症候群の女たち
森本 晃次
第1話 カプグラ症候群
この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年4月時点のものです。
今年で24歳になる、まりえは、中学生の頃からよくまわりの人からからかわれることが多かった。
いつも男の子から悪戯されることが多かったのだが、まわりからは、
「あの子かわいいのに、どうして、あんなに皆から苛められるのかしら?」
と言って、不思議がられていた。
なぜ不思議がられるのは、悪戯を受けるのは、男の子からなのだが、皆がいうように、可愛くて愛嬌もあるのに苛められるからだ。
本人は、その原因が分からない。まわりから見ても分からないのだから、それも当然のことであるが、女の子からも、結構陰でいろいろ言われる方だった。
ただ、悪戯していない男の子の中には、彼女のことが好きだと思っている子も多かった。それはもちろん、密かにそう思っているだけであったが、なぜ、彼女が苛めに遭うのかが分からなかった。
もっとも、彼女に悪戯している子が多いといっても、率からするとそんなに多くない。そもそも彼女に悪戯する子は目立つ子が多いから、多いように思われるだけで、彼女を苛めていない子のほとんどは、まりえのことを好きだと感じている子が多いのだ。
ただそれを口にすると、必要以上にからかわれたりするのが嫌だった。だが、一人でもそういう子が出てくれば、いっぱい、それまで何も言わなかった子が、
「俺も」
と言って、名乗り出るかも知れない。
自分が最初に名乗り出るのは怖いくせに、誰かが一人名乗り出ると、
「先を越された」
ということで焦って名乗りを上げることだろう。
その時になって土俵に上がっても遅いのに、中学生だから、分からないのだろう。
まりえは、最初に名乗りを誰かが上げてくれれば、間違いなく、その子を好きになったかも知れない。
なぜなら、まりえという女の子は、二番煎じが嫌いだったのだ。
「誰かが名乗りを上げれば自分も上げる」
例えば、いいことではないのだが、狭い道の信号で、誰も赤信号の時に渡らないのに、誰か一人が気にせずに渡ったりすると、さすがに違反して渡る人間を好きになることはないが、その後で、
「誰かが行ったんだから、俺も行こう」
ということで、次々に信号を無視している連中を見ると、虫唾が走るほど、腹が立つ性格だったのだ。
「誰かが無視したから行くくらいなら、最初から自分が行くか? あるいは、最後まで信号を守るくらいに徹底しない奴は大嫌いだ」
と思っていたのだ。
そして、彼女の口癖は、
「私は、モノマネは嫌いじゃないけど、サルマネは大嫌いなのよ」
と言っていることだった。
モノマネはしっかり研究し、相手に似せようとするのだが、サルマネは、研究するということをせずに、ただ簡単にマネをするだけで、なり切ったような気分になっているからなのだ。
「人のマネをしても、その人になり切れない」
ということを、モノマネをする人は分かっていて、そのことを分からない人が成り切ろうとしてするマネが、
「サルマネ」
だからである。
まりえは小学生の頃から、モノマネであろうがサルマネであろうが好きではなかった。その理由は、
「その違いが、まだよく分からない」
からだったのだ。
まりえは、言動も子供の頃からハッキリしていた。その歯切れのよさは、まわりから賛否両論あり、本人の意思に関係なく、彼女の意図しないところでトラブルになってしまうことも多かった。
それだけ、まりえは、まわりに対しての影響力が大きく、そして、彼女のことを好きな人、嫌いな人がたくさんいたということだ。
つまりは、まわりは、彼女のことを、好きか嫌いかという人しかおらず、
「別に気にならない」
という人は少なかった。
そのせいもあってか、子供の頃はとかくトラブルメーカーだった。それは、彼女の思う思わざるにかかわらず、まりえファンと、アンチまりえファンの激突とでもいうのか、そんなものがあったからだ。
だが、それだけではなく、まりえファン、アンチまりえと言っても、一枚岩というわけではない。好きは好きでも、人それぞれの感情を持っているのは当たり前のことで、それだけに、好き同士で揉めることもあった。
それは実は当たり前のことで、これが、芸能人であったり、プロスポーツチームなどのファン団体同士であれば、それなりのルールが存在しているはずだが、芸能人でもない、個人のファン同士の間に、ルールが存在するわけでもなく、当たり前のことだが、ルールのない組織同士は、ぶつかると厄介なのはわかり切ったことだ。
それでも、暗黙の了解というものが存在するのは、プロでもアマチュアでも同じで、そのおかげで、そこまで大きなトラブルがなく、子供時代、思春期を過ごすことができてきたのだ。
まりえには、
「自分の意思を持てない」
いや、
「持ってはいけない」
と言われた時期があった。
それは、中学時代のことで、ちょうど思春期のど真ん中という時期であっただろうか?
