第2話 フレゴリ症候群
さくらという女性は、まりえと違って、いつも女性に利用されているタイプだった。
最初こそ甘い言葉で、
「友達になろう」
という、そんな言葉に引き付けられ、
「ええ、私のような者でよければ」
というのだ。
この、
「私のような」
という言葉がさくらの人間性を表している。
彼女はまわりに対して、どうしようもないくらい。卑屈になっているのだ。しかも、それが正しいことだとして、さくらは、自分を自分の造り上げた虚像に自らで引き込んでしまうところがあった。
こんな女性は、
「女が数人いれば、その中には一人くらいいる」
と言われている。
それは、集団がそういう女性を引きこむのか、それとも、一人のカリスマの力がそういう女を欲することで、そのカリスマ女性に引き込まれるのか?
もちろん、引き込んだ方も、引き込まれた方もそんな意識があるわけではなく、
「自然と入ってきた」
と思われることだろう。
しかし、実際にそうであっても、いったん引き込まれてしまうと、その瞬間から、その女の運命は決まったも同然だ。
つまりは、
「力関係が一瞬にして確立する」
ということになる。
力関係というのは、それぞれの持って生まれた性格が、お互いに引き合った場合、そこに生まれるのは、
「主従関係しかない」
というものである。
それは、武士が生き残るために築いた封建制度のようなものである。
ただ、封建制度というのは、将軍が御家人に対して、土地を領有して、その土地を分け与えること。そして、御家人はその将軍に対して、その礼として、いざ戦があった時には戦いに興じるという、
「軍事奉仕」、
さらには、貰った土地でできた作物を、献納するという、
「年貢奉仕」
という形での、いわゆる
「奉公」
というものが、君主と諸侯による、
「双方向の恩給と奉仕」
という形で存在している。
しかし、さくらが関わっているところの、
「主従関係」
というのは、現代における
「絶対君主制」
と言ってもいいかも知れない。
王国になどによる、君主が絶対的な権力、つまり、統治におけるすべての権力を持っていて、そこには憲法などでの制限を受けることのないものをいう。
ちなみに、日本国の前の大日本帝国は、絶対君主ではない。憲法に守られた、
「制限付きの君主国」
であり、いわゆる、
「立憲君主」
という言葉で言われるものなのだ。
さくらの場合には、子供の世界で憲法などのような制限は存在せず、まわりが見えていないのか、それとも見て見ぬふりをしているからなのか、まるで、奴隷のような扱いを受けていたのだ。
だが、それも、いつも同じ人から受けている奴隷扱いというわけではない。まわりにいる連中から、その時々で、奴隷のようにあしらわられ、うまく利用されているのであった。
そんな状態を、さくらも自分から抗おうとはしない。それが、さくらの小学生時代だった。
これは、苛めというのとは、少し違っていた。
苛めというと、決まった苛めっ子というのが存在し、いじめられっ子というものが存在することで成り立つのは同じことなのだが、一番違うのは、同じように、他の人はなかなか知ることができないのは、
「苛めというものが、苛めっ子側で、必死に隠そうとしていうこと」
であった。
だから、苛められる子は、必死で苛めてくる子から逃れようとして、不登校になったり、まわりから、何かを言われないように引きこもってしまうことになるのだ。
苛められていることに対して、いじめられっ子は意識がある。これはいじめられっ子それぞれに性格の違いがあるのだろうが、
「苛められているということに対し、自己嫌悪に陥るというもので、苛められている自分を恥ずかしいということで、その事実を自分が認めたくないという思いから、まわりに自ら隠そう」
とする行為、さらには、
「親や先生が、いじめられっ子にも問題があるとして、下手に苛められていることを話したりすると、最終的に、すべてが敵になってしまい、自分が苛めのスパイラルから抜けられない」
と感じること。
実はこれが一番恐ろしく、この思いが過剰になってくると、自殺などに追い込まれてしまいかねないということになるだろう。
そして、もう一つは、今度は逆に、
「親や先生にいうと、苛められている子に、必要以上に加担してしまい、苛めっ子がすべて悪いということで、問題が大きくなりすぎて、事態が収拾つくことがなく、却って苛めっ子を煽る形になり、お前が告げ口をしたせいで、俺たちが悪者になったなどということで、苛めがさらに加速する」
ということになってしまう。
この場合も悲惨なことになるが、意外とこういうパターンが多いのかも知れない。
だが、さくらの場合の
「絶対的な奴隷制度」
のような関係は、まわりを巻き込む前に、すでに主従の間で出来上がってしまっているのだ。
だから、奴隷扱いされている、さくらも、まわりからは、
「完全に奴隷扱いされている」
ということが見えていたとしても、本人に嫌な気がしていないのだから、まわりはどうすることもできない。
