二人
「これ、何とかしたら使えるんでしょ!」
胸を〈針の魔族〉に貫かれそうになっているフラックの背から大声が聞こえる。彼の妻、セレイ・ヘイランがなぜかそこにいた。
彼女はフラックが手に持つ野帳を叩き落とし、一本のロープを握らせた。彼が〈オド〉の杖を封印するのに使ったものである。もはや考えるよりも早く体が動いた。元々、高い濃度の魔力に反応し、それを吸って硬化するロープである。〈針の魔族〉に投げつけるだけで、ロープは魔族の体を縛り、締め上げた。ついで、魔族がひと暴れすると、フラックの体が解放される。どさ、と地面に放られ、足に激痛が走った。
「ほんと、何考えてんの?」
辺りの草木はフラックの魔術で燃え盛っている。おかげで、セレイの泣きそうな顔がすぐにわかった。
「君こそ、それは……」
フラックはつい、彼女の肩手に握られた杖を見てしまう。
「約束守ったら死んでいいわけないじゃん」
「ごめんなさい」
「言いたいこと、たくさんあるけど、あとでね」
そういって、セレイはフラックの前に屈むと、その手をきつく握る。なんとなく、フラックは胸の傷が楽になった気がした。
「待って、逃げよう、それは使っちゃダメだ」
立ちあがり、魔族に向き直ったセレイにフラックは言った。彼女の手の中の杖と、視線が行ったり来たりしている。
「ううん、もう決めた」
「何言ってんの」
「わたし、ずっと誰かの後ろにいて、そういう人たちを助けていればなんとかなるって、そう思ってたけど、やっぱり、違った」
セレイはフラックを背に、魔族との間に立っている。
「自分で、動かないと変わらないこともある。助けているだけじゃ、救えないこともある。わかってたんだけどね」
セレイがなぜか持っているこの異能力は、確かに立派かもしれないが、万能でも何でもない。人の死までは救えないこと、命は保ても、一生健康に走り回れることは保証できない。弱い力だ。
「多分、わたし達って似たもの夫婦だったんだよ。本当に、今度いっぱいお話しよう。伝わるまで」
「違う、君が、過去と未来を捨てる意味はない! 君は、僕にとってなくなったはずの未来なんだ。それだけはやめて……」
「あのね、フラック。わたしって、とうの昔に、大丈夫じゃなかったんだと思う。電車で轢かれるずっと前から。でも、誰もそんなこと気にしてくれなかったんだ。でも、あなただけが気にしてくれた、からだと思う」
「何の話、ですか?」ぽかんとしてフラックは言った。
「さあ? なんだろうね」
セレイは思わず笑ってしまった。
「でも、安心して。もう、わたしは立てるから。それに、ラックと違って、質に入れるなら、もっといいのがあるの。そうでしょ」
『肯定する。だが、それを捧げれば、お前はそれを二度と使えない』
手元の杖がそう言った。
「それでいい。世界中の人全員の無事を祈ったって、どうせ叶わないし。できる? わたしが、わたし自身で世界を救えるようになれるって」
『本来であれば星ほどの寿命を持つ龍種の一生でも賄いきれない願いだが、人間の一生一つ分と無数の人の運命を狂わし、世の理を乱した重責があるお前なら可能だ』
「じゃあ……」
セレイがそう言いかけたとき、彼女よりも早く、フラック・ヘイランが動いた。あ、とセレイが気づいた時、ロープを引きちぎり拘束を解いた〈針の魔族〉が、残った腕を振り上げているところを、そしてその怪物の側頭部を、外した胸当てで殴りつけるフラックを見た。
「油断しすぎ」
「ごめん」返す言葉もなかった。
「でも、君が決めたのなら、僕はもう何も言わない。だけど、僕は絶対に、君だけを戦わせはしない。だから、君が戦うなら、僕と一緒に戦うって約束して」
セレイは目を丸くした。こんなことを言われるとは思ってもみなかった。
「約束、します」セレイは笑うのをこらえていた。不思議な感覚だった。彼は、肩で息をしながら、もう立っているのがやっとな癖に。なのに、それが頼もしく思えた。それがあまりにも不可思議で可笑しかったのだ。やっぱり、緊張していたのだとわかった。なにせ、今、ちょうど肩の力が抜けたからだ。
『時がない。恵みを奪い、幸運を施す。厄災と祝福の魔神〈オド〉に伏し、願いを奉献せよ。そして、魔神の理に則り、奪わせるがいい。そして、魔神の加護を乞い、世界を覇する王の名を宣言せよ』
「我が名は〈ダオド〉!」
セレイは杖の石突を、地面に刺さり、折れ曲がりそうな勢いで深く振り下ろす。
「厄災と祝福の魔神へ、わが異能を奪わせ、救世の定めを乞う!」
瞬く間に、つい先ほど辺り一面を焼いた 〈呼び焦れ還り戻る矢〉 よりも眩い真っ赤な熱が辺りを照らした。そして、それを包み隠す黒煙がセレイの周辺を巻き、土も石も草も木も焼け焦げる溶けだす強烈な臭いが、フラックへ、そして〈針の魔族〉にも届いた。
「どうして、逃げる」
熱を恐れたのか、単にロープを振り切れたからか。魔族は一度、後方に跳んで距離を置く。そして、弾けるように魔族は跳んだ。目指すは、真っすぐ、セレイのいた黒煙の中枢!
「逃げないよ。そうしてるのは、いつもそっちでしょ」
黒煙が、まるで突風で払われたかの如く消え去る。そこに、本来ならその喉首を掻っ切っていた白銀の針をがっしと掴む、真っ黒な魔人がいた。
ぐ、と魔人が手に力を入れると、針がばきん、と折れる。
「よわっ」〈ダオド〉はそう感想した。
「どうして……」
距離を取ろうとした魔族に、〈ダオド〉は素早く蹴りを入れる。ほんの少し掠っただけのはずだったが、それが〈針の魔族〉の膝で炸裂し、その針金のような足がねじ切れた。
セレイ、否、〈ダオド〉は内心驚く。びっくりするほど体が軽く動いた。否、簡単になった、と言うべきか。逃げようとする魔族へ、蹴りを当てたい、そう思っただけで体が反応した。おそらく、これが何かを捧げた結果得られる力。〈オド〉にただ願い、叶えてもらっただけの力とはまるで違った。
片足と羽でバランスをとりながら、必死で間合いを空ける魔族。その様子を見ながら、セレイは『遅い』と理解した。軽く爪先で地面を叩けば、あっという間に魔族の目の前。そして、少し腰を落として右腕を引く。拳を握った。前に〈ダオド〉になったときと明らかに違う。指の長さが適切になった今、〈ダオド〉の指はきつく、硬く握られた。打ち放つ。
〈針の魔族〉にも、〈ダオド〉の動きは見える。その拳の動きに合わせ、針を突き出した。鋭く尖り、衛兵の鎧も、無数の人々の体と命を貫いたそれが、〈ダオド〉の拳に触れる。その針のように鋭い腕を、〈ダオド〉の拳がへし折り、砕いていく。肘と思しき関節部分まで粉砕すれば、魔族の方が羽を震わせ逃げ出した。
〈ダオド〉は飛べない。跳躍力こそあれ、自由に空を飛ぶことはできない。しかも、周辺の岩や木が、魔族の羽音に合わせて勝手に折れると、宙を飛んで〈ダオド〉へ飛んでくるではないか。〈ダオド〉は昨日の人の死体を降らすその姿を思い出した。どうやら、その能力は死体だけではなく、周辺の物体にまで及ぶよう。邪魔が多いが、しかし、その脚に物を言わせ、追撃しようとした時だった。
どん、という炸裂音が地面からする。見ると、松葉杖を銃がごとく構え、飛ぶ魔族に向けるフラックがいた。そしてその先、〈針の魔族〉の腕に巨大な棘が刺さっている。さすがに堪えたのか、地面に落ちる。
「予備だから、もうない! あと、棘には触らないで! 毒がある」
「ありがとう!」
なるほど、棘の刺さった魔族の腕が黒く変色していく。だが、もう一本の腕で魔族は変色した腕を切り捨てた。そして、目の前に迫る〈ダオド〉へ腕を向けるが、それすら、雑にふるわれた拳で粉砕される。
さらに、セレイは魔族に近づく。と、魔族はその残った最後の足を剣先がごとく変化させ、〈ダオド〉の腹を狙い蹴り込んだ。その勢いに押され、〈ダオド〉は地面を転がった。
「セ……」
叫び、這いつくばって寄ろうとしたフラックを、〈ダオド〉は手を伸ばし、制した。ただ、蹴られただけ。腕も体も足も無事。大丈夫、立てる。
「わたしは、立てるから」
〈ダオド〉を蹴ったきり、羽と残った脚で必死で体をくねらせるそれを前に、勝手に全身が震えた。もはやほとんど抵抗する力のない、醜い化け物。こんなものに、あれだけたくさんの人が傷つけられ、殺されたのか。
「こんなのに……」〈ダオド〉はつい、問うた。
その時、返事をする代わりに魔族の全身に皹が入り、体が裂けた。そして、その中から無数の針が飛び出す。
「セリー!」
フラックが叫んだ。だが、〈ダオド〉は直立のまま、動かない。全身に針を浴びるが、たったの一本もその体に通ってはいなかった。
「それで、終わり? もうないの?」
「……どうして、逃げた」
「逃げないよ。ないなら、消えて」
砕けるほど強く握ったその手に、力が籠る。それを、そのまま真っすぐに振り下ろす。瞬間、〈針の魔族〉の体は跡形のもなく砕け散り、ついでにその衝撃で地面がひっくり返った。木々は根を地上に晒し、岩は天高く舞う。あたり一面の植物が地面に埋まり、柔らかくなった土が、〈ダオド〉を中心に波打ちながら広がる。
その威力たるや、ドーダムの城壁にひびを入れ、その中央の宮殿ですら揺れを感知するほど。
勿論、そんなことになっていることなど知らず、〈ダオド〉は地面からゆっくりと拳を引き抜いた。あたりには、もう破片ほどにも残っていない、微細な魔族のなにかが散らばっている。それすらもわずかに火がついており、風に煽られながら灰になった。
こうして、二日で二十ニ名の命を奪った〈針の魔族〉は絶命した。
そして〈ダオド〉は悩んだ。意趣返し、になるだろうか。でも少し恥ずかしい気もする。鋭敏になった〈ダオド〉の感覚で、フラックの位置を把握する。いよいよ体はぼろぼろで、這いつくばるその姿はまるで少女のようだった。どうしようか、でも、せっかくなので言うことにした。なにせ、誰もこの辺りにはいないからだ。
振り返り、歩く。フラックへ寄ると、その手を伸ばした。
「大丈夫ですか、お嬢さん。立てますか?」
フラックは首を傾げた。そして、
「なにそれ。だっさ」と言って笑った。
急に恥ずかしくなってきたセレイは、
「もういい。早く病院行くよ」
といってフラックの体をひょいと持ち上げた。
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