第6話 まりえと、ゆりか
さくらは、おとなしい女の子で、あまりさくらのことを知らない人は、
「どうして、女性から嫌われるんだろう?」
というのだが、その人が女性であれば、そんな感情を抱いてから、少ししかたっていないのに、
「さくらと付き合う女の子の気が知れない」
というところまで感じてしまうのだから、かなりの嫌われようなのだ。
その間に何があったというのだろう?
さくらと仲良くなった、ゆいかだったが、ゆいかは、いつまで経っても、さくらのことを嫌いにならなかった。
さくらという女性に対して、ある瞬間に、女性として、
「どうしても許せない」
という瞬間が訪れるのだという。
そのことに気づく人もいるが、ほとんどは気が付かない間に、さくらと一緒にいるのが、嫌になってきているのだ。
さくらが言われているのは、
「別にきれいでもないし、男性に特別好かれているわけでもないのに、何か腹が立つんだよな? どうして。さくらと仲良くなりたいと思ったのか? そんなことを思った自分を、ぶん殴ってやりたいと思ったほどだった」
ということであった。
かといって、平均的な面白みのないという女の子でもない。
だから、最初は、女の子の方が近づいて行くことが多いくせに、まるで途中から、
「裏切られたような気がする」
と感じるのだった。
裏切られるということがどういうことなのか、まだ中学生や高校生では、実際に味わってみなければ分からないことだった。
そんなさくらに対して、ゆいかは、ちょっとした尊敬の念を持っていた。
それは、
「いつも誰かを尊敬していて、相手を立てることができるからだ」
ということであった。
ゆいかの方でも、人を尊敬することはあっても、相手を立てるようなことはできなかった。それができるさくらが、尊敬に値するのは当たり前だと思ったのだ。
ただ、そんなゆいかを見て、まわりが感じるのは、
「強い者に媚びて、弱いものを食い物にしている」
という雰囲気に見えるからだった。
いわゆる、
「自然界の摂理」
と呼ばれる、食物連鎖のようではないか。
自然界の食物連鎖には、感情は入ってこない。
「強い者が生き残り、弱い者は食われる」
という、
「弱肉強食」
の世界である。
特にゆいかは、歴史が好きなので、そのあたりの摂理は分かっているつもりだった。
「歴史というのは、勝者が作るものだ」
という大前提があるが、
「弱者というわき役がいてこその歴史の輝きである」
といえるのではないだろうか。
だが、最近の歴史認識としては、
「弱者に脚光を浴びさせることで、違った歴史が見えてくる」
という、パラレルワールドが現実味を帯びているといってもいいだろう。
「判官びいき」
という言葉があるくらいなので、昔から、弱者をすべて無視してきたわけではなかっただろう。
今でも、戦国武将の、
「負け組」
と言われても仕方のないような人に脚光が浴びたりしている。
真田信繁(幸村)などもその一人で、
基本的には、活躍の場としては、大坂冬の陣での、
「真田丸」
の活躍と、夏の陣での、家康を自害寸前まで追いつめたことくらいであろうか?
後は、父親の真田昌幸の影に隠れていて、人生のほとんどが、人質と、流人としての人生しかなかったのだ。
しかし、晩年に脚光を浴びたことで、今では、
「戦国一のつわもの」
と、言われるまでになっているではないか。
さらに、たった一つの戦で名前を残しただけで、有名になった人だって中にはいる。決して教科書に載ってくるような人物ではないが、人の心に残り続ける人というのは、結構いるものだ。
特に、最近までは、
「悪玉」
と言われていた人たちが、近年の歴史の調査、発掘などによって、
「実は、悪者ではなかったのではないか?」
ということで、汚名挽回が言われている人も結構いたりする。
そのいい例としては、
「蘇我入鹿」
「平清盛」
「明智光秀」
「田沼意次」
などがそうではないだろうか?
最後の田沼意次の場合は、現代と言われるその時代の経済がどうであるかによって、味方が二転三転することになるのだろうが、それ以外の人は、歴史の時代背景から考えても、決して言われているような悪玉ではないという説が最近は有力であったりする。
そんな歴史が、この世には存在していて、
「今まで、どうして悪役だと言われてきたのか?」
というと、
「その時代の派遣と握る者として、彼らが悪役になることで、その時代の、いや、権力者に都合のいい秩序を作ることができる」
という、一つの生贄のような形になっているといってもいいだろう。
そう、だからこそ、
「歴史は勝者によって作られる」
というのだ。
2回の世界大戦がそれを証明しているではないか。
第一次世界大戦というのが起こったのは、ヨーロッパが、それぞれ民族問題などを抱えていて、今にも戦争になりかねない状態にあったことで、隣国と同盟を結ぶことで、
「同盟国の一国が、戦争を始めれば、他の同盟国は、その国の側に立って、相手国に宣戦布告をする」
という取り決めがあったことで、セルビアがハンガリー・オーストリア帝国に宣戦布告したことで、ロシア、ドイツ、オスマントルコ帝国、フランス、イギリスを巻き込んでの世界大戦に発達した。最終的にはドイツを中心とした枢軸国が敗北するわけだが、そこで決められたベルサイユ条約は、ドイツの滅亡に近いような賠償問題だったことで、結果、ドイツを軍事大国に押し上げ、時代の流れとしての、世界恐慌によるブロック経済が、さらにドイツ、イタリアを追い詰めることで、ファシズムが台頭してきた。
さらに、民主主義の限界を唱えた社会主義国の成立となり、これらが、またしても第二次世界大戦を引き起こしたのだろう。
時代として、世界恐慌というものが発生し、ブロック経済で先進国だけが生き残ろうとしたことも、それ以外の国に恨みを買っての、世界不安たったことは確かである。
元々はどちらの戦争も、ちょっとした偶発的な事件であったり、第二次大戦のときは、ヒトラーがポーランドに、
「かつての領地であった軍港を返せ」
と言って、断られたという事実が、引き金となって、ポーランドに侵攻したのである。
ポーランドは、ドイツが攻めてきた時を考えて、イギリス、フランスと同盟を結んでいたが、
「いきなりなので、兵を出すことができない」
ということで、ポーランドは見捨てられた。
まるで、現在の、U国に対しての、世界が、
「侵攻」
と呼んでいることと同じではないか?(読者は侵攻とは思っていないが)
しかも、第二次大戦を終えても、まだ勝者である国はこりていないのか、ニュルンベルクや東京で行われた、国際軍事裁判で、
「勝者による裁き」
を行った。
しかも、国際法としては許されない、人道についての罪などという、いわゆる事後法を適用するという、暴挙を行ったではないか?
そのせいで、死ななくてもよかった人間が処刑されたりした。
確かに、戦争なのだから、平時では考えられない罪を犯した人を裁くというのは、ありえないことではないが、連合国で犯罪人がいないということはどういうことであろう。
日本に対しての犯罪というだけで、ちょっと思い浮かべただけで、何人いるというのか?
「フランクリン・ルーズベルト」(戦争中に死去)
「ハリー・トルーマン」
「カーチス・ルメイ」
「ロバート・オッペンハイマー」
少なくとも、これだけの人間は、起訴されて不思議はないのではないか
特に、後者二人は、人道に反する罪という事後法で裁かれるべきではないのだろうか?
いや、日本においても、人道に対する罪があるとすれば、
「731部隊」
関係者が裁かれていないというのは、どういうことであろうか? アメリカとの密約があったというのが定説になっているが、果たして本当なのだろうか?
そもそも、大陸で戦争をする際に、伝染病や、脚気などの死の病にかからないように研究する部隊だったものが、満州国という独立国にして、日本の傀儡国家という隠れ蓑に隠れて、行われていた、秘密の研究。毒ガスや、生物兵器などの開発が行われていたという。
現地中国人やロシアの捕虜、現地の犯罪人などが、計画的に実験台となって殺されたという。
しかも最後には、敗戦が近づいたことで、陸軍本部から、
「すべての証拠を破棄せよ」
という命令の元、実験の標本や書類関係一式、さらに、相当数いたはずの捕虜の始末。
関東軍だけで、実験台の殺害などできるはずもないので、実験台になるはずだった人間に穴を掘らせて、そこで殺しておいて、捕虜に穴を埋めさせる。さらには、捕虜同士殺させるという一石二鳥のやり方をしたりした。
それでも、抹殺してから、灰にするための、焼却炉はすべて埋まっているのだ。
だから、穴を掘って、そこに埋めるということをしたのだ。
一週間ほどで、すべての証拠を破棄せよというのは、あまりにも、陸軍本部の無理強いはひどいものだったといえるだろう。
それでも、ちゃんと証拠は一切残っていなかったという。
そのあたりを掘り返せば、死体が山ほど出てくるはずなのに、なぜかそれをしなかった。それは、戦後に、彼らと闇取引をするための最初からの計画ではなかったか?
と感じるのは、作者の勝手な妄想だといえるのだろうか。
「731部隊」に関してはいろいろ言われている。今の製薬会社の基礎を作ったのは、731部隊の生き残りだと言われているし、戦後発生した、
「帝銀事件」
と言われる、宝石強盗団が、店の人間を伝染病予防のためと称して、保健所の人間に化けて毒を盛ったと言われる事件であるが、その犯人に、731部隊が関わっているという話もあったりした。
それが、連合国との間の密約によるものだったのかは定かではないが、実しやかに囁かれていたことは確かなようだ。
とにかく、歴史を作るのは、間違いなく勝者であるが、最近になると、敗者も、汚名挽回のチャンスが訪れているのが、今という時代なのだろう。
だから、ある意味、歴史に起こるような出来事が今の時代に進行しているとすれば、
「情報を一方向からだけ見てしまうと、真実を見失ってしまう」
ということが言えるのではないだろうか?
それは今、令和4年の4月時点で起こっている、R国による、U国への侵攻(と言われている本当は戦争)においても言えることで、あまりにも日本も一方だけを贔屓していると、思わぬ飛び火がかかってしまうことになるというのを、きっと平和ボケしている、お花畑にいるような連中には分からないのだろう。物資が不足してきたり、R国が北海道に攻め込んできた時、初めて、
「しまった」
と思っても、時すでに遅いのである。
ゆいかは、さくらを見ていて、
「私と同じような考え方を持っている人なのかも知れない」
と感じるようになった。
ゆいかは、別に自分が天邪鬼だとは思っていない。思ってはいないが、それはただ、
「自分の考えに皆がついてこれないからだ」
と思うからだった。
自分がまわりに逆らっているわけではなく、まわりが自分についてこれないという考え方は、
「どれだけ上から目線なんだ?」
と言われるものなのだろうが、上から目線の何が悪いというのか
ただ、ここからは、天邪鬼とあまり考え方は変わらないかも知れない。
世の中には、ただ逆らいたいというだけで、人に逆らうということだけが、天邪鬼なのだと思っている人が多いだろう。ゆいかが感じる、
「私は天邪鬼ではない」
と思ったのは、そんな何も考えていない連中のことだった。
他の人と意見を分かつのであれば、それだけの理由を示してこその天邪鬼だと思っている。
そういう意味で言えば、
「世間一般に言われる天邪鬼ではなく、自分が考えているような天邪鬼だということであれば、私は天邪鬼なんだ」
と、ゆいかは考えるようになった。
そもそも、ついてこれないまわりを舐めているところのあるゆいかにとって、世の中こそ、自分にとっての天邪鬼だ。いや、それらを天邪鬼だというのは、天邪鬼に悪い気がする。それくらいなら、自分が天邪鬼になった方がいいと考えるようになり、いつしか、自分から、
「私は天邪鬼」
というようになった。
世間一般で言われている悪いことというのは、自ら自分がそうだとはいいがたいものである。
それを敢えていうのは、まわりからすれば、
「それこそ、天邪鬼というものだ」
と言われるだろう。
だが、実際にはそういうことではない。
天邪鬼というものがどういうものであるかということを考えてみると、分からなくもない。
天照大神から、ある土地平定を言われた者が、その使命を忘れ、呑気に暮らしていたところを、別のものを遣わしたところ、自分が遣えていた人から、その別のものを殺すように言われ、矢で射殺してしまったところ、天から矢が降ってきて、自分に刺さって殺されてしまった。
そこで、元々、殺すように命じた人も悪い者ではなかったが、告げ口をしたことが、
「天の邪魔をする鬼」
という意味を持ち、
「天邪鬼」
という伝説となって起こったと言われる。
だから、天邪鬼というのは、鬼であり、妖怪でありと、いろいろな説が残っているようだ。
だから、あくまでも、天邪鬼というのは、
「人の心を見計らって悪戯を仕掛ける小鬼」
というのが、本来の意味であるが、それが転じて、
「他人の思想や、言動に逆らうような言動をするというひねくれもの、あるいは、つむじ曲がり」
のことをいうようになったと言われている。
「本来の意味でも、実際に言われている意味としても、さほど悪い意味に感じられないのは、自分だけだろうか?」
ゆいかは、伝承を知っても、天邪鬼に対して悪い気はしていない。むしろ、
「自分の意思を貫徹して持っている人間」
という意味で、尊敬されるべき人間ではないか?
と思うようになっていたのだ。
だから、天邪鬼というのは、人から言われる天邪鬼というのが、ほとんどで、自分からいう本当の意味でのツワモノと言える、天邪鬼とは、そうもいないだろうと感じていたのだ。
だが、残念なことに、最近仲良くなった、さくらは、天邪鬼とは正反対、どちらかというと、自分が、誰かに寄生しないと生きていけないと思って、奴隷を甘んじて受け入れているかのようなさくらには、本来の意味の天邪鬼は、考えられないのではないだろうか。
だが、ゆりかは、さくらと離れる気はなかった。
これがいいか悪いかは分からないが、さくらは、自分にとっての反面教師であった。
さくらを見ていると、
「自分は、本来の意味での天邪鬼なんだ」
ということを感じさせられると思うのだった。
そして、さくらを、反面教師だと思うようになると、天邪鬼をますます好きになってくる自分が好きになってきた。そして、本来なら苛立ちを覚えるはずのさくらに対して、
「ありがとう」
という気持ちさえ抱くようになった。
反面教師というのは、本来はいい意味ではないのだろうが、ゆいかにとっては、自分の存在価値を再確認するためには絶対に必要な、一種の、
「必要悪」
のようなものではないかと思うようになったのだ。
「必要悪といえば、天邪鬼だって、必要悪のようなものだと、どうして、皆感じないのだろうか?」
どこから、悪という印象がついたのか分からないが、天邪鬼がいなければ、皆考えが一つになってしまって、反対意見のない世界になってしまう。
民主主義にとっての、天邪鬼の存在を否定することは、民主主義を否定するようなものではないか?
民主主義というのは、多数決の世界であり、多数派が少数派に勝つというのが、図式になっている。
少数派すらいなければ、選挙や国会などもありえない。そうなると、誰が国を引っ張っていくというのか? 一人に決まってしまうことになる。そうなると、独裁政治である。
その人の考えていることがすべてであり、のちに逆らう人間が出てきても、少数派などありえないという政治体制になっていれば、あっという間に握りつぶされる。それすら、世間には分からずに、誰も知らない間に抹殺されることで、状況判断もできない世の中になってしまう。
それを考えると、天邪鬼というのは、必要悪であり、少数派が握りつぶされるとしても、存在したということが大切なのだ、少数派として意見が残れば、今はよくても、今の多数派がいずれすたれてきた時、どこへ行けばいいかという考えは残ることになる。
握りつぶされたとはいえ、握りつぶしたのは多数派だった自分たちだ。
「一度潰した相手を復活させることができるとすれば、自分たちしかいないではないか」
という考え方が、出てくる。
それは、天邪鬼の存在があったからだ。天邪鬼という言葉が残っていたからでもあるだろう。
そういう意味で、その人が天邪鬼かどうかということも大切だが、天邪鬼というものを意識している人を探してみたいと思うようになった。
「天邪鬼というものの存在意義が分かる人」
という観点で探していると、意外と近くにいるもので、それが、まりえだったのだ。
まりえは、男子からも女子からも嫌われていた。それは、完全な僻みからで、彼女のかわいらしさに嫉妬しているのだった。
まりえがそのことを分かっているのかは、まわりから見ていて想像がつかなかった。
ただ、まりえのかわいらしさは、その中に、天邪鬼と言えるような「自分」を持っているからこそ、引き立つのではないかと、ゆりかは感じていた。
「この人なら、天邪鬼の本来の意味も分かっているのではないか?」
とも思うくらいになった。
だが、それにしても、ここまでまわりから嫌われるというのは、どういうことなのだろう?
妬みや嫉妬程度のことで、まわりとここまで隔絶しているのは、それが、まりえのオーラに関係しているのではないかと思うのだった。
だが、ゆりかは、自分のそれが、他の人のいう、
「可愛さ余って憎さ百倍」
ではなく、むしろ、
「憎さ余って可愛さ百倍」
ではないかと思えてきた。
つまり、まりえに対して、自分では認めたくはないが、何かの憎しみがあるのではないかと、ゆいかは考えるようになった。
まりえという女の子に対して、どんな憎さがあったというのか?
確かに、可愛いというだけで、嫉妬の対象になっているということが許せないという感覚があったのは、事実である。
しかし、その思いとは別に、
「自分自身が、まりえに嫉妬している」
という感情があったことに気づいていなかったのだろうか?
他の人の意思によって、自分の奥底に潜んでいる気持ちが打ち消されたかのようになり、さらに、自分が好きになったはずの人のことを、嫉妬していたと感じたくないという思いから、
「自分は嫉妬していない」
と思い込んでいたのだ。
しかし、それはあくまでも思い込みであり、嫉妬していないわけではない。
そのため、その思い込みが、いつの間にか、無意識に、ストレスとなっていることはないだろうか?
しかも、そのストレスを感じないことから、自分の憎しみを知ることなく、都合よく、余らせてしまい、可愛さが百倍になっているとすれば、都合のいいというのも、悪いものではないということであろう。
「こんなことを考えているから、自分のことも天邪鬼だなんて思うんだろうな?」
と、ゆいかは感じた。
まりえの場合は、可愛さの中に、自分を持っていうことでの凛々しさがある。
男にとっては、その凛々しさが溜まらない魅力なのだろう。
特に、マゾの男性は、女性から、いたぶられたいという意識があるからか、まりえのような女性に惹かれるのかも知れない。
だが、相手が女性であれば、自分から、
「慕いたいと思うのではないか?」
と感じるようになった。
確かに慕っている感情は、ゆいかにはあった。では、まりえはどう感じてくれているのだろう?
嫌がっている雰囲気はない。
「もし、これが男性だったら、どういう気持ちになるのかを考えてみよう」
と思うと、
「癒されたいと思うのではないか?」
と、ほとんど思案することなく感じたのだった。
「私にも男っぽいところがあるのかしら?」
と思ったが、だとすると、まりえに惹かれるというのは、何かが違っているように思えた。
「まりえの男っぽさが、私の中に共鳴でもしたのかしら?」
と考えた。
同じ感覚を、自分が持っている必要はない。
「人間は、共鳴し合うことで、共有できるものがある」
という考え方を持っている、ゆいかだからこその発想なのかも知れない。
ゆいかにとって、まりえの存在が大きくなりかかっている頃、最初に知り合っていた、さくらのことを、半分忘れかけていた。
「私ってひどいわね」
と感じたが、何がひどいのか、分からなかった。
放っておいたことが悪いというのか?
どちらかというと、まわりから奴隷のように扱われていて、それでも、それを運命として受け入れようとしている、さくらを無視してしまっていたことに苛立ちを覚えるというのか?
それとも、今はハッキリと分からないが、さくらの中にある目に見えないトラウマのようなものが、見え隠れしているのを感じるからなのか?
最後の目に見えない見え隠れするトラウマというのは、まりえにも感じられた。
まりえに対しては、
「彼女が表に出そうとしないのであれば、敢えてこっちから触れるようなことはしないようにしよう」
と思ったのだ。
しかし、相手が、さくらであれば、どうなのだろう? 気持ちを察して、救ってあげるような態度に出なければいけないということなのだろうか?
ゆいかは、さくらの扱い方に、戸惑っているのだった。
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