10
大学の最寄り駅から地下鉄を乗り継ぎ、三〇分程度で主要駅に至った。その駅は土曜日の早朝だというのに、相変わらず人でごった返していた。
東西に通路が延びるコンコースでは、スーツ姿のサラリーマンが足早に行き交い、待ち合わせに使われる壁画の前には、時計を気にする素振りの人間が何人もいた。悠一は濁流のような喧噪に顔を顰めながら、新幹線の改札へ歩を進めていた。
昨日は殆ど眠れなかった。久下が犯人である可能性は、考えれば考えるほど否定できないような気がした。なぜ久下が自分にあんなに懐いてくるのか。その理由が定かではないのも相まって空恐ろしかった。
悠一は煩悶しながら、朝食のためカフェに入った。サンドイッチと眠気覚ましにブラックコーヒーを頼み、入り口近くの席に着く。人は比較的少なかった。
サンドイッチを食みながら、何気なく店内を見回すと、見覚えのある顔を見つけた。角席に座ってコーヒーを飲んでいる。瀬川秀介だ。なぜ彼がここに? 今日は文化祭があるはずだ。悠一は彼に見つからないよう席を移動した。
そして愕然とした。
秀介の対面には一人の少女が座っていた。制服を着ている。恐らく高校生だろう。ストレートの黒髪で、脇に紺のスクールバックが置かれていた。上央の生徒ではないようだ。
二人の関係性は分からない。だが、こんな朝早くから駅中のカフェに二人きりでいる理由はそう多く思いつかなかった。ここは大学近辺よりずっと都会で、夜を明かすための店はいくつでもある。その帰りというのが一番納得のいく解釈だ。
会話は聞き取れなかった。秀介が女子高生の手に触れたり、反対に女子高生が彼のネクタイに手を伸ばしたりと、やたら多いスキンシップが目についた。
悠一はこのことを盟に伝えるべきか悩んだ。これが露呈すれば、盟は結婚をやめるだろう。悠一にとって願ってもないことだ。しかしそれと同時に姉がひどく傷つくことになる。父が死んだときのように、抜け殻同然になってしまうかもしれない。
それから更に考えたが、一旦保留することにした。少なくとも事件が解決するまで盟の心労を増やすべきではない。
新幹線の時間が迫っていた。悠一は急いでサンドイッチの残りをコーヒーで流し込むと、秀介に見つかる前に席を立った。目はとうに覚めてしまっていた。
店を出て足早にホームへと向かう。既に新幹線は停まっていた。悠一はそれに乗り込むと席について、間中由佳の家族から聞くべきことを意識的に考え続けた。
*
新幹線から降りて、一度ホテルに荷物を置いてから間中宅を訪れた。間中宅は新青森駅近くの市街地にあった。赤色の屋根が特徴的な二階建ての一軒家だった。
悠一がインターフォンを鳴らすと、すぐに扉が開かれた。約束のためにいつでも出られるよう待機していてくれたのかもしれない。
「やあ。こんにちは」現れたのは二十代前半の若い男性だった。「深見悠一君だっけ。昨日お姉さんから電話で聞いたよ。代理なんだって? 遠路はるばるありがとね」
男性は間中空良と名乗った。間中由佳の兄らしい。爽やかな顔立ちをした二枚目だった。
「こちらこそ、わざわざお時間を割いていただきありがとうございます。これ、つまらないものですが」
悠一はあらかじめ買っておいた羊羹を差し出した。空良はそれを受け取ると、大仰に喜んで、悠一を家に招き入れた。こぢんまりとしたリビングに通される。悠一がダイニングテーブルにつくと、空良はお茶を出してくれた。さっき渡した羊羹も隣に置かれる。
「ご両親はどちらに?」
悠一が訊くと、空良は頭に手をやって気の抜けた笑顔を浮かべた。
「まだ由佳のこと話すのは難しいみたいでさ。いまは外出中。ごめんね。僕じゃ力不足かもしれないけど、最大限協力はするよ」
空良さんはもう平気なんですか、とは聞けなかった。悠一には空良こそ無理をしているように見えたからだ。長袖の着衣や、白々しい笑顔は父が死んだときの姉と酷似していた。
「それでは早速、間中由佳さんについてお伺いできますか?」
それでも悠一は自分の仕事に徹することにした。慰めも同情も空良にとっては迷惑でしかないだろう。きっと犯人が捕まることでのみ空良は救われる。
「もちろん。ちょっと待ってね」
空良は一度席を立つと、すぐなにかを持って戻ってきた。卒業アルバムだ。