本人たちが納得してやっていることなのだから、主君側もまわりに隠そうとすることはない。
むしろ、
「私には奴隷がいるんだ」
というのをまわりに知らしめることで、自分のマウントを取ろうという意識が芽生えることになるのかも知れない。
それが、さくらの小学生時代の生き方であり、
「人それぞれに生き方があるけど、これが私の生き方だ」
と思っていた。
小学生の頃から、自分の生き方を限定している人は、ほぼいないだろう。
何しろ、まだ成長はこれからで、自分がまだ子供だという意識があるからである。
「子供の自分が、まだこれから未知の可能性を秘めているかも知れないのに、最初から運命や性格を決めてしまう」
ということが、もったいないと思うことで、これから大人になる思春期を迎えることになる。
思春期を迎えて初めて分かるのだが、思春期というのは、実に精神的に不安定であり、その理由が、
「好奇心が旺盛で、自分の存在や気持ちがどこにあるのか分からなくなる」
という意味だということを、不安定でありながら、自覚するのであった。
だが、そんな思春期を過ごしていると、次第に見えてくるものがある。それが、
「思春期というトンネルの出口であり、その向こうには大人が広がっている」
ということであり、子供から思春期、そして大人になるという過程が、自分の中で次第に分かってくるのである。
だが、さくらのような女の子は、子供から思春期、そして大人になるという過程を意識しているのだろうか?
すでに子供の頃から、
「私は奴隷だ」
という意識があるので、成長という意識はない。
しかも、奴隷というものを自らが受け入れたことが大きな問題なのだが、本人は、
「それのどこが悪いのだ?」
と思っている。
もし、これが封建制度のような関係であれば、
「自分は君主に守ってもらえる」
という意識があったのかも知れない。
そこには、まず大前提として、
「自分は弱い人間なんだ」
という意識があるからだろう。
自分が弱いということを自覚しているから、誰かに守ってもらわなければいけないという、自然の摂理を早くも感じ取ることで、自分の生き方を決めている。
これは、自然界にもいるような、
「強い動物に寄生することで守ってもらう」
という持って生まれた本能のようなものが動物にはあって、それが次第にその動物の生き方として根付いているといえるのではないか?
人間にだってそういう意識はあるだろう。ひょっとすると、先祖代々、そういう生き方をしてきた家系なあのかも知れない。
父親も会社で、誰か権力を持った人間につくことで、自分の存在を会社内で生かそうとしたり、母親も、自分から奥さん団体に所属し、いち早く、その中でのリーダーになる人を見抜いて、その人に取り入ろうとする。
そう、こんな性格で生き残るには、
「リーダーが誰なのかということを、誰よりも早く見抜いて、そして一番に取り入ることができるかどうかで決まる」
ということである。
こういう生き方をしようと思えば、躊躇してはダメだ。
とにかく、取り入るにしても、一番であること、そして、そのスピードが誰よりも早く、取り入るということが必要だ。
ここまで隙がなく相手に取り入れば、相手はその人を、
「ただ取り入ってきただけだ」
とは思わずに、その人の才能に、一種の力を見出すことになるだろう。
そこには、一定の尊敬の念も含まれているかも知れない。君主も一目置くような存在に、
「この人がいなければ、自分の存在もない」
と感じることだろう。
ただ、悪いことに、本人が奴隷のように思ってしまうことで、君主が勘違いをしかねない。
それがこの関係の一番の隙になるところである。
というのも、
「この人についていけば間違いない」
という思いが、次第に安心感に繋がっていくと、そのうちに胡坐を掻いているかのような気持ちになってくる。
まわりから見られている惨めさなど、本人はかけらも感じていないだろう。
そんなことを考えていると、自分の将来が見えてくる。それは、一直線な道であり、その先に見えるものも、一直線でしかない。
だから、途中の節目、つまり竹のような節目である、
「子供から思春期、そして、思春期から大人になっていくための節が、まったく見えてこない」
ということになるのである。
何しろ、まっすぐ、前しか見えていないのだから……。
さくらは、それを自分の中で、
「持って生まれたものだ」
ということを、小学生の頃から自覚していた。
もっとも、そんな自覚がなければ、奴隷であったり、誰かの腰ぎんちゃくのような状態になれるわけもない。それを、思春期になってから、感じるようになったのだった。
そんな、さくらは、中学に入ると、自分を奴隷扱いしていた女の子が自分から離れていくのを感じた。
「どうしてなの? 私を見捨てないで」
と目で訴えているが、彼女の眼は実に冷淡だ。
いつものように上から見下ろす感覚はあるのに、さくらを自分の領域に入り込ませようとは決してしない。どういうことなのだろう?
