第3話 生まれ変わりの女
ゆいかが、自分のことを、
「誰かの生まれ変わりではないか?」
と思うようになったのは、中学に入ってからのことだった。
その理由は、中学に入ってから、本格的に習うようになった、歴史の授業の影響だった。その頃になると、本を読むのが好きになっていた。恋愛小説など、読みたいと思っているのだが、どこかに躊躇があった。
その理由としては、
「最近の恋愛小説というと、純愛というよりも、不倫などのドロドロとした小説が多いからではないか?」
と思ったが、実はその傾向は今に始まったことではなく、恋愛小説というと、ドロドロした系の小説の方が結構昔から多かった気がした。
純愛というと、どちらかというと、マンガのイメージが強く、小説で読もうとすると、どうしても言葉が難しくなってしまうという感覚があったのだ。
そもそも、源氏物語だったり、枕草子などの物語が、恋愛小説というイメージなのかも知れないが、源氏物語など、ガチガチの不倫ものだったりするではないか? どうしても、純愛ものというと、マンガのようにビジュアルなものがないと、印象に残らないというべきか、ドラマなどで、恋愛ものという印象があるものは、どうしても、原作がマンガだったりするではないか。
マンガ家でも、恋愛マンガといえば……、という意味で、ドラマでは、毎クール必ずその人の原作が、ドラマ化しているのではないか? と思うのだった。
小説というのも、中にはドラマ化しているものもあるかも知れないが、それは、ライトノベルであったり、ケイタイ小説のようなものが多い気がする。
ケイタイ小説やライトノベルというと、昔の2チャンネルや、ケイタイで読めるような形で、あくまでも読みやすさを強調するという意味で、無駄に空白が多いというイメージがあったり、顔文字などが、活字のように、本となっているという不思議な世界が広がっているものだった。
そんな小説が、芥川賞や直木賞を受賞するなどと言った時、
「なんて時代になったんだ」
と、ゆいかの親の世代では感じたことだろう。
何と言っても、今の時代は、
「ペーパーレス」
新聞も、小説も、スマホやパソコンで読める。
だから前のように、毎朝の新聞を取る必要もない。当然のごとく、駅で新聞を買って、満員電車で新聞を読むという光景もなくなってしまった。
何しろ、もう今駅では、鉄道会社がやっている売店はなくなってしまった。
販売関係は、コンビニが代行してやっているので、少々の大きな駅でなければ、朝の出勤ラッシュで、新聞を買うということはできない。
「新聞が見たかったら、スマホで見ろ」
ということであり、新聞屋さんは、早朝配達して回ってはいるが、昔のように、ほとんどの家に投函することもないだろう。
そんなことを考えていると、
「世の中の風景も、かなり変わったものだな」
と感じるのだ。
以前であれば、大きな駅の近辺に、あれだけあった、本屋であったり、CD屋さんというのはほとんど見なくなった。
電車の時間までの暇つぶしというと、駅構内の本屋で立ち読みというのが多かったのに、その本屋が今は存在しないのだった。
それを思うと、本屋だけではなく、駅の光景が変わったと感じ、
「前の方がどれほどよかったか?」
と感じることから、駅構内をリニューアルすると言われると、
「どうせ、しょうもないリニューアルしかしないんだ」
と思うに違いない。
本当に、売れるものしか、駅にはないということなのだろうと、思うのも、無理のないことなのだろうか?