まりえは、早熟だった。
小学生の頃から、身長が高く、男子と比べても、一番高いくらいで、胸の膨らみも、小学4年生くらいの頃には、意識されるほどであった。
初潮も、小学4年生の頃で、その頃には、クラスの男の子たちから、胸を触られるなどの悪戯をされていたりした。
文句は言っているのだが、それほど強くいうわけではない。悩んではいたが、心のどこかで、
「私は皆よりも早く大人になれるんだ」
という思いがあり、胸を触られたりするのは、嫌ではあるが、致し方のないことのように感じていた。
諦めというよりも、儀式のように思っていて、他の女の子が、今度はターゲットになるだけで、ただ、自分が一番早かっただけのことだと思っていた。
小学生の頃は、物事を絶えずポジティブに考える方だった。
他の人から何かを言われても、いつもいい方に考えていた。その様子を、
「天真爛漫」
という風に見てくれる人もいれば、
「ただの能天気なだけだ」
と、天然というイメージで見ている人もいたりして、その頃から、まりえは、まわりから両極端な目で見られていたのだ。
だが、そんな人たちの間でトラブルが起きるということはなかった。
それは、まわりが、皆子供だったというだけで、男の子も、
「女の子として意識する」
という感情や、女の子も、モテているような女の子に嫉妬するような感覚はなかったのである。
まりえの方も、身体の発達は早かったのだが、精神的には、他の子と一緒で、まだまだ子供だった。
そのアンバランスが、ポジティブな考えを生み、
「天真爛漫さ」
を醸し出していたのだろう。
人が集まれば、天邪鬼のような人もいて、それが、アンチになっているのだが、まりえ自体が、天邪鬼な性格なので、そこが、天真爛漫に見える性格を形成していたのではないだろうか?
あだ、それはあくまでも、小学生までで、中学に入ってくると、いろいろ理不尽なことに気づき始め、まわりも、まりえの天邪鬼さに、ようやく気付くようになっていた。
そんな、まりえが中学生になった頃には、まわりが次第にまりえにおいついてくる。
小学生の頃は、まわりの視線を一身に浴びてきたのだが、中学になるにつれて、自分に向けられていた視線が徐々に、他の女の子にも向けられるようになったことで、
「一安心だわ」
と思うようになってきた。
確かに、まわりの女の子が普通に、思春期に向かってきていて、しかも、男の子も同じように、思春期に向かってくる。
特に、女性の方が男性よりも、身体の発育が早いということで、余計にまりえの発達の仕方が、まるでフライングでもしたかのように感じられるくらいの早さだったのだろう。
ちょうど、令和4年の4月から、成人年齢が引き下げられ、今までの20歳から、18歳になったのだが、逆に、それを機会に、年齢が引き上げられたものがあった。
それが、
「女性の結婚ができる年齢」
であった。
それまでの法律は、結婚できる年齢を、
「男性は18歳から、女性は16歳から」
ということになっていて、ほとんどの人がその違いに疑問を持つこともなかっただろう。
なかなか、この下限の年齢で結婚を考えるという人はほとんどいなかったのだから、それも当然のことである。下手をすれば、こんな法律すら知らなかった人も結構いただろう。
どうして、女性が、男性よりも結婚年齢が若かったのかというと、理由としては、
「男性よりも、女性の方が発育が早かったからだ」
ということなのだろうが、このあたりのバランスは難しかったことだろう。
しかし、前述のように、この年齢で結婚をする人は昔はいざ知らず、最近ではあまり聞くことはなくなっていた。
そもそも、成人年齢を20歳から、18歳に引き下げたというのも、その理由というのが、
「世界的に、ほとんどの国が18歳で成人する」
ということでそう決めたようだが、今の政府を見ていると、どこまで、法律的な拘束によって、市民生活が影響されるかということを調べたのか、分かったものではない。
それによって巻き起こるであろう混乱や、個人同士の勘違いなど、キチンと考えてのことなのだろうか?