相手の方からすれば、単純に、
「飽きた」
だけのことだった。
それは、さくらに飽きたというわけではなく、そういう主従関係というもの自体に飽きたのだ。
もし、彼女が主従関係に飽きるような人間でなければ、思春期に入った場面で、さくらを切り捨てるようなことはしないだろう。
それまで、自分が奴隷だと思って見ていた相手が、今度は鬱陶しく感じられる。
それを感じたことで我に返り、
「私って、奴隷を持っていたんだ」
と、それまでの自分が何であったのかということを忘れてしまっているのだった。
それを思うと、
「奴隷って何だったのだろう?」
と思うと、
「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」
ということわざにあるように、奴隷という言葉が、さくらを刺していることで、さくらを憎く感じるようになるのだった。
必死で目で訴える。
「私に近づくんじゃないわよ」
とである。
声に出さな-いのは、声を出してしまうと、
「自分が憎き奴隷を持っていたことを、認めてしまうことになるからだ」
と感じたからだ。
中学になると、彼女は、自己嫌悪に陥りそうなところを必死で堪えることで、こんな精神状態にしたのは、自分が悪いのではなく、まわりの環境が悪いということで、
「すべての責任を表にはじき出したい」
と考えると、理不尽であろうがなかろうが、そもそも、奴隷として自分に近づいてきたさくらが悪いと思うのだ。
さんざんさくらを利用しておきなから、この感情、実にひどいものであるが、結局は、
「どっちもどっち」
なのである。
ただ、どちらも、
「自分が悪くない」
と思っている。
さくらも、今まで。
「すべては、自分が悪い」
と思っていたのは、あくまでも、主君である彼女がいてからのことであった。
その彼女が、自分から離れそうになっていることに対して、
「自分が悪い」
と認めてしまったら、本末転倒なこととして、
「許せない」
と思ってしまうだろう。
さくらも、見捨てられるには見捨てられるだけの理由があるということのはずなのに、それを認めたくないということから、見捨てられてしまい、もう元に戻れないと思うと、この怒りをどこぶつければいいのか、途方に暮れてしまうかも知れない。
そんな時、さくらは、自分で割り切るしかないと思った。
そして、その割り切りによって得た答えが。
「自己中心的でいいんだ」
ということであった。
どうせ見捨てられるのであれば、人を利用して、自分中心に物事を考える。
「そう、自分の主君が自分にしてきたようなことを、今の自分ならできる」
と感じたのだ。
一番近くで見ていた自分なのだからできないはずはないと思ったのだが、その見え方に問題があるということに気づいていなかった。
中学に入ってから、主君に見放され、初めて味わった孤独感。
「こんなに寂しいなんて思ってもみなかった」
と感じたが、それを孤独感というのだということは分からなかった。
孤独感という言葉は聞いたことがあったが、その意味はよく分からなかった。漠然として分かっているつもりでいたが、まさか、自分がその孤独を怖がって、人に寄生していたのだということも分かっていなかったのだ。
人の奴隷になることも、一種の奴隷状態だったのだろう。これでこそ、封建的と言っていいだろう。本人は、
「奉仕がすべてだ」
と思っていたが、相手は寄生されているとしか思っていなかったかも知れない。
そんなことを考えていると、
「自分が人に寄生していたことを知らなかったのは、自分だけなのかも知れない」
と思うようになった。
その時、初めて、恥ずかしいという感情が湧いてきた。
恥ずかしいという言葉の意味もよく分かっていないくせに、感情が、恥ずかしいといっているのだった。
そう思っていると、そこから自分が改めて、孤独になったことを感じた。
恥ずかしいという感情が、孤独からしか生まれないのではないかと思ったからだ。
確かに奴隷の間、どんなに恥ずかしいことであっても、恥ずかしいとは思わなかった。
「奉仕をしているんだ」
と思うと、恥ずかしさを感じる暇もなく、そこには快感があった。
その快感は、精神的なものなのか、肉体的なものなのか分からなかった。
「考える前に、身体が反応してしまう」
と思ったからだ。
恥ずかしいという感情が快感に変わってしまうことで、本来なら、その間に感じるべきものを感じない。だからこそ、快感に一気に移るのだ。
それが何なのか分からない。そんな時に、孤独に苛まれる毎日が訪れた。
「私はどうすればいいんだ?」
と感じ、まわりを見てみた時、一番安心できそうな表情をしている人が、
「いつも笑顔の人なんだ」