恋愛小説があまり興味の持てるものではないと思うと、ミステリーを読むようになった。
それも、戦前の小説を好んで読む。それは、歴史で習った、昭和という時代を表しているからであった。
昭和という時代には、中学に入った頃は興味がなかった。一般的に皆が好きで、れきっしドラマになりやすい時代に、ゆいかも興味を持ったのだが、大きく分けて、三つの時代ではないだろうか。
まず最初は、12世紀後半の、自称・寿永の乱と呼ばれる、昔でいうところの、
「源平合戦」
の時代である。
なぜ、源平合戦と言わなくなったのかというと、保元の乱あたりから始めり、基本的には壇之浦までと言われる戦において、確かに基本は源氏と平家の争いではあるが、それだけではない。木曽義仲と義経の戦、さらには、義経と頼朝の追討軍との戦など、
「源氏同士の戦」
というものが、結構あったりした。
そういう意味でいけば、確かに源平合戦ではない。最近の歴史認識は結構シビアになってきて、発掘調査などが進んでいくうちに、今までの定説が、実は間違いであったということも少なくはない。
「いいくにつくろう鎌倉幕府」
と言われた鎌倉幕府の成立年が諸説あってみたり、有名人の肖像画が、
「実は違う人物だった」
というものも結構ある。
厩戸皇子(聖徳太子)、源頼朝、足利尊氏、武田信玄、西郷隆盛など、誰もが知っていて、肖像画も名前を聞けば、想像できるような人たちばかりである。
さらに、人の呼び名も同様に、その時代にはない官位だとかという意味で、聖徳太子を、厩戸皇子と呼ぶようになったりしているではないか。
歴史というのは、確かに時代時代で認識が変わることもあるし、歴史書の発見や解釈ななどで、実は悪者だと言われていた人たちがその時代の流れで、次の時代で政権が変わったことで、それまでの時代のものを、ことごとく破壊するということも平気で行われてきた。
だから歴史認識も、
「勝てば官軍」
ということで、敗者の歴史は、それ以降抹殺されるということも仕方のないことであろう。
特に徳川時代に入ってから、豊臣時代のものは、片っ端から壊されたという歴史がある。何といっても、大坂の陣がそれを証明しているではないか。
さて、三大と言われる時代とすれば、次に興味深いのは、いや、一番人気と言ってもいいかも知れないのが、戦国時代から、安土桃山時代に繋がる、
「群雄割拠」
と呼ばれた時代である。
北条早雲(伊勢新九郎)や、毛利元就、斎藤道三などの台頭により、応仁の乱などで弱体化してしまった室町幕府に変わって、地方の守護大名が力を持ったり、国人や配下の武将が、守護大名に取って変わるということで生まれた戦国大名の群雄割拠において、いわゆる、
「国盗り合戦」
が、行われた時代である。
織田信長、羽柴秀吉の台頭、本能寺の変において、歴史は動き、羽柴秀吉によって天下統一がなされたのである。
天下統一によって、戦国時代が終わり、織田信長の安土城、秀吉の伏見城(桃山文化)によって花開いた安土桃山文化、この時代は、それまでの
「戦うための城」
というイメージを払拭し、大阪城、聚楽第を代表とした絢爛豪華で、天守閣を持った城が現れたりした。富が権力であり、秀吉の改革は、江戸幕府の基礎になったというほどしっかりしたものであったが、途中での秀次事件であったり、朝鮮出兵、あるいは、千利休切腹事件など、秀吉の暴挙があったことと、ハッキリとした後継者が、育つ前に秀吉が亡くなったことで、家康の天下が巡ってきたということであろう。
ただ、秀吉個人で言えば、暴挙があったとしても、偉大な天下人であったということに変わりはない。
「戦のない平和な世界」「
を築き上げたのは、まぎれもなく秀吉なのだからである。
この時代は、個性豊かな戦国大名。あるいは、戦の奇抜さや、政治手腕に至るまで、興味深いことが多いのだ。
さらにもう一つの時代というと、何と言っても、幕末であろう。
ペリー来航から始まる開国から、安政の大獄、桜田門外の変と、最初は、攘夷運動が盛んで、
「外国人打ち払い令」
というものが出たりしたが、結果、攘夷派としての急先鋒であった薩摩と長州がそれぞれ単独で外国と戦い、手痛い敗北を喫することで、
「外国の力を思い知った」
ということになった。
そのため、それぞれの藩は、
「尊王攘夷」
という理念を抱き、
「そのためには、倒幕が必要だ」
ということになった。
そんな時代に、力づくでの倒幕が必要として、薩摩、長州、土佐、佐賀などの藩が結んで、朝廷に歩み寄り、幕府を倒すということで、幕末の戊辰戦争が起こることになるのだ。
紆余曲折があっての倒幕が完成し、新しい時代の明治政府ができたのだが、それが落ち付いてくるまでに、数十年かかった。そして、それまで諸外国と結んでいた不平等条約が解消されていくまでには、さらに時間が掛かることになるのである。
そんな幕末という時代も、ドラマなどでよく登場する。
この三大時代というのは、歴史を時系列に見ても面白いが、人物に絞ってみても、興味深い人が多い。
治承・寿永の乱の時代であれば、平清盛、源頼朝、義経などであり、戦国時代は多すぎるが、織田、羽柴、徳川の天下人であろう、そして幕末もたくさんいるが、西郷隆盛、桂小五郎、坂本龍馬などが、その代表であろうか?