「買われたんですか?」
「まさか。わざわざ学校が送ってくれたんだよ。代金もいらないから貰ってくれってさ。まあ由佳だけ卒業できないのはかわいそうだもんな。賞状も同封されてたよ」
空良は本心を韜晦するような笑顔で、アルバムを開いた。
「これが三年の時のクラス。上央は一年からクラスが持ち上がりだから、三年間変わってないはずだよ。ちなみにこれが由佳ね」
空良は一つだけ背景の違う写真を指さした。後から合成したものだろう。そこだけ印刷が粗い。写真には勝ち気な目元に微笑を浮かべた少女が写っていた。短髪で肌が日に焼けている。話で聞いていたより、ずっと普通の中学生だった。この少女が援交を繰り返していたとはとても信じられなかった。
「間中さんの素行が悪かったっていうのは本当なんですか?」
失礼を承知で問うと、空良は苦笑した。
「やっぱりそういう風には見えないよね。流石に僕も実の妹が援交してるって聞いたときは驚いたよ。まあ両親はずっと知ってたらしいけど」
そこで空良が初めて顔を歪ませた。
「そもそも二人がちゃんと由佳のことを止めていれば事件は起きなかったかもしれないんだ。それなのに、二人は責任から逃れて……」
今この場に両親が不在なのも後ろめたさがあるからなのだろうなと、悠一は感じた。
空良はしばらく黙って、袖の上から手首を撫でていた。やがて大きく深呼吸してお茶を一気に飲み干すと、悠一に謝って話の続きを促した。悠一は続けた。
「援交相手の中に上央の関係者はいましたか?」悠一は今朝駅で見かけた一場面を思い出していた。「主に教師などで」
悠一の質問に、空良は考え込むように深く腕を組んだ。
「どうかな。でも、由佳の援交がバレたとき大したお咎めもなかったから、もしかしたらそういう忖度みたいなものがあったかもしれないね」
「そうですか……」
これで秀介が犯人である可能性も視野に入れなくてはならない。悠一はこちらの件も、盟には黙っておくと決めて質問を続けた。もう一人、犯人である可能性の高い人間についてだ。
「この子についてなにか分かりますか?」
悠一は久下の顔写真を指し示した。写真の中の久下は、はにかんだ笑顔を浮かべて優等生然としていた。今とは違って髪が短い。間中由佳と似たような髪型だった。空良はそれを見るとすぐに、ああ、と膝を打った。
「久下香奈美さんね。由佳を殴って一度家まで謝罪に来たことがあったよ。礼儀正しい子で、ずっと申し訳なさそうな顔をしてたな。高校では確か生徒会長だったんだっけ?」
「そんなことまで知ってるんですか?」悠一は声を上ずらせた。
「有名だからね。父兄にも知ってる人は多いと思うよ」空良はまた中座すると、パンフレットを持ってきた。「ほら。これ、久下さんでしょ。コメントに由佳のことが書いてあったから取っておいたんだ」
悠一はそれを受け取って中を確認した。新入生用のものらしい。校長の挨拶の下に、久下の顔写真とコメントが書かれていた。時候の挨拶から始まり、新入生を歓迎する言葉が続いている。当たり障りのない文章だったが、途中から末節に掛けては間中由佳を殴って停学になっていたことと、亡くなったことが書かれていた。
『私が手を上げた人物は彼女が初めてでした。間中さんのためを思っての行動でしたが、そこに義憤以外の感情があったことも確かです。形ばかりの謝罪はしましたが、彼女は私の停学が明ける前に亡くなってしまい、本当に許してもらえていたかは分かりません。生徒会長として明確な行動原理の元、この学校を正しく律することが亡くなった間中さんへの償いであると考えています』
教職員やPTA役員らの紋切り型な言葉が並ぶ中、そのコメントは異彩を放っていた。久下の魅力的な容姿と相まって目を惹かれる。
「これを見たとき両親とも嬉しがってたよ。由佳の死を覚えてくれてる人がいたって。今度お礼を言いたいなんて舞い上がってたな。身勝手な人達だよね」
憎まれ口を叩きながらも空良はどことなく嬉しそうだった。
「悠一君は久下さんと知り合いなの?」
「ええ、まあ」悠一は曖昧に頷いた。
「そっか。ならもし会ったら、お礼を伝えておいてくれないかな。由佳のことを忘れないでくれてありがとうって」