クレジットや賃貸契約など、自分でできるようになったり、犯罪を犯した時に、成人として、法律が適用されることへの理解が、新成人、さらには大人たちがどこまで対応できるのか? それが疑問でもある。
どうせ、安直に、
「他の国に合わせる」
というだけで法律を変えたのであれば、許されることでもない。
もちろん、キチンと検証などもしているのだろうが。ここ数年の、世界的伝染病の対応に対して、発生してから2年も経っているのに、最初とほとんど変わらない対応をしていたり、憲法9条を改正もしていないのに、戦争をしている国に対して、中立を保たなければいけない立場にありながら、経済制裁に参加したり、さらには、もう一方の国に、支援と称して、金銭供与や、まさかの武器供与までやってのけるという暴挙をしている国家の何を信じればいいというのだろうか?
経済制裁にしても、経済支援にしても、
「国際社会がやっているのだから、日本もしないといけない」
というだけで、しょせんは、政権維持のための、人気取りでしかないこの状況を、ほとんどの国民が支持しているというのも、
「どこまで日本人は平和ボケしていて、お花畑にいるのだろうか?」
としか思えないのだ。
経済制裁をするということは、自国も痛みを伴うということで、物資が入ってこなくなりハイパーインフレが起こってから政府に文句を言っても、すべてが遅いということに、どうして誰も気づかないのだろうか?
「人道支援が大切だ」
と言っている連中も、しょせん、今はさほどその影響を受けていないから何とでも言えるだけで、実際に困ってくると、率先して国家に文句をいうのは、人道支援を支持していた連中に他ならないことだろう。
それを思うと、日本人というのは、
「本当におめでたい民族だ」
としか思えない。
裏を返すと、それだけ歴史を勉強せずに、歴史自体を知らないのだ。それがどれほど国家を亡国に導くかということを分からないのであろう。
その証拠が、国会における支援国の大統領のリモート参加の際に、まるで、
「ナチス・ドイツよろしく」
であるかのような、スタンディングオベーションであったり、さらには、大日本帝国が行った、
「敵性語の使用禁止よろしく」
その土地の名称を今までは経済制裁を行っている国読み表記だったのに対し、攻められている国の表記にするなどという、徹底的な、そして、姑息なやり方をしていることが、相手国を刺激していて、
「片方の国に贔屓をする」
という、中立にあるまじき行為をしているということに、誰も気づかないことが恐ろしい。
日本での、K総理大臣による、自分たちの政権が、伝染病対策によって、支持率が下がったのを回復するために、これ幸いにと利用されたに過ぎないのだ。
だが、これも、そのうちに、物資の不足と、ハイパーインフレによって、国民が困窮するようなことになると、そういう連中が最初に政府批判をするのは、前述のとおり、明らかなことなのだ。
それも、日本人が何もかも悪い。その理由は、
「歴史にまったく学んでいない」
ということだ。
現状だけを見て、歴史的背景を見ようとしないから、マスゴミなどの過剰報道に騙され、盲目にされてしまう。ここ数年のパンデミックにおいて、何を学んできたというのだろう?
さすがに、政府やマスゴミのいうことが、ほぼまともではないということに気づいてきたはずなのに、いまだに政府やマスゴミを信じようというのは、ただのお人よりというだけでは許されないのではないだろうか?