さらに、本能寺の変であったり、竜馬暗殺という、歴史の最大ともいわれるミステリーが起こったのもこの時代ということは特筆すべきことであろう。
こんな時代に興味を持っていると、それ以外の歴史も勉強したくなる。それは、歴史には、
「原因があって結果がある。それが事実となる」
と考えると、何かの結果が出れば、そこに原因があり、その原因が、前の時代から続く結果だったりもするだろう。
そうなると、歴史を時系列にして、縦で勉強してみたいと思うのも無理もないことで、だからこそ、歴史は楽しいのだ。
そうやって見ていくと、自分にとってブラックボックスだと思っていた時代にも、意外と興味深い人や、地元に関係のある人がいたりして、そんな人の歴史を知ろうと、名所旧跡を訪れてみるということも大いにあるだろう。
そんな時代を勉強していると、歴史が好きになってきて、歴史的な背景を元に本を読むと、本を読むことの醍醐味である想像力が、湧きたてられるのであった。
歴史の本というと、今まではノンフィクションを読んでいた。人物や事件を、史実に基づいた話を読むことで、直接的な歴史の勉強をしていると思うのだった。
だが、そんな小説を読んでいく中で、一度読んだ本がフィクションで結構面白かった。タイムトラベルもので、SFチックだったのだ。
歴史の本の中には、
「歴史小説」
と言われるものと、
「時代小説」
と言われるものがあるという。
歴史小説というのは、史実に基づいて、人物や事件について書いているものであり、時代小説というのは、時代劇と呼ばれるような架空の人物が主人公であったりするものだ。時代小説というのは、登場人物に実在の人物がいてもかまわないし、史実と違って、筆者の歴史に対する独自の解釈であったり、読者が面白いと思えるエンターテイメント的な小説であってもかまわない。
しかし、歴史小説であっても、時代小説であっても、基本的に時代考証というものが狂っていてはいけないだろう。もし、時代考証が違っているのであれば、それは時代小説ではなく、SFであったり、ミステリーであったり、コミカライズな小説となるであろう。
ゆいかが読む小説としては、時代小説であっても、歴史小説であってもいいのだが、完全なフィクションではなく、少なくとも、登場人物の中には実在の人物がいて、ある程度史実に近いものが多かった。ただ実在する人物であっても、立場がまったく違ってるという小説は、史実と比較して読めるということで、興味を持って読める小説だといえるであろう。
そのうちに、今回読んでいる小説の中には、SFチックなものでありながら、そのSFが心理学的な発想を持っていることで、時代小説が、SF風であり、オカルトの要素もはらんでいた。
読んでいるうちに、
「これは、オカルトだ」
と感じるようになってくると、オカルト小説というものが、そもそも、SFであったり、ミステリーであったりなどの、いろいろな小説が絡んで切ることに気づかされるのだ。
そんなことを考えていると、
「私も小説を書けるようになるのではないか?」
と感じるようになってきた。
ただ、実際に書いてみたいのは、オカルト小説で、このオカルト小説というものほど、書き始めはそこまで難しくはないが、終わらせ方が実に重要なのだ。
探偵小説や、SFは、とにかく書き始めが難しい。それはある程度まで小説の落としどころを理解していないと、書けないということである。
特にオカルトは、SFや、ミステリー、さらには、奇妙な話を、最後にうまく絡ませて、伏線をしっかりと回収しなければ、書けるものではないというものだ。
最初に伏線を敷いておくことが重要であるのだが、そんなに簡単に小説が書けるものだろうか?
