。

 では、さくらは、ゆいかのことをどう思っているのだろう?

 時々、妙に慕ってくることがある。それは助けを求めているようにも見えるが、まるで姉を慕う感覚だ。

「さくらが、まわりに絶えず気を遣って、自分を表に出そうとしないのは、生まれてくるはずだった、もう一人の双子の姉妹に対して、その命を奪うようなことになってしまったことを申し訳ないと思っているからなのかも知れない」

 と感じていたのだ。

 さくらは、意識もないままに、ただ、潜在意識として、双子の姉妹を感じているのかも知れない。

 いや、むしろ、双子の姉妹という感覚ではなくて、

「もう一人の自分」

 を感じているのかも知れないと感じた時、さらなる発想が生まれた。

 それが、

「フレゴリ症候群」

 というもので、それが、さくらの感覚と心理に微妙に影響しているのかも知れないと感じたのだ。

 さくらには、夢などで幻想を見てしまうことが結構あった。その原因の一つとして、

「昔、殺人事件現場を見てしまった」

 ということがあるからだ。

「誰を見ても、それを特定の人物としてみなしてしまう。つまり、まったくの見知らぬ人物をよく見知った人物と取り違えてしまう現象」

 のことである。

 その時、転がっていた死体は、もちろん、さくらとはまったく関係のない人で、さくらも、最初から死体が誰であるか? などということを意識したわけではなかった。

 しかし、それからしばらくして、

「自分が見た人間を、絶えず誰か知っている人だという錯覚に陥るようになった」

 ということで、カウンセラーからは、

「それを、フレゴリの錯覚というんですよ」

 と言って、自分だけではないということを教えてくれた。

 ただ、これは、錯覚という呼び方をされるが、あくまでも、妄想の一種だということのようだった。

「妄想というと、錯覚よりもたちが悪いですよね?」

 とカウンセラーに聞くと、

「ええ、そうですね。錯覚が一歩心理の方に踏み込んだとでもいうんでしょうか? 錯覚というと、その時だけである程度は完結しますよね? だけど、妄想になると、次第に膨れ上がっていくこともあるくらいで、それだけ、大変なことだといえるのではないでしょうか?」

 というのだった。

「ドッペルゲンガーとはどう違うんでしょうか?」

 と、さくらが聞くと、

「ドッペルゲンガーは、ハッキリとは分かっていませんが、あれを、現象と捉えるか、妄想と捉えるか、錯覚と考えるかだと思うんですが、錯覚というのは、ほぼほぼ違うような気がしますね。そうなると、妄想か、現象かということですが、妄想だと、さっきのフレゴリ症候群と同じ効果だと思うんですよね? でも、都市伝説的なこととして、ドッペルゲンガーを見ると、近い将来に死ぬという都市伝説のようなものがあるでしょう? そうなると、妄想の世界で片付けられないものを感じますよね。何か外的な力が働いているかのようなですね」

 と先生は言った。

「フレゴリ症候群というのは、どういうものなんですか」

 と、さくらが聞くと、

「フレゴリ症候群と対照的な言葉として、カプグラ症候群というものがあるんだけど、カプグラ症候群というのは、家族や知人が、うり二つの替え玉と入れ替わっているという妄想を抱く、精神疾患の一種だと言われているんですよね。こちらの場合は、フレゴリ症候群よりも深刻かも知れないです。何しろ、自分の知り合いが贋者と入れ替わっているという発想なのですから、そこに、悪の結社のような団体の存在が関わっていると思い込んでいるわけですからね」

 と先生は言った。

「でも、ドッペルゲンガーの様相を呈しているようなフレゴリ症候群も怖いですよね? 本人の内面的な部分で、ずっと苦しむことになるわけですからね」

 と、さくらが言った。

「そうなんですよね。ドッペルゲンガーのような妖怪として君臨しているトモカヅキという妖怪も、恐ろしい存在ですからね。とにかく、ドッペルゲンガーというものが、その裏返しに、絶対の死のようなものが関わっているという考えから、いかに死から逃れられるかという意味でのリアリティはひどいものですよ」

 と先生がいう。

「カプグラ症候群というのも、怖くないですか? 悪の結社によって、自分の知り合いが入れ替わっていくという考えでしょう? 似たような話を、1960代から、70年代にかけても、アニメ、特撮などの、第一期と言ってもいい時代には、似たような話がありましたからね。そうやって、どんどん、この地球を征服する宇宙人とかですね」

 と、さくらがいうと、

「ええ、ありました。再放送では先生も昔見た気がします。今は少し問題があるでしょうが、スカパーなどでの放送だったら、ありなんじゃないでしょうかね」

 と、先生が言った。

「最近のアニメや特撮は見ないのでよく分かりませんが。あるんでしょうか?」

 と聞くと、

「あるかも知れないけど、少ない気がしますね。特に今は、コンプライアンスなどが激しいから、少々のものは、ダメなんでしょうね。放送倫理の問題もありますからね。そういう意味では、映像作品よりも、文庫だったり、コミックだったりの方があるかも知れないですね」

 という。

「じゃあ、フレゴリ症候群のような話ってあるんでしょうか?」

 と聞くと、

「ハッキリとは知らないけど、ほぼないような気がしますね。物語にするには、難しいんじゃないですか? カプグラ症候群の方は、替え玉というやり方で、他の第三者の手が介在しているけど、フレゴリ症候群の場合は、あくまでも、妄想や錯覚であり、人が介在する余地がないからですね。物語にしても、ストーリー性に奇抜さが欠けるかも知れないと思うんです」

 と、先生が答えた。

「なるほど、難しいところですね。じゃあ、私のようなフレゴリ症候群のような人間には有効な手立てはないということでしょうか?」

「そんなことはないと思いますよ。催眠療法であったり、妄想を別のものに変えたりする力を有するものを使うということもあります。それが何かということになると、いろいろ調べる必要があるでしょうからね。組み合わせの問題もあるし」

 と、先生は言った。

「じゃあ、やはり私はフレゴリ症候群だということなんでしょうか?」

 と言われた先生は、

「可能性はあるかと思いますが、あまり考え込んでしまうと、症候群の罠に嵌ってしまいます。これがどういうことから出てきたものなのか分かりませんが、私独自の発想として、まるでウイルスのようなものだという考えも持っているんですよ」

 というではないか?

「ウイルス?」

 とさくらは意外そうな表情で聞くと、

「ええ、最近は、何でもウイルスという言葉で解釈することも多くなったでしょう? コンピュータウイルスなどというのもその例で、以前私の知り合いの心理学の先生で、自殺をしたくなるのは、自殺菌というウイルスがもたらしたものだという発想を提唱した人がいたんです。その人は、ウイルスというものは、元々は人間が作ったものだけど、それは、あらゆるところで進化して、まるでAIのような知能を持ち、人間を逆に操ろうとしていると言っていたんですよね。それを、ウイルス界の、フランケンシュタイン症候群のような言い方をしていたんですよ。つまり、人間が作ったものから、逆に支配されるという構造がmフランケンシュタイン症候群ですからね」

 というのだった。

「確かに。少し前に全世界で流行ったパンデミックも、変異を繰り返して、変化していき、結局何度も波を作って、なかなか流行が衰えなかったですね」

 とさくらがいうと、

「コンピュータウイルスというのも、そうじゃないですか? あれは、ハッカーが最初にウイルスを開発し、ソフト会社の方で、そのワクチンソフトを作って対策をする。だけど、また新しいウイルスができて、また駆除ソフトが出るということの繰り返しじゃないんですか。それと同じですよ。だから、開発した方は、開発した瞬間から、新たなウイルスの作成に入るんですよね。それこそ、いたちごっこであり、永遠に続く、血を吐きながら続けるマラソンなんですよ」

 というではないか。

「核開発競争しかりですね」

「そう、その通り。でも、あれは、戦争の抑止力になると言われていたので、力の均衡が保たれていれば、それはいいことなのかも知れない。だけど、ほとんどの場合は、それは見せかけで、表裏一体と言ったところではないでしょうか?」

 と、先生が言った。

「じゃあ、カプグラ症候群と、フレゴリ症候群の間では、そんな抑止力でもあるんでしょうか? 下手をすると、相乗効果になってしまって、抑止力どころか、拡散媒体のようになってしまって、修復が利かなくなってしまうと、どうしようもなくなってしまうでしょうね」

 と、さくらがいうと、

「世の中には、普通の人間の想像も及ばないような。バカなやつがいたりするので、予期できない出来事にぶち当たると、抑止力だけではダメだということに初めて気づくのかも知れない。それは歴史が証明しているからね」

 と先生はいうのだった。

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