第4話 生まれ変わりの定義
まりえ、さくら、ゆいか、彼女たちは、年齢的にも近くであり、意外と近所に住んでいた。
こういうおかしな発想を持っているということを、それぞれのまわりにいる人は、知っている人もいるだろうが、
「世の中には、もっと変な発想をするという人は少なくない」
ということを考えていると、
「思春期という微妙な年齢なのだから、妄想だったり、精神的に不安定な状態で、モノを見たり考えたりすることで、情緒が不安定だったりするだけだ」
と見ている人もいるだろう。
だが、これが親ともなると、難しい。
かと言って、思春期を女の子を、いきなり、神経内科に通わせるというのも、それこそ精神的に考えて難しいことだろう。
「とりあえず、段階を踏んで前に進ませないといけない」
という発想から、
「まずは、カウンセリングが一番なんじゃないかしら?」
と、それぞれの親は考えていたようだった。
カウンセリングというのは、今の時代においては、精神疾患と呼ばれる現象や小工具は、どんどん生まれていて、
「それこそ、無数に出てくるのではないか?」
と考えられた。
それに比例して、その場の状況も複雑になっていることから、多岐にわたる精神疾患が見られるようになっていったのだった。
そのために、カウンセリングというのも増えてきているようで、先生の数も、施設も比例して増えてきているようだった。
もちろん、この3人の存在は、これまで、まったく接点がなく、逆に考えると、それだけ精神疾患がありそうな人が近くにいたとしても、まったく接点がないほど、世の中が、複雑怪奇となっているということが言えるのだろう。
カウンセラーというのは、なかなか日本では、まだその教育は充実していないのか、ほとんどのカウンセラーは、海外で研修したり、海外の大学出身者だったりしているようだった。
ただ、それはウワサとして流れているだけで、どこまで信憑性のあることなのか分からないが、覚悟を決めて、娘をカウンセリングを受けさせる勇気を持つことができた母親には、少なからずの賞賛のようなものがあってもいいのではないだろうか?
特に思春期の女の子、精神疾患だと自覚しているかも知れないが、まわりも自覚しているということを知ると、相当なショックだからであろう。
カウンセラーという人は、日本の場合などでは、
「心理療法を使って、精神疾患などが考えられる患者(依頼者やその家族)の精神的で心理的な病苦を治す」
というところであろうか?
中には、精神疾患になるかも知れないという精神的なコンプレックスを克服するという意味で、活動している人もいたりする。
克服するというのは、それ自身をコンプレックスとして感じさせないという方法もあるが、逆に、その近いところに存在する長所を伸ばすことで、補うというやり方もあったりする。
「長所と短所は紙一重」
と言われているが、まさにその通りではないだろうか?
カウンセラーも、相手に合わせるタイプの人もいるだろう。それは、症状に合わせるという意味であり、逆に、自分のやり方を間違いないという強い意志で処置をしている人もいるだろう。
だが、カウンセラーに相談するくらいの人は、下手をすると、自殺予備軍と言われるほど危険な人物である可能性もある。一歩間違えると、自殺されてしまって。社会的信用がなくなることもあり得るのだ。だから、あまり自分に対しての過信は危険だともいえるだろう。
カウンセリングとは別に、
「催眠療法」
というものを用いている人もいる。
こちらは、眠っている相手の本性を引き出したり、催眠術で、心の奥にある、闇の部分を浮き彫りにするということになるので、基本的に何かを施すというわけではないカウンセリングよりも、一歩進んでいるだろう。
カウンセリングを受けたうえで、催眠療法を行うという人もいるだろう、
カウンセリングの結果、治療法の最善の方法として、催眠療法を選択するカウンセラーもいるだろう。
自殺をする人の心理というのは、よく分からない。
「ウェルテル効果」
という言葉があるが、これは、
「誰か、社会的に影響力のある人が自殺をしたりした場合、新聞やテレビなどのマスコミが騒ぐことで、自殺した人の崇拝者たる人物が、こぞって自殺をするというような社会現象のことを刺す」
というものである。
その発想はまるで宗教団体による、集団自殺に似たところがある。
このような状況が増えるということは、それだけ社会が不安定だということもあり、宗教団体がのさばってくる可能性が大きくなるのではいだろうか?