小説を書いてみたいと思ったのは、中学三年生の頃だった。
最初は、高校受験の息抜きになればということで気楽に書いていたが、高校に入学すると、そこで、高校の文芸サークルに入った。
そこでは、あまり高い部費ではないので、安めになってしまうが、一年に数回、同人誌のようなものを発行していた。
まずはそこに載せてもらうというのが第一の目的だった。
最初に書いた小説は。
「自分が誰かの生まれ変わりだと思っている」
というような話だった。
その話は、ゆいかとしては、
「それは自分が実際に体験した話だ」
と書いていると、内容的には、到底信じられるものではない。
それなのに、妄想という感じが代わりにはないようだった。
どちらかというと、
「妄想ではなく、瞑想」
という感じで、
「妄想というと、架空の話をあたかも本当のことのように感じることであって、瞑想は、自分一人で、自分の世界に入り込むことで、ウソだと思うことであっても、本人には本当のことでしかないようにまで感じることなのではないだろうか?」
自分の中で、考え込みすぎると、普通は瞑想に陥るものだ。これが妄想にまで行ってしまうと、考えていることを、眠気が覆いかぶさってくるようになり、考え込むことが却って、
「妄想しているのではないか?」
と思い込んでしまうのであった。
妄想と瞑想の違いについて考えあぐねてしまっていると、
「妄想と、瞑想、どっちを思い浮かべた方が、小説として自分の納得がいくものが書けるか?」
と考えた時、
「瞑想ではないか?」
と思うのだ。
妄想を抱いていると思うと、自分が、妄想に支配されているような気がしてくる。
瞑想は抱くものではなく、一人で冷静になって感じることで浮かんでくるものだった。
妄想は、思い抱かなくても、心の中に潜んでいるものを、架空の存在として感じることが、心の奥から滲め出てくるものだと思うと、瞑想のように、抱くことが難しいものではにないと思うのだった。
それだけ簡単なものであるだけに、架空の考えだと思い込んでしまうのだった。
一人で、ゆっくりと、自分の世界に入るという、普通にありえる発想が、妄想であり、それだけに、他の人と乖離した世界を築き上げているのかも知れない。
「妄想と瞑想」
似ているようで、実はまったく違っている。
「歴史小説と、時代小説の違いのようなものではないだろうか?」
と感じるのだった。
ゆいかは、歴史も好きであったが、それ以外に、理論物理学というものも、好きだった。さすがに実際にまだ中学生くらいなので、そんなに数式などのような詳しいものが分かるわけではないので、あくまでも、理屈として考えているだけだった。
奇妙な話の小説を読んだり、自分でも発想をしてみようと思った時、物理学的な発想がどうしても不可欠で、逆に本を読む際も、物理学の発想が頭の中にあれば、漠然と読んでいる時と違って、自分が書く時に大いに役立つということになるのであった。
いろいろな小説を読んでいる中で、最近よく見かけるものに、大きく分けて、2つほどあるだろうか?
一つは、タイムスリップもので、その中でも面白いと思った小説が、
「未来から来た人間が過去の人間と入れ替わっている」
という話であった。
「そんなことをすれば、未来が変わってしまうのではないか?」
と思われるかも知れないが、
「あくまでも、入れ替わった人間というのは、サイボーグであり、改造人間である。まったく同じ人間を作り出すという技術を有した未来人が過去にやってきて、自分たちの研究の成果を実験しようとしている」
というものだった。
ちょっとした実験というくらいなので、最初は一人だけでやっていた。
その時代になると、パラレルワールドについても計算されていて、まったく未来が変わらないというわけではないことも証明されているのだが、どこまでその変わった歴史の影響が表れるかということが問題なのだった。
この実験は、実は、重大な意味を秘めていた。未来人にとっての、存亡という危機が迫っていて、一つは、
「若い人たちの労働人口が減ってしまっている」
ということだ。
未来では、人間の職をロボットが奪ってしまっていることで、一時期、人間が堕落してしまい、労働など人間にはない時代となっていた。
そのため、一気に人間が想像以上の速さで退化してしまい、本来、人間が担わなければいけない部分ですら、未来人では、どうすることもできなくなっていた。
そのため、過去の人間を誘拐してくる必要があったのだが、そのまま誘拐してくれば、歴史が変わってしまうので、過去の人間に分からないように、そして、過去の歴史を変えないように、未来に過去の人間を移送することを行った。その身代わりは、ロボットではだめで、元々人間だった、サイボーグを対象者ソックリに作り替えた形のものでなければいけなかったのだ。
その際に、記憶を消したり、いろいろあるのだが、では、
「なぜ、そんな技術があるのであれば、サイボーグを未来の世界だけで、完結させることができないのか?」
ということになるのだろうが、それが不可能だったのだ。
というのは、未来には、人間が作ったロボットが存在していて。ロボットも、人工知能が入っているので、サイボーグに対して、拒否反応があった。
