神は死んだ
サンドイッチを食べていると着信音がなる。
休日は一切連絡を寄越してくるなと周りに口うるさく言っている伊織の携帯に電話が掛かってくるとしたら一人しかいない。宮田教授だろう。
「もしもし、藤沢です。どうされました宮田先生」
「休日にすまないね伊織くん。新発見だよ!! 神はいたんだ!! 存在する!!」
宮田が興奮気味に神の存在を主張する。
「ええ、神はいますよ先生。どの神にお会いになられたのですか? 樹木でした? 水でした? 岩でした? あとご存じの通り休日なので電話は遠慮して欲しいのですが」
またいつもの発作だと心底呆れながら伊織は嫌みを言う。
「アニミズムじゃないよ伊織くん。創造神だよ、それも私たちと同じように二足で歩き、会話し、触れることが出きる。実体を伴ったものだ!!」
さすがにおかしい、いつもならもう少し理知的で、バイアスのかからない平坦な思考をしていたはずの先生が、ただの人の特徴をあげつらえたものを神だと絶叫している。
それに一元論的な神の概念を見ているのなら、人の姿をとる人格神は学問上は否定される。
さらに先生はアニミズムではないと言った。アニミズムとは動植物、岩や滝、月などの自然物全てに霊魂的存在を認める信仰で、最も最古の宗教の形とするのが定説だ。
先生が今いるであろうエジプトも今でこそイスラーム教圏だが、過去に遡ると古代エジプトは多神教でありアニミズムの側面を多く有した宗教だったと言える。
例えばエジプト神話の創造神は太陽神アトゥムで、太陽信仰の象徴であり神権政治の主神として王家を支えてきた。太陽信仰とはつまるところアニミズムのような原初的な信仰に他ならない。
ではなぜ、先生は創造神と言ったのだろう? 自然物としての側面が強いエジプトの神をアニミズムではないと否定したからには理由があるはずだ。だが汎神論と言うのなら擬人化した人格神である訳がない。
一神教のような神ならば擬人化された人格神であるとしても説明がつくが、なにをもって創造神と言っているのかは伊織には検討もつかない。
目の前に現れた存在が、私は創造神です。なんて言うだろうか? いや言ってきてもそれは詐欺師か新手の新興宗教だ。
「先生、先程の発言を撤回しよう。神はいない、実体を伴って存在するのは神ではない。神とは人々の思いの集まり、あるいは自然に対する畏怖や敬意だ。机上の空論に等しい存在、それが神だ。先生も理解しているだろう? 実体を伴わないからこそ神であり、実体を伴う神を名乗るものは詐欺師だけだ」
「いや、神だとも!! 私の体が脳が意志が全てが目の前の存在を神だと告げている!!」
伊織は大きくため息をつく。だめだ、確実におかしくなっている。くも膜下出血かなにかで大脳基底核に異常ををきたしているのか? それとも先生も年だ、せん妄の症状が出たか?
「先生、落ち着いてくれ。頭痛がしたりしないか? 今どこにいるんだ?」
「どうしたんだ急に? 頭はいたくないぞ? それとここは今どこだろうな? 学生を飛行機に乗せたあと、現地のガイドを連れてナイル川を下っていたが? そんなことはどうだっていい、伊織くん今すぐ来てくれ!! 人々が作った神ではなく、人々を作った真なる神に逢えるぞ!!」
なるほど、合点がいった。ナイル川を下ったということはスーダン側、南下したということだろう。あまり治安のいい地域ではないしガイドに騙されて大麻か何かしらの麻薬を使ったのだろう。好奇心旺盛な先生ならしかねない。
「大麻でもやりました、先生? ものによっては強心作用を持つものもあるので気を付けてくださいね」
あの先生だ、死にはしないだろう。研究だとアフガニスタンに渡った二ヶ月後に紛争に巻き込まれても生きて帰ってきた人だ。
「では、お気をつけて帰ってきてください。忙しいので切りますね」
切りかけた電話から、先生以外の女性の声がした。
先生、といいかけたが電話は繋がっていなかった。
電話を終えた伊織だったが、周りの視線が痛い。電話口で神について語っているのはエセ宗教家に見えてしまったのだろうか? それとも老人を騙す詐欺師だろうか?
とはいえ、急いで席を立つような肝の小さな人間ではない。
社会規範を逸脱した者を罰するのは正しい行動である。ただ、利他的な罰を下すにもコストが掛かる。ある種の自己犠牲を払っての行動であるからして、誰も伊織に注意することができない状況だと理解し、現状に甘える。
電話を切りかけた時、小さいながら女性の声が聞こえた。先生の周りに女性がいること自体は不審ではない。ただ、電話口から聞こえてきた言葉は、日本語、アラビア語のどちらでもなかった。
言葉なのかも怪しい。音と言うのが最も近しい答えだろう。
私たちはピアノの音を聴いて言葉として理解するだろうか? 多くの人が理解しないだろう、いや理解できないだろう。なぜなら、ピアノの音に我々は意味を結びつけていないからだ。
261.626Hzの音を “ド”と呼称しているが意味はない。意味がなければ言葉ではないという訳でもないが、さっきの女性の声は平坦で音に区別がなかったように感じる。
ならば、単音を伸ばして発している可能性がある。例えば「あーーーー」と言われたら意味を感じとることが難しいように、単語や文脈、シチュエーションを含む様々な事象を総合して音を言葉として認識している我々には無機質に感じる音を、言葉ではないと切り捨ててしまう。
では、あれは音だったかというと、自信をもって頷くことができない。理論的には音に近いとわかっているのだが脳が言葉だと、誤認する。
多分だが、答えはでない。脳のバグを理由付けし、納得できるほどの知識を残念ながら伊織は持ち合わせていない。
伊織の専門は宗教と歴史、後これらに付随した哲学を少し。言語学などは一般人よりは詳しいが、専門的に研究してきた訳ではない。ましてや音声学などの細かい分野になると、ハッキリ言うと専門外だ。
ただ、宗教的に言うと典礼言語のような、ゼロから生まれた言語や宗教ができた時代の言語がそのまま流用された可能性もあり、まだ解明されていない言葉を話していたと言えなくもない。
伊織が出きる考察はここまでだ。考察するにしてもあまりに情報が少なすぎるため、これ以上考えてもなにも浮かばないと踏ん切りをつけて思考をシャットダウンする。
時計を見ると五時前、随分と時間が立っていた。
思考に耽ると、寝食を忘れると言うが時間を忘れても食事は忘れないらしいと、空になった皿を見ながら食べた記憶のないサンドイッチの味を必死に思い出す。
食べた記憶がないのなら、食べてないのと同義。伊織は、少しお腹が空いていたこともあり、夕食を済ませてから家へ帰ることにした。
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