人類

 もう二度と会うことのない男との別れを思いながら映画館を後にする。


 ここから二駅ほど離れた我が家までどう帰ろうかと考えながら歩く。


 電車に乗ったらすぐだ、帰って読みかけの本を読むのならすぐに帰ったほうが効率的だろう。だが、たまの休日、仕事中は部屋にこもり切りの生活を送っている伊織とって久々の外だ、家に帰るのがどうも躊躇われる。


 男のおかげで時間もかなりある、久々に外で過ごそうとその重い腰を上げる。そうと決まれば話は早い、時計を確認すると十一時半過ぎ、少し早いがランチにしようと携帯で近くのカフェを検索する。


 歩いて15分ほどの距離によさげなカフェを見つけ、まずまずの目的地が決まった。


 研究職というのは往々にして体力のない職業だと嫌でも思い出した。普段椅子の上で論文やパソコンとにらっめこしている付けが回ってきた。


 同じ研究者でも体力のある研究者がいるのも事実、現に伊織の恩師に当たる宮田昭雄みやたあきおは今エジプトでフィールドワーク中だ。


 だが伊織は違う。フィールドワークが必要な研究はできる限りオンラインで行うし、発掘調査などの必ず現地に行かなければいけないものも、できる限り自分の足を使わないように工夫して極力椅子の上で過ごしてきた。


 研究は椅子の上で行う。それが伊織の理想とする研究者像であり、幼い頃から見ていた父の姿だった。


 物理学者だった父は、学者然とした知者であり昭和に取り残された非合理性も持ち合わせた人だった。


 家族を愛していたのか分からないが研究以外となると点で何もできない人間だった。短期で短絡的、自己防衛のための暴力、支配欲求、過剰な自己愛、狭すぎるパーソナル。


 今思うと父は愛を受けず育ってきたのだろう。だから一人で生きることができなかった。母と結婚して一人ではなくなったが、愛をはぐくみ共に歩む方法を知らなかった。


 夜の人だった母はそんな父を早々と見限り、私を置いて別の男と消えた。


 小さな書斎にこもりきりの父と書斎以外の広い家で過ごす伊織。一つ屋根の下、共同生活とは程遠い生活は伊織の自立と共に終わりを告げた。


 そんな父も去年死んだ。


 一人で生き、独りで逝った父は滑稽だった。一度つないだ世間とのつながりに首を絞められ殺された父。哀れで、悲しい存在だと今でも思う。


 家庭での父は心の底から嫌いだったが、研究者としての父は目指すべき憧れだった。


 さっきの男は父に似ていた、自身の聖域を持ち、優先すべきは己のみ、自己敬愛が強く、自己中心的、いずれ人でも殺すだろう。いや、運がよかった殺されるのは自分だったかもしれないなと伊織は心の中で安堵した。


 関係のないことを考えながら歩いていると目的地のカフェが見えてきた。徒歩で十五分は嘘っぱちで時刻は十二時を回っていた。


 七月上旬はもう夏だ。テラス席はだいぶ暑い。路面に沿って植えられた木々によって影ができてはいるが、それでも気温が下がるわけではない。


 アイスコーヒーとサンドイッチを注文し、さっきの映画を思いだす。


 本当に人の手で作ったのか疑いたくなるほど、無機質な映画だった。ただ歩く人と、その隣でパスタをすする人、高層ビル横切る飛行機、赤ちゃんをあやす犬、途中から銃撃が始まり銃声は拍手に代わる、バージンロードを歩く老婆、スーツ姿の人をランダムに指さす子供、ラスト十分は逆に物語のある映像が流れたのち大爆発。


 小さな映画館の酔狂なオーナーが持ち込みの自主製作の映画を放映する、と電話で招待が届いたから見に行ったが本当に素っ頓狂な映画だった。自身の理解の範疇を超えた映画を見たのは初めてだった。


 共感と理解が自身の最も得意とすることだと伊織は思っていた。


 伊織は初めて自分の限界を知った。


 しまったなぁ、もう少しあの男と話していたらよかった。あの男は少なくとも理解して何かを伝えようとしていたわけで、あの映画を理解できる男は映画よりも興味を引く存在だ。どんな家庭環境だったのだろうか、どんな人生を歩んできたのだろうか、なぜ父と似た雰囲気を感じたのだろう。


 人類の営みを愛している伊織は、人類と包括しているが、人類の最小単位である人も愛している。人の群れが人類であり文明であると思っているからだ。


 自他の境界が明確な人だからこそ、個性が生まれ、思想が生まれ、群れないと生きていけない動物である人だからこそ急速に思想が感情が伝播する。


 その点あの男は伊織がインプットした思想、感情の範疇外の何かを持っている、当然人には同じ思考をする同一個体は存在しない。だが、共有するすべは持っている。共有された考えは、理解し知識といてインプットされる。


 伊織はそれを知りたい、一人の思考が人類の発展の一助になることを知っているからだ。


 宗教という思想の誕生とともに新たな言語ができ印刷技術が発達したように突拍子もない進化を遂げるのが人類だ。


 負け犬を集めると神が生まれる、神の御旗の元、同族を平気で殺す、強者とはマイノリティだ。宗教は弾圧されるべきルサンチマンの心に優しい手を差し伸べ仮初の武器をくれる。だから強者は自身を神とし政に精を出す。


 人類とはそうして進化し連綿と血を繋いできた。


 伊織は人類を愛している。







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