11 少女の殺人(四) 半日前
まずいことになった。
私は既に事切れた君島若菜を抱きかかえながら、この窮地から脱する方法を考えていた。すぐ目の前には年端のいかない男の子が立っている。
まさか、こんなことになるなんて。
若菜から公園に来るよう呼び出されたのはつい昨日のことだった。
「ストーカーってカナちゃんだったんだね」
彼女は決然とした表情で私の前に立つとそういった。私は突然発せられた言葉に困惑した。まったく心当たりがなかった。
「どういうこと?」
私が聞くと、彼女は一枚のコピー用紙を押しつけてきた。その紙にはお手本の様に綺麗な字で『ずっと見ているぞ』と書かれていた。
「……どういうこと?」
私はもう一度聞き返した。若菜は恨めしそうな顔で私を睨みつけた。
「とぼけないでよ。私が見たこと、もう知ってるんでしょ? だからこんなことを……」
私は息を呑んだ。この紙の意味は分からない。でも彼女がなにかを確信していることだけは分かった。冷や汗がこめかみを伝った。
「若菜はなにを見たの?」
震える声で聞くと、若菜は目に涙を溜めていった。
「……カナちゃんが、かがりさんを殺したところ」
一瞬、頭が真っ白になった。
確かにあの日の私は浮かれていて、周りへの注意が散漫だった。誰かが見ている可能性すら考えていなかった。端的に言って油断していた。
咄嗟に言葉が出てこなかった。その反応で彼女は全てを察したのだろう。頬を白くして握りこぶしを作った。
「やっぱり見間違いじゃなかったんだ……」
彼女はそう呟くと、翌日の昼に公園まで来るよう指示してきた。
「もし来なかったから、私、そのまま警察に行くから」
去り際に彼女はそう零した。
そして今日。私は約束通り公園に来た。それ以外の選択肢は残されていなかった。鞄にはかがりさんを殺すときに使った牽引ロープと、それと通帳を忍ばせていた。金で黙っていてもらえるならそれがいい。気休め程度に持ってきた帽子を目深に被り直した。
若菜は既に来ていた。私に気がつくと、不安そうに辺りを見渡した。私も同様に周りを見る。園内には親子連れが多かった。彼女がこの公園を指定したのは安全のためだろう。
「カナちゃん、お願い。自首して。今ならまだ償えるから」
若菜は何の前置きもなく話し始めた。私は鞄に入れた通帳に手を伸ばした。
「私だって信じたくないよ。カナちゃんが人殺しなんて……。でも見ちゃったんだ。あの日、カナちゃんがかがりさんの首を絞めていたところ。それに、こんな風に私まで脅してくるなんて……ひどいよ」
若菜はそういって昨日見せてきたコピー用紙を掲げた。相変わらず見覚えはなかった。
「お願い。カナちゃん、自首して」若菜はもう一度言った。
私は若菜に一歩近づいた。彼女はその分離れて距離を取った。
「勝手に警察に行けば良かったのに、なんでわざわざ私を呼び出したの?」
私が聞くと、彼女は僅かに頬を緩ませた。
「だって私たち友達じゃない。私は友達を大事にしたい。簡単に見放したくないよ。もしかしたらかがりさんを殺す正当な理由があったかもしれないし……」
私は嘆息した。そうだ。君島若菜はこういう子だった。真面目で友達思いで、一点の曇りもないまっすぐな子だ。その純度が心地よくて、私は彼女と友人になったのだ。
それなのにそれが裏目に出るなんて。通帳を握る手に力がこもった。
「確かに若菜の言うとおりだよ。私にはかがりさんを殺す必要があった」
私がいうと、若菜は安心したように微笑んだ。
「良かった。なら今すぐ警察に行こうよ。それでその理由を話して自首しよう。償えない罪なんてないんだから。ね? 私もついていってあげるからさ。そしたらきっとまたやり直せる……」
「でも、絶対に自首はしない」私は若菜の言葉を遮った。
「……どうして?」若菜は裏切られたような顔をした。「どうして。だってこのままだと罪がもっと重くなっちゃうよ。反省してるなら……」
「反省も後悔もしてない」私はまた遮った。「それにどうせ理解してもらえないよ。若菜だって私を信用しきれてないでしょ?」
「それは……」
「ごめん。別に責めてるわけじゃないんだ。それが普通だよ。若菜が普通。でも、だから理解できないと思うんだ。私が殺した理由も、私自身のことも」
私は周りに目を配った。二組の親子が公園を出て行った。私は顔を見られないようにキャップのつばを下げた。残り二組だ。こちらを向いていない。若菜もそれに気づいたのか、少したじろいだ。
「ストーカーのことは誰かに相談したの?」
私は優しい声音を作って問いかけた。若菜は出口の方に一歩後退した。
「……してないよ。誰にも、するわけない」
これは嘘だろう。彼女が相談した相手によっては面倒なことになる。ストーカーは私ではないが、事実がどうかは関係ない。少なくとも私は犯行の瞬間を見られているのだ。どう転んでも、もう延命にしかならない。
私は溜め息をついて、鞄から通帳を取りだした。
「若菜」私が呼ぶと、彼女は身を硬直させて体を後ろに退いた。「私が今すぐに用意できるお金の限度額はここに記載されてるだけ。全部渡すからさ、目を瞑っててくれないかな。まだ、捕まりたくないんだ」
私が媚びるような笑みを作ると、若菜は目を見開いた。
「カナちゃん……私、本当にあなたが分からない。なんで、笑ってられるの……?」
「分かって欲しいなんて思ってないよ。これで黙っててくれるか、くれないかだけ」私はあえてもう一度笑って見せた。「若菜、確か一人暮らしだったよね。バイトもいっぱい入れて課題とか大変でしょ? 悪い話じゃないと思うんだけどな」
若菜の目の色が変わった。私は通帳を地面に置いて、数歩下がった。
「私はここにいるよ。なにもしない。だから取っていいよ」
若菜は視線を左右に動かした。ちょうどまた一組の親子が公園を出て行くところだった。私たちの方を見向きもしなかった。残り一組、若い母親と小さな男の子だ。母親はベンチの座って、スマートフォンを弄っている。
「早く取ってくれないと、日が暮れちゃうよ」
迷っている若菜になるべく優しい声でいった。彼女は浅い呼吸をしながら一歩こちらに踏み出してきた。
その瞬間、私は彼女に飛びかかった。驚いたのか、若菜は控えめな声を上げて尻餅をついた。私は鞄から素早く牽引ロープを取りだして、彼女の首に巻き付けると一気に絞め上げた。彼女の悲鳴を喉の奥に押し込める。
逃れようと藻掻く若菜は私の手の甲を引っ掻き、後ろ手で私の顔を掴んだ。私は更に力を込めた。軟骨の折れる感触がロープ越しに伝わる。彼女は手足を瘧のごとく痙攣させると、太腿に黄色い液体を滴らせた。私のスキニーまで濡れる。それでも彼女が完全に動かなくなるまでロープから手は放せなかった。
ようやく彼女の死を確信できたとき、視線に気がついた。ロープから手を放しそちらに目を遣る。いつの間にか年端もいかない男の子が隣に立っていた。さっきまで一人で遊んでいた子だ。
男の子は私たちの顔を交互に見比べると、不思議そうな顔をした。まだ満足に話せないのだろうか。背中に冷や汗が伝った。
「これは……」
私は咄嗟に言い訳を口にしようとしたが、その前に男の子が歯を覗かせて笑った。きっと現状を理解していないのだろう。私はいくらか冷静さを取り戻し、男の子に微笑みかけた。
「実はお姉ちゃんの体調が悪いみたいでさ。お母さん、呼んきてくれるかな?」私はベンチに座る女性を指さした。「このお姉ちゃんはお兄ちゃんが見てるから」
私はキャップを目深に被り直して声を低くした。こんなもの無駄なあがきだ。でもなるべく自分を容疑者からは遠ざけておきたかった。
「お願いできるかな?」
私は男の子に目線を合わせた。男の子は一度コクリと頷くと、母親の方へ走っていった。
私は急いで牽引ロープを彼女の首から外し、鞄に押し込んだ。通帳も拾って、今一度なにも忘れていないことを確認する。恐怖に目を剥き、だらしなく舌を垂らした若菜の顔が目に入った。写真を撮ろうとは思えなかった。
去り際にふと男の子の方を見ると、ちょうど母親の元にたどり着いたところだった。母親はまだこちらに気がついていないようだ。私は急いで公園を後にした。
公園を出ると目の前に遊歩道が伸びていた。カップルや親子連れが昼過ぎの陽気に朗らかな顔をして歩いている。私を注視している人間は一人もいなかった。
すぐに公園から長く尾を引く悲鳴が聞こえてきた。私はその声を合図に走り出した。呆然と公園の方を見つめる人垣をかき分け、遊歩道を抜ける。信号も無視して、一度も立ち止まることなく家まで走り帰った。
アパートのドアを開け、後ろ手で鍵を閉める。そのとき手の甲のヒリヒリとした痛みに気がついた。見るとうっすらと血の浮いた筋傷がついている。私は慌てて自分の顔も確認した。そこにも同様の傷がついていた。
さっと血の気が引くのが分かった。足から力が抜けて立っていられない。濡れたスキニーが床を湿らせた。
本当にまずいことになった。このくらいの傷なら跡も残らずすぐに治るだろう。だから問題はそこじゃない。
私は鞄に入った牽引ロープを握りしめ、これからの身の振り方を思案した。
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