やはり日本民族は滅亡しないと分からない、
「バカは死ななきゃ治らない」
ということわざがある国だけのことはあるのだろう。
こんな考えは、少数派であり、少数派を天邪鬼だというのであれば、まりえは、まわりがいうように、天邪鬼なのかも知れない。
しかし、多数派の何が正しいのかということを分かって、多数派を支持している人というのが果たしてどれだけいるのだろう?
「まわりのいうことは、皆がいうことなので、正しいことだ」
というだけの理由で、理論的に説明できない人が大多数ではないだろうか?
そういう意味での、
「群集心理」
というのは、恐ろしいもので、完全に民主主義というものを勘違いしているからではないだろうか?
大東亜戦争の敗戦いよって、連合国から押し付けられた、強制的な民主化への教育。そのために、今の国民は、アメリカによる押しつけの民主主義を勉強して大きくなってきたのだ。
民主主義の基本は、
「多数決と、自由経済」
ではないだろうか?
多数決というのは、読んで字のごとく、
「多数派が少数派を制する」
ということで、少数派は、悪いことだということで、その理由を深堀せずに、皆、多数派に従う。
そのくせ、選挙などでは、
「俺の一票くらい、あってもなくても関係ない」
と思っている。
それも当然のことであろうが、逆に多数派と少数派が入れ替わるということは、ある意味天地がひっくり返りでもしないと、なかなかないことである。なぜなら、これまでの多数派が長く続けば続くほど、いくら悪だと思っても、簡単に政権交代が起こることは怖いと思うからだ。怖がりなくせに、細かいところで、意見を強く持っている。それが一種の集団意識というものなのだろう。
肉体面では成長の早かった、まりえだったが、精神的な部分としては、さほどでもなかった。
というよりも、
「晩生だった」
といってもいいだろう。
まわりには、
「耳年魔」
と言われる子が多い中で、あまり性的な話には興味を持たなかった。
その一番の理由としては、
「発育が早かったことで、まわりから、好奇の目で見られた」
ということが大きかったのだろう。
同学年の子はまだまだ、精神的にも肉体的にも子供だったので、見下すくらいだったにも関わらず、自分よりも上級生であったり、大人の男性の視線が痛いほど感じられたことが、まりえには大きかったのではないだろうか?
「まるで全裸を見られているくらいの恥ずかしさがあった」
と思っているが、まさしくその通りだったに違いない。
精神的には大人になっていないのに、身体だけが大人に近づいているので、自分でも持て余している身体を、まわりはまるで舐めるように見ているのだ。
特に中学生の男の子からは、完全にいやらしい目で見られているということを感じていた。
それは、自分が大人になってから分かったことであったが、
「男の子は、女の子に比べて成長が遅い」
ということで、女の子に対して、コンプレックスがあり、焦りのようなものを感じていたのかも知れない。
そんな中学生の男の子というと、彼らはその時のまりえとは逆に、
「精神的には大人に近づいていたが、子供はまだまだ子供だ」
という、成長状態に、それぞれが、意識していたことだろう。
中学生男子が、まりえを意識するように、まりえも、
「自分とは違う」
という意味で、中学生男子を見ていることから、精神的にどのように見ればいいのかで戸惑っていたのだった。
しかも、
「中学生のお兄さんたちは、私の身体しか見ていないんだわ」
と思っていた。
「身体がこれだけ発達しているのだから、さぞや、精神的にも大人なのだろう」
という目で見ていたとすれば、
「この小学生おそるべし」
ということで、まりえに一目置いていたのだろう。
しかし、まりえとすれば、精神的にはまったくの子供だったことから、
「まわりの目がいやらしい目でしか見ていない」
と思い込み、まわりに対して、警戒心と、いやらしさに対する反発の目を向けていたに違いない。
その視線が男の子に勘違いさせることになり、
「何だ。あの子は、あの挑戦的な目は、自分が大人だということを言いたいのだろうか?」
と思うことで、
「あの子は生意気だ」
という雰囲気で見られていたのかも知れない。
そんな勘違いが、お互いの成長の正反対の性質をお互いに知らないでいることで、敵対心が抱かれるという、誤解を生んでいるのかも知れない。
そんな状態だから、どちらも、歩み寄ることはできず、平行線どころか、どんどん、その差が広がっていくということになってしまうのだろう。
それを思うと、この状態をまわりの誰にも理解されなかったというのも、皆当事者が思春期であり、自分のことで精いっぱいという時期だったのが、災いしたのではないだろうか?