確かに後追い自殺が多いのは、宗教団体などがいい例であろう。ただ、それが、どこまで本当のことだったのか分かったものではない。うがった見方をすれば、団体の権威が教祖の死んだことによって揺るぐのを恐れた幹部が、
「教祖が死んでも、その影響力は大きいということで、後追い自殺が出るほどのカリスマ性だった」
ということを、信者に思い知らせるために、幹部が、
「本当は自殺したわけでもないのに、自殺を装って、虐殺したのだ」
と思わせるかのような状況を、作り出したのかも知れない。
だから、本当は後追い自殺などではなく、生贄として、まるで人柱でもあるかのように、集団殺害を企んだのかも知れない。
そんな恐ろしいことが行われているのだとすれば、
「何が人を救う」
などと言えるのだろうか。
宗教団体は、ある意味、金儲けのための、見せかけである場合も過去にはなかったわけではない。
「宗教が、人を救う」
というのは、宗教によって違う意味を持つが、ほとんどは、
「死後の世界で極楽に行けるように、この世でよい行いをすることだ」
というのである。
だから、過激な宗教は、
「自爆テロ」
のようなことまでできるのである。
心理学というと、難しい学問であり、社会的な現象まで、心理学の考えが影響しているのでではないか?
と言われていることもある、
死んだ人間が、生まれ変わるという考えは、ほどんどの宗教であるようだ。
その中で、一つ気になる考え方があるのだが、
「天界」
という考え方である。(言葉は違ったかも知れないが)
天界というものには、4つの場所があると言われている。
悪事を働いたために堕ちるとされる、
「地獄」
そして、普通に死んだ人間がいく、
「幽界」
そして、徳を積んだ人間が行く、
「霊界」
というところがあり、さらにその上に、
「神界」
というものが存在するとされる。
その中で、
「もう一度人間に生まれ変わることができるのは、幽界に行った人間だけだ」
と言われている。
「霊界以上に行った人間は、そのまま天界で生まれ変わることなく、神として君臨することになるので、下界に降臨したとしても、それは人間としてではないので、生まれ変わったことにはならない」
のである。
「では、地獄の場合は?」
ということになるが、
「地獄に堕ちた人間は、生まれ変わることができたとしても、それは人間として生まれ変わるというわけではない。その場合は人間以外の別の動物に生まれ変わる」
ということになるのだろう。
また、これは面白い話でもあるのだが、
「地獄で蠢いていて、他の動物に生まれ変わった場合、地獄の苦しみが感覚や感情をマヒさせるということから、生まれ変わった時、まったく記憶部分がマヒしてしまっているのだ」
という。
「人間が生まれ変わるには、幽界に、生まれ変わるための時間が必要であり、その時間のために、自分が生きていたという記憶が失せてしまったというわけで、生き返った時に、まったく覚えていないというのは、別に記憶を消されて生まれ変わっているわけではない」
という考え方だった。
ということになれば、人によっては、前世での記憶をかろうじて持ったまま、生まれ変わっている人がいてもいいだろう。
実際に、
「自分が、有名な戦国武将の生まれ変わりだ」
とか、
「自分は農民だった」
などという、どこまで信じていいのか分からないという感覚が残っていたりする。
一般的に信じられているものとして、
一般的に言われている生まれ変わりとは、少し違っているようにも思えるが、それでも、
「過去の記憶を覚えていない」
ということに関して、それなりに説得力があるという意味で、この説もまんざらでもないという思いもあるのであった。
ゆいかが、
「自分は、誰かの生まれ変わりだ」
と思っているとしても、それは、基本的にほとんど、生まれてきた人は誰かの生まれ変わりだとも言えなくはないだろう。
ただ、昔の記憶がないので、そう思っていたとしても、それを前面に出して、自ら考えるということはしない。むしろ、
「そう考えるのは、あまりいいことではない」
という妄想に近いものを抱いているのかも知れない。
それは、生まれ変わりというものがどういうものなのかということを、自分なりに理解しようと思っているからだ。
「生まれ変わり」
という定義にも、広義の意味と、狭義の意味とがあるような気がする。
広義の意味としては、
「生まれ変わりというのは、人間が人間に生まれ変わるというすべての場合のことを刺す」
という考え方と、狭義の意味としては、幾種類かあるのだろうが、一番に思いつくこととしては、
「誰かが死んだその瞬間に、誰かが生まれたその時に、死んだ魂があの世に召されるわけではなく、生まれた人間の魂として入り込む」
ということであるが、これにはいくつかの疑問がある。
まずは、
「生まれた人間の魂というのは、どこに行ってしまったのか?」
という考え方だ。
これを逆に、
「生まれ落ちた時、すべての肉体に魂が宿っているわけではなく、魂が宿っていない人間には、その瞬間に死んで、あの世に召させる魂が、生まれた肉体に、新たな魂として入り込む」
という考えだ。
これは、ある意味で説得力がある。
「もし、入り込む魂がなかったとすれば、その子は死産として、生まれながらに死んでいたということになるのだろう」
という考え方だ。
皆が皆、生きて生まれてくるわけではない。それを考えると、死産は、入り込んでくれる魂が見つからなかったことで、そのまま生まれることはなかったということで、
「死産」
ということよりも、
「生まれるはずのなかった肉体だけが、存在した」
という不思議な発想になるということではないだろうか?
つまり、
「人間の生き死にというものには、肉体の生死が、偶然という形で魂が都合よく存在するということを孕んでいる」
といえるのだ。
そういう意味では、
「偶然」
という言葉には、それだけの重みが、人間が考えているよりもあるのかも知れない。
ただ、ここでいう偶然という意識はあくまでも人間が持っているもので、それだけ、偶然というものは、人間界では、
「頼ってはいけないものだ」
という感覚である。
しかし、天界では、偶然というものは存在しない。存在するとすれば、それは、神々が独自に起こす、この世でいうところの、
「奇跡のようなもの」
であり、
これは天界では普通に存在しているものだとすれば、神の世界での偶然というものは、
「全体を都合よくするものではなく、あくまでも、一部だけに都合のいい現象」」
ということで、そこには、誰か単独で、自分に都合よく、神に備わっている力を発揮したということになるのかも知れない。
だとすると、人間の生き死にも、誰か一部の神の仕業によって行われていることだとすれば、人の生き死には、最初から決まっているものではなく、最初から決まっているところまで本当に生きられた人間というのこそ、本当の寿命を全うしたということになり、人間界では、大往生と言われるのだ。
ただ、これは神がまったく何も関わらなかった場合であり、人間界で起こるすべてのことは、少なからずに神の力が働いているとすれば、それこそ、ギリシャ神話に出てくる、
「オリンポスの神々」
の発想ではないだろうか?
オリンポスの神として君臨している神々は、ギリシャ神話の中では、
「彼らほど、人間臭い者はいない」
といってもいいかも知れない。
「人間でも、そこまではしないだろう」
と思うようなことを、なまじ力を持っていることから、やってしまうのではないだろうか?
「人間が、生まれた時、魂が入っていなかったのも、ある意味、生誕の神というのがいれば、その神の怠慢である」
と考えたとすれば、
「ちょうどその時、死んだ人の魂を、うまく、利用できるのであれば、それも、神の仕業だ」
とすれば、この場合の神も、しっかりと、人間界の生死について、チェックしている神もいるということだろう。
もちろん、見逃して、死産になってしまう場合も少なくはないが、それはその神の責任ではない。
「できるだけ、この世に生を受けさせるに越したことはないが、できなかったといって、この神に責任を押し付けるのは、酷というものだ」
といえるであろう。
死んだ魂が、彷徨わずに、幽界に行けるようにいざなうのも、神の仕事だ。死んだ瞬間から行き先が決まっていたのか、それとも、どこかで一定期間待機させられ、その間に神の世界で、どこにいくかということを審議されるのか、後者の方が、今信じられていることとしては大きいようだ。
だが、実際は、
「神のみぞ知る」
ということである。
「仕事」
と、
「仕業」
という言葉があるが、どう違うのだろう?
何となく意味は分かる気がするのだが、あくまでもニュアンスという意味でだけだ、
「仕事というのは、しなければいけないことをすることであって、それだけに、無しと下手時に報酬が伴うものである」
逆に、
「仕業というのは、自分がしたことや、行為そのもの、あるいは、ならわしのようなことであって、仕事のように、達成しても、何んら報酬はない」
というものだ。
別の言い方をすると、
「仕事というのは、誰かのためにすることであり、仕業は、単純に物事ができた結果であるということで、仕事の場合の誰というのは、自分であっても、全然問題のないことだといえるだろう」
実際の言葉のニュアンスも似たようなものであるが、ただ、
「仕業」
という言葉には、本来の意味の、曖昧さというよりも、何かの作為のようなものが感じられる。
「わざ」
という読み方が、どうにも作為的な意味を感じさせるのかも知れない。
そう考えると、人間界における、
「偶然」
というのも、
「実は神が人間界に催すわざが、まるで偶然のように思わせることで、それを、神の仕業と考え、ギリシャ神話のようなものができ、逆にいうと、人間界に起こっていることで、不思議で理解できないことを、神による仕業ということにして、神というものを利用して、理屈づけようとしている」
のかも知れない。
ということになれば、神というものでさえ、その存在を利用されただけだということになるのではないだろうか?
それを考えると、生まれてきたあ時に、他の人の死んだ魂が入り込むというアクシデントも、偶然という言葉を使えば、
神の存在自体を、偶然という言葉で片付けることで、人間界にもたらされたすべての災いを、
「神のせい」
として、責任転嫁ができるのだ。
神として奉っておきながら、実は自分たちの理由付けのために利用するために創造されたのだから、神というのも、ある意味可哀そうである。神の存在を認めないということは、人間の都合のいい解釈の責任転嫁ができないということになるのである。
「神にならなくて、人間でよかった」
と思う人も結構いるに違いない。
このような生まれ変わりに関して、自分で悩んでいたのが、ゆいかだった。
ゆいかの中には。自分の中に、
「もう一人の自分がいる」
と思っていた。
だが、そうは思いながら、自分ではないという意識も強かった。
なぜなのかというと、
「自分よりも、自分のことをよく知っている」
と思ったからだ。
自分というものを普通であれば、鏡のような媒体がなければ見ることができない。だからこそ、
「自分でありながら、いや、自分であるからこそ、自分のことが見えてこない」
と思っている。
逆にいえば、
「まわりが自分を判断してこそ、自分の存在価値があるのではないか?」
と考える自分がいる。
これがきっと本当の自分なのだろう。
だが、心の中を覗こうとすると、それ以上に、自分をブロックしている自分がいた。自分をブロックするなど、普通であれば、考えられない。中にいる自分が本当の自分ではなく、本当の自分にその存在を知られたくないという思いから来ているのではないかと思うのだった。
ゆいかは、自分の中にいるのは、
「もう一人の自分なのか、もう一人ではあるが、自分ではない、何者かがいるのか?」
ということで悩んだりした。
「ドッペルゲンガー」
というものがあるが、あれは、もう一人の自分が、自分以外に存在しているということだ。
つまり、その人物には実態があるということだ。
だが、それをもう一人の自分だと認識してしまって、そのもう一人の自分を見てしまうと、近い将来、死んでしまうという言い伝えがある。
これも、もし、神という存在が、人間に対してのいじわるから、そのようなことをしたのだとすれば、それこそ、
「パンドラの匣」
における、
「パンドラ」
のような存在ではないか。
この話は、例のギリシャ神話の話で、当時人間界には、男しかおらず、苦労して生きていたのだが、その時、ゼウスから、
「人間界に、火をもたらしてはならぬ」
という命令があったにも関わらず、プロメテウスは、人間擁護派だったので、神の国にある火を、人間に与えた。
つまりは、その時代に、女だけではなく、火もなかったのだ。
だが、そのとたん、人間界では殺し合いなどが起こったという。それを予期していたゼウスが危惧して下した命令をプロメテウスは破ったことで、
「プロメテウスには罰を、そして人間界に、災いを」
ということいなり、人間界に使わされたのが、
「パンドラ」
という、人間界初の女性だったのだ。
つまり、パンドラは、人間界に災いをもたらすための人間界最初の女だということになるのだ。
そんなパンドラが持たされたのが、
「災いの詰まった匣」
だったのだ。
実際に、それが放たれて、人間界は不幸のドン底に陥ったが、滅亡することはなかった。それは、匣の底に、希望のようなものが残っていたという説がある。
これが何を意味するものなのかは、このお話では分からない。だが、ギリシャ神話において、ゼウスもプロメテウスも、パンドラも存在したということになっているのだ。
ただ、今も広く信じられているような、神とは、ギリシャ神話の、
「オリンポスの十二神」
は違っているのだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます