9
喫煙室にはもうもうと紫煙が立ち籠めていた。換気の悪い部屋では一向に視界が晴れず、ニコチンの染みた葉が焼ける臭いが充満している。悠一は父の仏壇で燃える線香を思い出して、顔を顰めた。
そんな悠一を戒めるように一瞥してから、盟は部屋の中央でタバコをくゆらせている女性に声をかけた。
「野月世奈さんですね。県警の者です。少しお話伺わせていただいてもよろしいですか」
現在、喫煙室には三人以外の人間はいない。盟は堂々と警察手帳を取りだした。野月はそれに驚く様子もなく一筋の煙を吐き出すと、吸い殻が山と積まれた灰皿にタバコを押しつけた。
「ニナのことですか」
ニナというのは蜷川さんの愛称だろう。盟が頷くのを見ると、野月は壁際に設置された背の高い椅子に腰掛けた。長い足を組んでまたタバコを一本取り出すと火をつける。盟がその隣に座ったので、悠一は対面に腰を下ろした。
ここに来る前に盟から見せられた写真の野月世奈と、いま目の前に座っている野月世奈はまるで別人だった。写真の野月は勝ち気で快活な印象だったのに対し、いま目の前にいる野月は廃人のようだった。
顔は土気色で、目の下には濃い隈が浮いている。服装に無頓着で、髪の色もすっかり抜けている。首元で揺れるネックレスだけが唯一の装飾品だった。余命を削るように有害物質を積極的に取り入れる姿は、擬似的な自殺を繰り返しているように見えた。
「それでなにが聞きたいんですか?」
野月は白目を充血させた、不眠症特有のギラギラした瞳で盟を見た。盟はボールペンを取り出すとペン先を手帳に押し当てた。
「まず、蜷川かがりさんとお付き合いをされていたというのは本当ですか?」
「ええ。ニナが編入してきて、その次の年からですよ。高三のときです」
「では付き合ってから三年ほどですか」
「そうなりますね。四月の頭に記念日は祝いましたよ」野月は真顔で冗談のように言った。
「ここ最近で蜷川さんと喧嘩したことはありましたか?」
「ないですね。もうそんな仲でもなかったですから」
あ、昔より仲が深まったって意味ですよ。野月はそう付け足して、足を組み替えた。
「でも、あなたは高校二年生のときに蜷川さんと揉めて停学になっていますよね。そのときの原因はなんでしたか?」
野月はその質問を嘲るような笑みを浮かべると、灰を落とした。
「警察っていうのはそんな昔のことまで一々調べるんですか。ご苦労なことですね」
盟が無反応なのを見て、野月は真顔に戻った。
「……つまらないことですよ。ただ私がニナのことを一方的に敵視していただけで。付き合い始めてからはそんなことも減りましたし」
盟が質問を重ねる前に、悠一は割り込んで聞いた。
「停学者の元に教師が訪問するって話は本当ですか?」
盟は胡乱な目つきを悠一に向けた。悠一は目顔で謝罪した。ただこれだけは聞いておきたかった。もし秀介が嘘をついていたら、そこから彼の隠し事を引き出せるかもしれないと思った。
しかし野月の返答は期待外れのものだった。
「本当だよ。趣旨としては問題を未然に防げなかった担任教師への罰則と、停学中の生徒が外出していないかの確認らしいね。私のところにも毎日来たよ。本当は三日の停学だったけど、外出がバレて結局一週間に延びてさ、あの時は楽しかったなあ」
野月は当時を懐かしむような顔をした。それからネックレスを握り込むと、紫煙交じりの大きな溜め息をついた。
「ごめんなさい、続きをどうぞ」野月は髪をかき上げた。
「それでは」盟は姿勢を正した。「五年前と二年前にも同様の事件が起きていますが、これはご存じですか?」
「もちろん。有名な話ですからね。ニナを殺したのも同じやつなんでしょう?」
「警察ではその見方で捜査を進めています」盟は頷くと、「この二件の被害者と面識はありましたか?」
「面識ってほどではないですが、その二人が亡くなる前から顔と名前くらいは知ってましたよ。多分数回くらいは話したこともあるんじゃないかな」
野月は思い返すように左上を見た。盟はそれを書き留めると続けた。
「野月さんは蜷川さんが亡くなる数時間前に一度電話をかけていますよね。そのときはなにをお話しになったんですか」
「私が容疑者候補の筆頭なんですね」野月は軽く笑って、短くなったタバコを吸い殻の山に埋めた。「私がニナを殺すなんてあり得ないのに」
「これが仕事ですので」
盟が短く答えると、野月はまたタバコに火を付けて深く吸い込んだ。
「……あの日はニナの授業が午前で終わりだったから、どこかデートにでも行こうと思ってたんですよ。でも用事があるとかで断られて、私は大人しく家にいました。それで夜になってから、電話をかけて世間話を五分ほど」
「世間話とは?」
「恋人らしい話ですよ。プライベートなことなので、これ以上は」
野月が煩わしそうに柳眉を寄せた。盟は謝って、質問を続けた。
「電話越しで怪しいことはありませんでしたか?」
「特には。ただニナは出先だったようなので、なるべく早く電話を切りました」
盟はボールペンを手帳に走らせてから、野月の顔を窺い見た。
「恋人の誘いを断るほどの用事とはなんだったんですか?」
野月はその質問に頬を固くすると、まだ長く残るタバコを灰皿に力強く押しつけた。山が崩れて、ひしゃげた吸い殻が床に散らばった。
それを拾い集める盟には目もくれず、野月はジッポーで忙しなく火を付けたり消したりしながら、遠い目をして窓の外を眺めていた。
「ニナは三年に上がってから売春をしてたんだ」
やがて独り言のように呟いた。低い声だった。それを聞いた盟は体を起こすと、手帳とボールペンを構えた。
「売春ですか?」思わず悠一は繰り返した。
「ああ」野月は盟に代わって吸い殻を拾い始めた。「始めたのは今年の四月くらいからだと思う。もしかしたらもっと前からやってたのかもしれないけど、私が気づいたのは少なくとも最近だったよ。死んだ日も客の誰かと会ってたんじゃないかな」
悠一はその客が久下ではないかと想像した。仲が良かったのなら、二人で会っていても怪しまれないだろう。しかも女性同士だ。周りから疑われる余地はない。
「蜷川さんはどうしてそんなことを?」盟が聞いた。
「金に困ってたんですよ。あの子、一々お返しとかするから」
盟が首を傾げたのを見て、野月は屈んだまま続けた。
「ニナは昔からそうだった。後輩からプレゼントを貰うたび大袈裟なほど喜んで、必ず次の日にはお返しを用意してた。そんなことを繰り返すたび、後輩からのプレゼントが高騰していって、ニナもそれに見合ったものを買うようになって……。そんなこと続ければどうなるかなんて分かっていたはずなのに」
吸い殻を片付け終えた野月は、手についた灰を払って椅子に戻ると、またタバコを銜えた。
「あの子、後輩をすごく大事にしてたから、邪険にはできなかったんだ」
「断ることはなかったんですか?」
「なかった」悠一の問いに野月は即答した。「たとえ後輩から家を貰ったとしてもニナは喜んで受け取って、それに見合ったお返しを用意しただろうね」
「あのブランド品も後輩からの贈り物だったんですね」
盟が聞くと野月はその端正な顔を歪めた。瞳には憎悪を孕んだ怒りが滲んでいた。
「あれがそもそもの原因だったんだ。それまでは常識的なプレゼントだったからまだ大丈夫だった。それなのに、いつの間にか競い合うようにヒートアップして、ニナは体を売る羽目になった」
野月はフィルターを噛んで、苛立たしげに舌打ちした。
「私はあいつらが憎いよ。ニナを殺したやつと同じくらい憎い。あれがなければニナは死ななかったかもしれないのに」
悠一は蜷川の遺留品を思い出していた。善意で送られたはずのあれらが、蜷川かがりの首を絞めていたのだ。過大な愛情が死を呼び寄せた。野月にとってはやるせないだろう。
「野月さん以外で売春行為を知っていた人はいましたか?」
盟は表情を一切変えることなく聞いた。感情移入しないようにしているのだろう。警察は野月世奈が犯人である可能性を捨てていない。
「私だけだと思います。そもそもニナが本気で隠そうとしたら、誰にも分かりませんよ。あの子は私にだけ分かるようやっていたんだ」
「どうして止めなかったんですか」盟が無表情を貫いて聞いた。
「止めたかったよ」野月は不器用な笑顔を浮かべた。「でも、私だって人間だ。あの子が売春してるって知ったとき、それなりにショックだった。だから私に気づかせようとしてるのをあえて無視したんだ。少しくらい傷ついて帰ってこればいいと思ってた」
でもまさか殺されるなんて……。野月は煙を長く吐き出すと、額に手を当てて俯いた。伸びっぱなしの前髪をタバコの火が焦がす。首元でネックレスが揺れた。
「……私だって同罪だよ」
懺悔するような声だった。盟は野月の手からタバコを取り上げると、灰皿で丁寧にもみ消した。
「蜷川さんの客の中に上央の生徒はいましたか?」
野月は俯いたまま首を振った。
「分からない。ただもしニナがあんなことしてるって知ったら、みんな体を重ねたがったでしょうね。男女も年齢も問わず。絶対に誰も幻滅なんてしない。私の、自慢の恋人でしたから」
野月は顔を上げると、潤ませた目を細めた。きっとどんな表情をしていいのか分からないのだろう。その顔は泣いているようにも、怒っているようにも、笑っているようにも見えた。
そのときノックの音が聞こえた。扉の前に一人の男子生徒が立っている。恐らく一年生だろう。身長が低く髪も染まっていない。野月を見る目が輝いていた。
野月は立ち上がると、そちらに歩いて行った。
「姉さんは本当に野月さんが犯人だって思う?」
悠一は男子生徒からプリントを受け取って、言葉を交わしている野月を見ながら、小声で訊ねた。盟もそちらを向いたまま答えた。
「まあ、半分くらいはね。でも上央生の時点でどんな人もそれくらい疑ってるわ」
それは現時点で野月を犯人として見ていないということだ。悠一は胸を撫で下ろし、姉に自分なりの推理を伝えようとした。
けれどその前に野月が戻ってきた。手に『文化祭実行委員』と印刷されたプリントを持っている。文化祭は明日だったはずだ。
「ニナの代わりですよ。あの子、委員長だったんで」
二人の視線に気づいた野月がプリントに目を通しながら言った。
「体調は大丈夫なんですか?」悠一が聞いた。
「良くはないけどね。でも、ニナの仕事だったから私がやりたいんだ」
野月はくたびれた顔で笑って、空元気を振り絞るような声を出した。
「後輩達だって失意の中頑張ってるのに、私ばっかりいつまでも落ち込んでいられないよ。休息期間はもう終わり」
その真摯な姿を見ていると、やはり野月が一連の事件の犯人だとはとても思えなかった。
野月にお礼を言って、盟と共に喫煙室を出た。日はすっかり落ちていた。分厚い雲が空に蓋をしていて、月は見えなかった。
盟と別れて家に帰ると、案の定久下が家にいた。玄関には悠一のものより一回り小さいスニーカーが行儀良く並べられている。
「先輩お帰りなさい。お邪魔してます」
久下は普段と変わらない様子だった。いつものようにキッチンに立って、フライパンでなにか作っている。それは尽くす後輩の愛嬌のようにも見えたし、猟奇犯罪者の余裕のようにも見えた。悠一も普段通りを心掛けて短く言葉を返した。
部屋の隅に置かれたリュックサックを見る。チャックは閉まっていた。もう一度ノートを確認することはできなさそうだった。
「今日もお姉さんと話してたんですか?」久下は菜箸で具材をかき混ぜながらいった。
「まあ、そんなところ」悠一は曖昧に頷いて、「それより俺明日から二日家にいないから、合鍵返しといてくれないか?」
久下が目を見張ってこちらを向いた。
「どこか行くんですか?」
「ちょっと東北までな」
悠一はさっき別れる前に姉から渡されたチケットを見た。
盟は明日青森県まで事件の聞き込みに行く予定だったらしい。間中由佳の家族が数年前、そちらへ引っ越したからだ。しかし捜査本部での会議が重なったため、代役を頼まれた。
「これは私の独断専行だし会議も休めないの。お願い。交通費もホテル代も全部出すから」
盟は必死な顔でそう頼み込んできた。悠一は断れるはずもなく、あっさりと引き受けてしまった。それに悠一にも間中由佳のことで聞きたいことがいくつかあった。情報の裏を取るのは基本だ。
「ただの小旅行だよ。来年はそういうの行けないかもしれないし」
久下にはさしあたり、そのように誤魔化した。犯人として久下を疑っている今、尚更事件のことは口にできない。
「そうですか。じゃあ帰ってきたらまた渡してくれます?」
「分かった。約束する」
悠一が頷くと、久下はポケットから、猫のストラップがついた鍵を取りだした。
「案外すんなり返すんだな」もっとごねられると思っていたから意外だった。
「別に家に執着なんてないですよ」
久下が目を細めた。では一体なにに執着しているのだろう。悠一は久下の好意の所在を少しだけ考えたが、すぐにやめた。それが元で情に絆されてしまったら目も当てられない。それを考えるのは、彼女が犯人でなかったときにするべきだ。
そう思ったのと同時に、悠一は要の刺すような視線をまた思い出していた。
「久下は要って一年生知ってるか?」
悠一はほとんど無意識にそう質問していた。
「知ってますよ」久下はコンロの火を止めた。「小説家の人ですよね。新庄要でしたっけ。有名じゃないですか」
「中学生のとき同じクラスだったんだって?」
「ええ。同級生のよしみで連絡先くらいは知ってますけど、仲良くはないですよ。今も昔も」
久下はそこでややうんざりした顔をすると、それに、と続けた。
「はっきり言ってあの人のことは苦手なんですよね」
「なんで? 気のいいやつだと思うけど」要の友人として聞き逃せない言葉だった。
「あの人、私を見る目が怖いんですよ。なんだか観察されてるようで、落ち着かないっていうか……。いつか襲われそうで」
悠一は久下のその言葉に少しだけむっとした。ただの軽口だったのかもしれないが、後輩をそのように言われて、あまり気分のいいものではない。
感情が顔に出ていたのか、久下は阿るような笑みを浮かべると、料理を皿に盛り付け始めた。悠一はこれ見よがしに、要のデビュー作を開いた。
「明日朝早いんですよね? よかったら私の家に泊まりに来ます? 起こしてあげますよ」
配膳を済ませた久下が椅子に座っていった。
「嫌だよ。襲われそうだ」
悠一も席に着くと、そういって顔を顰めて見せた。ただの意趣返しのつもりだった。けれどその言葉を口にした途端、彼女と二人きりでいることに戦慄した。「襲う」という言葉が急に現実味を帯びて聞こえた。
自分だって、殺されるかもしれないのだ。悠一は体を強張らせた。
「先輩? どうかしました?」
悠一は久下を疑っていると悟られないよう笑顔を作ると、「なんでもないよ」と答えて箸をとった。この食事が安全だという保証もない。それでも久下の手前、手を付けないわけにはいかなかった。
彩り鮮やかな食事からは味がまったく感じられなかった。
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