ということは、どうしても、大人になり切れていないこの時期を、誰も分かってくれないという悲劇が、まりえには、襲い掛かってきていることなのだろう。
「私って、そんなにまわりから敵対されなければいけないのかしら?」
と、思い込んでしまった小学生の頃、
「しょぜん、男の子の視線というのは、自分にとって、考えれば考えるほど、アリジゴクに呑まれてしまうかのようではないか?」
と、考えてしまうのだった。
そんな、まりえが、大人になるにつれて気になっていることがあった。思春期になると、身体の発育とともに、精神的にも思春期になってきたのだが、それまでに、男性の視線であったり、理不尽なまわりの状況を意識するようになってきたことから、次第に中学時代は、バランスが取れていくことになった。
「やっと、精神が肉体に追いついてきた」
というのか、まわりの男子の成長の遅さを顕著に感じるようになってきたのだ。
高校生になる頃からは、好きになりそうな男の子もいたのだが、最期の一歩をどうしても踏み出すことができない。
「晩生だった精神状態が、影響しているのではないか?」
と自分なりに分析をしていたが、その頃になると、まりえは自己分析をするのが、日課になってきた。
まわりの人は、自分のことよりも、まわりを意識することが多いのに対して、まりえは、まわりよりも、自分を中心に考える方が強い女の子だった。
だが、きっかけというのは、どこに転がっているのか分からないもので、まりえは、中学生になってから一度変わったと思っていたが、高校時代にも変わったのだ。
それは、自分中心に考えるということが基準としてあるのだが、まわりのことも気になり始めた。
それは、他の人のような、
「自分のことよりも、まず、まわりが」
という意識ではなく、あくまでも、自分中心でありながら、
「まわりを意識するのではなく、気になってしまう」
という少し弱気なところが出てきたのだ。
そんな心の油断が隙になって現れたのか、まりえにとって、
「精神的な病気」
ともいえるような状況が訪れるようになってきた。
それは、すかさず心の隙間に入り込んできたものであり、ずっとまわりを見ていて、タイミングよく、その病気がまりえに気づいたのか。それとも、まりえの中で密かに根付いていた病気が、この時とばかりに、発症したのかのどちらかであろう。
まりえとしては、後者なのだろうと思っているが、その時は、
「鬱状態のようなものではないか?」
という漠然としたものだったが、その状況が限定的なものだっただけに、ある意味、気が楽になるものなのかも知れない。
しかし、それが、いわゆる、
「精神障害としての、疾患」
ということであれば話は変わってくる。
「自分のまわりの、親族や親友、彼氏などという近しい存在の人が、何かの組織の力によって、悪の手下と入れ替わっている」
という、マンガや特撮などの世界では普通にありそうな発想なのだが、まさか、このような精神疾患があるなどと想像もしていなかったので、まりえは、自分の症状に徐々に気づいていった時には、
「こんなバカげたことを人に話すわけにはいかない」
という思いがあった、
そもそも、そのまわりが信用できないから、こういう意識になっているわけで、どうすればいいのかよく分からない。
こういう現象を、
「カプグラ症候群」
あるいは、
「カプグラ現象」
というのだということを、まりえは、ネットで見て知ったのだった。
精神疾患として言われ出したのは、近年のことであり、ここ50年ちょっとくらいのことだという。
そういえば、1970年代前半のマンガで、似たような発想の話もあったように思われる。そう、知っている人は知っているかも知れないが、
「人間もどき」
と呼ばれるものが、そうであった。
初老暗いから上の年代の人は、カプグラ症候群の症状の話を聞いた時、この、
「人間もどき」
の話を思い出す人が多いだろう。
作者が、カプグラ症候群を意識して、人間もどきを考えたのかどうか分からないが、今から思えば、実にタイムリーなことだったのだ。
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