公にはこちらが一回目

 セレイがフラックと出会った、『本当の一回目』は、病院だった。


 フラック・ヘイランは、ドーダム魔術研究所の研究員である。ドーダムに来て五年経つ、二十六歳の男性。かなり優秀な研究員で、魔術で上下水道の整備をやってのけた天才だとか。


 そんな説明をセレイ・イーザルは周りから聞かされていた。だから、失礼なことは言わないように、と釘を刺されるついでだ。だから、柄にもなくセレイはいろいろ考えた。なんと切り出すべきか、とても悩んだのである。


「あなたが〈ダオド〉ですよね」


 そして、結局好奇心に負けたセレイはフラックへそう訊ねた。待合室には彼一人。もう一人、出勤している看護師は昼休憩で病院を出た。医師たちは奥の診察室にいるため聞こえないだろう。


「ん? その、どういうことでしょうか」


 相手は素早くそうとぼけた。一体何のことだろう、というニュアンスをたっぷり含めている。


 だが、セレイは思わず笑いそうになってしまった。言葉とは裏腹に、視線を右へ左へ移動させ、指をせわしなく動いている。足すら落ち着かずにぱたぱたさせている彼に、かける言葉がなくなってしまった。


「そうですか。わかりました」


 半笑いのまま、セレイはそういった。答え合わせにしては単純すぎた。


〈骸骨の魔族〉にセレイが襲われた次の日。ドーダム南病院で〈ダオド〉と再会したセレイは、自分の質問が予期せぬ反応を引き寄せてしまったことに内心大変驚いていた。


 フラック・ヘイランの優秀さと、もう一つ大事なことをセレイは聞いていた。致命的な弱点があるのだ。もちろん、嘘をつくのが滅茶苦茶下手、ということではない。異様に体が弱いのだ。貧血で倒れたり、唐突に血を吐いたり下痢になったり、単純に一週間寝続けたまま目を覚まさないこともざらだし、歩けなくなったり目が見えなくなったりもするらしい。この日は、左目が腫れていた。


「あの、そうではなくて、なんで僕が〈ダオド〉だなんて……」


 不安そうに、そしてどこか縋るようにフラックは言った。疑われたままでいるのは空恐ろしいのだろう。


「窓から、昨日戦った橋、見てましたよね。やっぱり気になりますか」


 セレイはフラックが見ていた方向を見ながら言った。


「いえ、そういうわけじゃないです。偶然ですよ、そんな」


 フラックは体ごと窓から離れ、露骨に視線を切った。


「あと、昨日の〈ダオド〉は右からの攻撃には反応していましたが、左からの攻撃は受けていました。多分、左目は見えていなかったんじゃないかって思ったんです。だからもしかしたら、って思ったんですが。昨日の朝から腫れているって、書いてありますし」


 問診表を見ながらセレイは言った。当たりだとは思わなかったんですよ、とセレイは付け足した。


「そうですか、いえ、わかりませんね。看護師さんが何を言いたいのか」


 こちらを一切見ないで、フラックはそういった。


「ふーん。じゃあ、いいです。わかりましたから。それではフラックさん、診察の時間なので来てください。ご案内しますので」


「え?」


 フラックは気の抜けた声を上げた。


「どうかしましたか?」


 セレイは不思議そうに訊ねた。


「……それだけですか?」


 フラックはぽかんとしてそういった。


「何か?」


「そういうわけじゃないんですが……」


「大丈夫ですよ、フラックさん。あなたが何者でも、とりあえずここでは患者です。患者のプライバシーは守りますよ」


 セレイは当然、といった口ぶりで答えた。


「納得していませんか」


 しかして、フラックの反応は薄かった。


「いえ。別にそんな」


 彼は手元の杖を強く握っていた。よく見ると震えが止まっている。心なしか目つきも鋭くなっていた。セレイは、昨晩〈骸骨の魔族〉の体を何度も砕き、いくら襲われても焦り一つ見せなかった〈ダオド〉の姿を思い出した。セレイは唾を飲んだ。


「〈ダオド〉さん相手だったら、わたしにできることはないです。でも、わたしだって頑張れば、ここでフラックさんを置いて、診察をしないことぐらいはできます。目、ずっと腫れたままですよ」


 セレイなりの強がり、あるいは冗談だった。でも、伝わらなかったのか、フラックは茫然とした表情のまま首を傾げた。セレイはなんだか恥ずかしくなり、真っ赤になった顔を伏せた。


「さあ、順番もあるんですから、早く診察に行きましょう、フラックさん」


 セレイは彼の手を引いた。あ、あの、という言葉を引き摺りながら、フラックはそのまま診察室に連れていかれた。


 その後、数日経ってから、セレイは病院の裏手でフラック・ヘイランと再会した。待ち伏せされていたようで、暗い表情のまま、お話しませんか、と言われたとき、今度こそ命の危機かもしれないとも思った。だが、相手の様子も変で、視線が泳いで緊張しているのがわかった。なんとなくこの人なら、いろんな意味で大丈夫そうだと安心したのをセレイは覚えている。


 そのお話、というのもしょうもない世間話や質問ばかりで、〈ダオド〉についての話題は一つもなかった。ドーダムに来て間もない彼女にとっては、そもそも来たこともない綺麗な店に連れてきてもらえたこと自体も楽しかったし、仕事の愚痴を喋る相手もいなかったので、うっかり口を滑らせるいい機会にもなった。正直、楽しかった。故に、逆に心配になってしまって、帰り道に訊いてしまった。


「あの、なにがしたかったんですか」


 セレイは小首をかしげてそう言った。


「え」


 困ったようにフラックは天を仰ぎ、しばらく唸った後、


「そう、監視です。あの時、待合室であなたが言ったことは、まあまあ当たっているので」と言った。


 セレイは得心した。なるほど、誰かに〈ダオド〉のことを喋っていないか疑われていたのだ。


「言いませんよ。安心してください。患者さんの秘密は守ります」


 セレイは本心からそう伝えた。だが、その後も病院の裏口で、フラックが立っていることがあった。信用されていないらしかった。そして毎回、


「あの、もしもこの後、お時間あれば、どこかでお話しませんか」


 と、ぎこちなく話しかけてくるのだった。


 そんなことが二、三回ぐらいあった後、看護師仲間から、


『セレイさん、フラックさんと付き合ってるの?』


 と聞かれて、危なく監視されている旨をしゃべりそうになったが飲み込んだ。そして、この時セレイの認識は変わったのである。


「あの、そんなに監視しなくてもいいですよ。そんなに信用無いですか」


「え?」


 ちょうどその日、フラックが例によって裏口にいたため、お誘いに乗るついで、そう教えてあげたのである。場所は、隠れ家的レストランで、三年ほど前にひっそりと開店して以後、ずっと気になっていたお店だとフラックは言っていた。曲線の可愛いテーブルや、控えめに光るランタン、燭台など、雰囲気を気遣っている、落ち着いた雰囲気の良い店だった。そんな店の奥、店員の視線にもほとんど入らない席。その中で一人、フラックは露骨に狼狽えはじめた。


「お嫌でしたか」そして変な質問を口にした。


「疑われるのは、そうですね」セレイは正直に答えた。


「そうじゃなくて、一緒にこう、食事するのとかは」フラックは言った。


「それは、別に」


「じゃあ、これからも、そういう機会があるのはどうですか」


「いいですよ」


 即答、していた。これにはセレイ自身が驚いた。そして、なんとなく、顔を伏せた。相手の目を見てられなくなったからだ。それでもずっと視線を感じるため、仕方なく顔を上げた。フラックは真っすぐセレイを見ていた。


「それじゃあ、その、ついでに、僕と付き合っていただけませんか」瞬間、フラックは言った。


「いえ。それは嫌です」セレイはさらに即答を重ねる。急にフラックの背が縮んだように見えた。


「あ、そうです、よね」フラックは両手で顔を覆い、ずずず、と椅子を後ろに引いた。


 セレイは小さくため息をついた。仕方ないなあ、なんて言葉を飲み込んで、


「はい。ついで、というのが、とても嫌です」


 きっと、こうでも言わないと、この人とは進まない。だろうな、と思ったし、セレイはこうして、彼の勇気に多少は報いてやったのである。別に、なにからなにまでしてもらうような関係は気持ち悪いし。

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