と感じた人だった。
「そっか、笑う門には福来るということわざがあるけど、笑っていれば、安心感があるんだ」
と思い、とにかく分かってみることにした。
まわりがどう思おうが、笑っていると、安心感があると思い込むことで、実際に楽しい気分になってきた。
まわりからは、
「さくらの愛想笑い、気持ち悪い」
と言われているという話は聞こえてきたが、本人が、
「愛想笑いなんかじゃないんだ」
と思っていることで、
「別に、気持ち悪がられることはない」
と感じた。
ここで思い出したのが、快感というものだった。
快感というものは、まわりが自分のことを勘違いして、可愛そうだとか思っていたとしても、実際には幸せだということで、欺いているということにも、快感を感じるのだと思うと、
「人の感情なんて、案外曖昧なものなんじゃないかな?」
とも、思うようになった。
「自分が楽しいと思えば楽しい。辛いと思えば辛い」
と思うものだと考えるようになっていたのだが、その時期はそんなに長くもなかった。
それを感じた時が、思春期だったというのも、運が悪かったのかも知れない。
一番精神的に曖昧な時期に、曖昧で答えが出ないような思いを感じるというのは、何とも言えずに、そう、流動的だという考えに至るものだった。
ただ、一つ言えることは、
「無理して笑う必要はないが、笑ってもいい時に、笑えないようになってしまうと、これほど辛いことはないといえるのではないだろうか?」
と考えることであった。
さくらにとって、何が楽しいのか、そのことを考えるようになれるまで、まだまだ時間が掛かるのであった。
そのうちにさくらは、自分の笑顔が、
「本心からのものなのか?」
それとも、
「愛想笑いなのか?」
ということで、悩むようになってきた。
本心からの笑いだと思うと、愛想笑いに思えてくるし、愛想笑いだと思うと、ちょっと欲が出てきて、本心からの笑いだと思いたくなる。
気が楽なのは、後者の方なのだが、自分らしいという意味では前者の方ではないだろうか?
と、さくらは考えるようになっていた。
今までのさくらは、後者だっただろう。
「いかに楽をするか?」
ということが自分のステータスだと思っている。
それは、奴隷に甘んじてきたことが、寄生しているということだということを認めたくないという意味で、その答えを、
「楽したい」
ということで片付けようと思っていたからであろう。
「フレゴリ症候群」
という言葉はあまり馴染みがないが、さくらは、中学生の頃に誰かから聞かされた気がした。
その時は、
「私には関係ない」
と思っていた。
そもそも、そのフレゴリ症候群というのは、
「誰を見ても、それを特定の人物と見なしてしまう現象。全くの見知らぬ他人を、よく見知った人物と取り違えてしまう現象」
だと言われている。
子供の頃に主君だった人から捨てられることになって、少しの間、
「誰を見ても、自分の主君に見えてしまう:
という、錯覚を感じたことがあった。
それはきっと、
「誰でもいいから、今の自分のこの状況を救ってほしい」
という感情がある中で、しかしながら、それを与えてくれるのは、主君その人でしかありえないという結論を導き出すための錯覚であり、
「結果、自分が孤独になってしまったということを、錯覚ではなく、実感として感じてしまうことになるのだろう」
と思うのではないかと感じるようになっていった。
それを考えてしまうと、
「何が錯覚で、何が正しいのか、分からなくなってくる」
ということであり、結局、
「自分を救えるのは、自分でしかないのだ」
と思うのだった。
「フレゴリの錯覚」
というのは、そんな自分の先行きを示すために、
「通らなくてはいけない道というものに、敢然と立ち向かうという意味での、症候群なのではないか?」
と考えさせられるのだ。
ここでいう、
「フレゴリの錯覚」
というのは、前章で出てきた、
「カプグラ症候群」
とは違った意味での、本来なら、精神疾患とも思える、妄想のようなものだと解釈できるのだろうが、さくらにとっての、
「フレゴリの錯覚」
というのは、精神疾患というものとは種類が違っているように思えた。
どこか宗教的な考えが残ってしまうことと、錯覚というニュアンスで、あまりいいイメージがあるわけではないが、
「いかに、どう解釈すればいいのか?」
ということを考えると、自分が楽をしたいと思ったことと、深くかかわりがあるように思えてならない。
それこそが、
「さくらにとっての、フレゴリの錯覚だ」
といえるのではないだろうか?
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