しかも、サイボーグにとっては、ロボットというのは、
「下等な存在だ」
という意識があることで、お互いにまったく機能しないのだ。
これでは、完全に本末転倒な状態だといってもいいだろう。
未来人は、自分たちの利益だけを考えてやっていることであった。
「過去があって未来がある」
という発想を、今の人間は持っているが、未来の人は、そこまで考えていないようだった。
そんなこともあり、未来人は、過去の人間のことを、完全にバカにしているような考えを持っていた。
現代人とすれば、
「過去の人間の生きた歴史があるから、今の自分たちがいるのだ」
ということで、いい悪いは別にして、それなりに、過去の人たちに対して、尊敬の念を抱いている。
ただし、逆に未来の人間に対しては、まったく考えていない。なぜなら、タイムマシンも存在しなければ、
「現在を生きるだけで必死」
だからである。
今でこそ、
「持続可能な」
などと言って、環境問題などを中心に、未来に対して、いろいろ考えるようになったが、それまでは、まったく考えもせずに、
「今さえよければ」
という形で、文明を発達させてきた。
未来人はそうもいかない。
そんな過去の連中の、未来を考えない暴挙によって、このような時代ができあがってしまったのだから、過去の人間のことなど、
「歴史さえ変わらなければ、どうでもいいんだ」
くらいにしか思っていない。
それだけ、未来と今とでは、時空認識が正反対に近かったのだ。
「よく、こんな発想が生まれてくるわよね」
と思うほど、小説がすごい発想になっている。
だが、タイムパラドックスも、今考えられているものが、
「絶対に正しい」
というものではない。
何と言っても、未来人は、現代では、
「まず、開発は不可能ではないだろうか?」
と言われている、ロボット開発と、タイムマシンの製造に成功していて、実用化しているということが、今の人間からは、信じられないことなのだ。
タイムマシンというのは、何と言っても、タイムパラドックスの問題があることから、特に、
「過去に行くことは、タブーだ」
とされてきた。
今回のこの発想も、一番の懸念は、
「過去が変わると、歴史が変わってしまう」
という、問題があるからだった。
当然、タイムマシンを実用化するにあたった、それらのことは、
「科学的に証明できる」
というところまで、考えが及んでいなければいけなかったことに違いない。
だからこそ、満を持して、未来人は、
「自分たちと、その未来を守るため」
という理由で、
「過去の労働力をもらおう」
と考えたのだ。
この発想は、実は、昭和の時代から考えられていたことだった。
特撮やアニメなので、宇宙からの侵略されるその理由として、
「地球人の若い労働力がほしい」
という理由で、人間を誘拐したり、蒸発させたりする宇宙人という発想であった。
しかも、面白いことに、1960年代の特撮に、今回の小説と似たような発想があったのだった。
作者が、その特撮を知っているのかどうなのかは分からないが、下手をすると、盗作と言われかねないほどであった。
だが、もう、60年近くも経っていることから、盗作というところはどうなのだろう?
幸いに、問題になっているわけではなかったので、過去の特撮を知っている人が、今のこの小説を読んでいるという、
「どちらも」
という人は、なかなかいないのではないだろうか?
また、もう一つのロボットの問題もそうである。ロボット開発の問題には、2つほど懸念があった。
一つは、
「フレーム問題」
というもの、そして、もう一つは、
「ロボット工学三原則」
と呼ばれる問題だった。
フレーム問題というのは、ロボットが人工知能を持ちながら、人間の命令に従っている時、人間であればできるはずの、融通が利かないのだ。
「どうすれば、危険である」
などということは、ある程度分かっているのだろうが、複雑な状況判断が必要な場合には、機能しない。なぜなら、
「それだけ無限に、可能性をはらんでいるからだ」
ということだ。
それを解決しようとしてパターン化させても、結果として、
「無限というものは、何で割っても、結局は無限でしかない」
という数式が物語っているということになるのだった。
それを強引に解釈しようとすると、必ず、矛盾が出てきて、無限ループに嵌りこむ。それが、フレーム問題なのだ、
三原則というのは、いわゆる、
「フランケンシュタイン症候群」
のようなもので。せっかく開発したロボットが、人間に反旗を翻すと、強力な力があるだけに、人間で抑えることはできないので、最初から、
「人間には絶対服従」
というプログラムをセットしておく必要があるということなのだ。
そんなゆいかが最近考えるようになったのは、
生まれ変わり」
という発想だった。
「世の中は、同じ日にたくさんの人が死に、そして生まれている」
という発想から、
「だったら、同じ日に生まれた人間の魂に、生まれ変わりという人間がいてもいいのではないか?」
という発想である。
小説に書いてみたりもしたが、結構難しい発想だということは、重々承知のうえでのことだった。
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