目覚め

 朧げな思考が徐々にクリアになっていくのを感じながら、伊織は重い瞼を開けた。


 転生したのだろうか? 伊織は辺りを見渡そうと体を動かそうとするが、身動ぎ一つでいない。それどころか、視界がほぼないと言っても過言でもない。ぼんやりとした光と影の違いが辛うじてわかるだけで、空間を認識することはおろか自身を視認することも難しい。


 伊織が、辺りにこだまする赤子の声を自分の声と認識するのは、思考が正常に戻って少し経ってからだった。


 なるほどな、転生したのだから、赤子からスタートか。少し面倒くさいな。とはいえ、両親がいるのは生活基盤を整えるうえでかなりのアドバンテージだな。

 それより、この世界の医療水準がどの程度か分からないのは、かなりまずい。周りを認識できない今、どれだけ生存できるかを運に任せるしかないことになってしまったのは、自分のミスだなと伊織は考えながら、自分が今できる最良を模索する。


 生存戦略を立てるにしても、圧倒的に情報が足りない。まず視覚的情報は皆無で、この世界の文明レベルも知らない。ただ、目が見えなくとも、耳は赤子だろうが正常に機能する。普通の赤子なら音を認識しても特定の意味を認識するのに数か月かかるが、伊織は違う。


 泣き声を上げた時に反応する母親であろう女性の言葉を場合分けしていく。長い言葉の中に頻出する単語を記憶し、使用されるタイミングと照らし合わせて意味を類推していく。


 最頻出する、発話可能な単語を何とか言葉にする。


 母が伊織に駆け寄り、抱き上げる。どうやら、意味のある単語にとらえられたのだろう。おおよそ、自分の名前や母の名前だったのだろうと伊織は考える。


 一週間もそれを続けていれば、いくつかの単語と意味は一致してきた。自分の名前、母の名前、ごはん、トイレなど生活に必要な最頻する単語は覚えた。


 こっちの世界では伊織は【ルベル】という名前のようだ。


 自身の名前がわかると安心する。この世界に転生し、やっと地に足ついた感覚をルベルは感じた。


 一週間も経てば、顔の近くまで物が近づいたら白黒ながら、ディティールを捉えることができるようになってきた。


 時間感覚は体感時間だよりになってしまうが、食事や排泄のサイクルから、大まかな一日の感覚を掴んだ。


 一日に数度、ルベルが泣き声を上げても母が来ない時がある。その時間を夜と仮定して、ルベルは一日の長さを計っていたが不規則で、夜と定義するには不十分だった。


 一か月、二か月、三か月と時間が過ぎ。視界がかなり良くなってきた。色の認識もできるし、距離感覚もわかるようになってきた。言葉もかなりわかるようになってきた。三か月、時間にして二千百九十時間。

 半分を寝ていたと仮定しても約千時間、言語習得は伊織からしたら余裕と言ってもいい。ただ、まだ声帯が未発達で単語の発音は簡単なものに限られる。


 この、三か月で分かったことはおそらく母は獄中出産のような形でルベルを産み落としたということ。というのも、石でできた簡素な小部屋で、入り口は鉄の格子で出来ており、まさに牢獄と言った見た目だった。寝床は藁のような植物に布をかぶせた寝床。

 ただ、ルベルが寝ていたのは藁のベットではなく、この部屋には似つかわしくないベビーベットの上だった。


 牢屋のような部屋の中には母とルベルしかおらず、父親の姿は見当たらない。何らかの罪で捕まった母は既に身ごもっており獄中出産に至ったのだとルベルはそう結論付ける。


 それにしても、母が食事をとっている瞬間を伊織は見たことがない。この世界の住人は食事が不要な訳わなく、現にルベルは食事を――主に授乳だが――している。


 ルベルが夜だと思っていた時間は、事実夜ではあったが、泣き声を上げても母が来なかったのは、寝ているからではなく、そもそも母親が部屋にいないからであった。


 転生して半年が過ぎ、ルベルは地球上の人類とは違う成長をしていた。まず、発声が容易に行えるようになり、二足歩行も、ハイハイやつかまり立ちなどの過程をすっ飛ばして行うことができるようになった。視力も常人と変わらないレベルまで成長した。


 特に驚くべき成長は、身体的成長で、地球の六歳程度の体のサイズまで成長した。身体能力も体のサイズに遜色なく発揮できる。


 急激な成長をしても母は別に驚かなかった。この成長スピードが、通常の成長スピードなのかとルベルは驚いた。


 成長したことで、分かったことがある。それは、ルベルは人以外の種族であるという点だ。母の頭の両端には長さ十五センチほどの角が生えていた。


 鏡などない部屋だが、ルベルの頭にも触ると母ほど大きくないが硬いものがある。この世界のマジョリティが角のあるものなら、ルベルはこの世界における人に該当するだろうが、地球から転生してきたルベルとしては人ではないと思ってしまう。


 自立できるようになってから少しして、ルベルは母と引き離された。


 理由はわからないが、ルベルの前から母は別の部屋へ連れ去られた。動物園では産後のネグレクトやストレスからの虐待を防ぐために母と子を引き離すことは多々ある。


 とはいえ、ルベルと母の関係は良好で、虐待などを理由に引き離される理由はない。


 元居た世界でのルベルと母親の関係は良好とはいえない。母親がルベルの小さいころに、別の男を作って姿を消してから会っていない。小さい頃だったのでルベル自身、ほとんど記憶がない。


 そんな母と比べて、今の母はルベルに言葉を教えてくれたり、ルベルから見ると児戯だが遊んでくれたりと、母親としての責任を全うしている。ルベルも、心から母を慕っている。


「待っててね。ルベル。お母さんすぐ戻ってくるから」


 泣きそうな声で母はルベルの前から消えていった。














  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る