「分かりました。伝えておきます」
久下が犯人でなかったら。そう頭の中で付け足した。
「そういえば、久下が間中さんを殴った理由って何だったんですか? ただの喧嘩ではなさそうですけど……」
「久下さんは理由なく人を殴るような子じゃないからね」空良は羊羹を小分けにしながら鷹揚に頷いた。「あれは由佳に原因があったんだよ」
「間中さんに、ですか?」
「そう。両親は由佳の援交を止めなかったし、由佳もそれが気に食わなかったのか、余計にのめり込むようになっちゃってね。それを久下さんが止めてくれたんだ。確か事件の一日前だったかな。その話がもつれて久下さんが殴ったって流れだったはずだよ」
まあ又聞きなんだけどね、と空良が微笑んだ。その表情は先ほど写真で見た間中由佳と似ていた。
「つまり久下は間中さんの援交を止めるために?」
「そういうこと。久下さんは今でも責任を感じてるのかもしれないけど、僕たちも、多分由佳ももうとっくに許してるよ。それも伝えておいてほしいな」
空良が羊羹を一欠片口に放り込んだ。悠一は承諾して続けた。
「間中さんは久下と仲が良かったんですか?」
「どうだろ。妹の交友関係に詳しいわけじゃないからなんとも」空良は首を振った。「ただ、謝罪に来たときはお互いそんな雰囲気でもなかったよ。二人とも体を縮み込ませてて、基本話し合っていたのも親同士だったし」
「久下は両親と来てたんですか?」悠一は要のある言葉を思い出しながら聞いた。
「いや、お父さんだけだったよ。びっしりしたスーツを着た真面目そうな人だったけど、お母さんとは離婚してるって言ってたかな」
空良は思い返すように左上に視線をやった。確かな手応えを感じつつ、悠一は唇をお茶で湿らせ、更に踏み込んだ質問をした。
「家庭になにか問題でもあったんでしょうか」
「さあ。人様の家のことは分からないなあ」空良は苦笑した。「でも離婚してるっていうことは何かしら事情はあったのかもね」
「事情っていうのは例えば?」
悠一が重ねて聞くと、空良は訝しげに眉を寄せた。
「随分突っ込んで聞いてくるね。もしかして久下さんを疑ってる?」
「いえ。姉からそうするよう言われているので」悠一はそう繕ってすぐに身を退いた。「もう少しだけお付き合いください」
悠一はそれから久下への嫌疑をごまかすために、他の上央生の話も聞いた。しかし頭の中では久下が犯人である可能性を考え続けていた。
被害者の内、二名との関係が認められ、内一名とは小競り合いを起こしている。更に要の言説通りいくのなら、犯人は家庭に問題を抱えていたであろう人物だ。そして女性。それらの条件を満たすのは今のところ久下だけではないだろうか。
悠一は自分の推理を何度も精査し、考えを纏めた。
「それでは、今日はありがとうございました」
空良からある程度話を聞き終えた悠一は間中宅を辞することにした。これ以上長居しても収穫はなさそうだった。
「こちらこそ。由佳の話ができて良かったよ」空良はにこやかに言って、玄関まで見送りに来た。「その内久下さんともお話ししたいな」
「そうですね。それも伝えておきます」
悠一はそういって、空良に背を向けた。が、もう一つだけ言っておこうとまた振り返った。傷ついていた姉にずっと言いたかった言葉だ。
「間中さんの死の原因は、紛れもなく犯人にあります。もうご自身を責めないでください。あなたたちはなにも悪くない」
悠一は空良の手首を注視した。捲れた袖口からは細いミミズ腫れが覗いていた。空良はそれを隠すように腕を組むと、力の抜けた顔で笑った。
悠一はその笑顔にまた一礼すると、今度こそホテルへの帰路についた。外はすっかり暗くなっていた。
ホテルに帰ってからスマートフォンの電源を入れると、姉からの不在着信が何件も来ていた。訝りながら悠一は折り返した。
すぐ盟に繋がった。
「どうしたの、姉さん」
悠一はなにか良くないことが起きたのだと察しながら聞いた。
『今日の昼、ついに四人目の被害者が出たわ』
盟は深い溜め息を吐いてから、被害者の名前を告げた。
その被害者はいつか久下の口から聞いた友人の名前と同じだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます