こういう夫婦がいる
「ただいま」
がちゃり。セレイ・ヘイランの家に、ドアが開く音と、声が響く。セレイはすでに待ちくたびれていて、立ち上がるのも嫌だったが、やっぱり皮肉の一つでも言ってやろうかと、相手を迎えに行ってやることにした。
「おそ、い……」
しかして、そこにいたのは、真っ黒な人型だった。全身を真っ黒な甲冑のようなもので包んだ人型。だが、同時に、それが甲冑を着こんだ人間だとは到底思えない。
その異形こそ、ドーダムに現れる謎の魔人〈ダオド〉であった。それを目の前に、セレイは言葉を失った。時間が止まったようであった。相手は世間を騒がす未知の魔人。しかも、間が悪いことに、今家には彼女一人しかいなかった。玄関の壁に飾られている一枚の、セレイと彼女の夫、フラック・ヘイランの結婚式の様子を描いた一幅の絵が、あまりにも無力に見えた。
相手は動かない。そんな中、セレイは意を決し、ゆっくり唾を飲み、口を開いて、
「その手の中、なにもってんの」と訊ねた。それは答えた。
「虫……否、魔族かな」
それは、恐る恐る右拳を持ち上げた。仕草でその困惑がわかる。セレイは無意識のうちに〈ダオド〉から、否、その拳から距離を取った。
「大丈夫、開けないから」
〈ダオド〉は左手を前に出して否定する。顔をこわばらせ、セレイは何度も頷いた。
その様子を見、ついに魔人は全身から黒い煙を出した。セレイは手の中を訊ねるより先に、家の中で解くのはやめろ、と伝え忘れたことを後悔した。
「それ、家の中じゃ止めてって言ったよね」今更だが、指摘はする。そうしないと治らないだろう。
「ごめん、でも、帰り歩くのしんどくて」
黒い煙はすぐに霧散する。しかし、床には無数の黒い破片が残っていた。その真ん中に、眼鏡をかけた男がいる。フラック・ヘイラン。ドーダム魔術研究所の研究員であり、セレイ・ヘイランの夫が、バツが悪そうにそっぽを向いて立っていた。どう見てもさっきの魔人とは似つかない。
「自分で片づけてね」
セレイはそういって床を指差した。
「うん。でも、ほっといたら消えるよ」フラックは小さく言い訳をした。靴のつま先で破片をつつく。
「朝まで残ってたら嫌だからね。あと、魔族を持って帰ってきてどうするつもりですか」
睨みつけながらセレイは言う。
「それなんだけど、最近魔族の被害にあった人、記憶とかとんでない?」
フラックは急に表情を引き締めると、真っすぐセレイに言う。思わず、セレイの方も背筋を伸ばした。
「たまに幻覚を見たり、会話もできないことがあるけど」セレイは思い返してそういった。
やっぱり、と彼女の夫は一人で頷く。
「なに?」
気味が悪くなって彼女は言った。
「この魔族が毒か何かを注入した影響だと思う。だから、ちゃんと調べなきゃね」
そういって彼は握った右拳を持ち上げた。そして、そのままふらりとバランスを崩して前につんのめった。セレイは慌てて走り寄ると、肩口で彼の胸を突くように支えた。フラックは身長の割に体重が異様に軽い。おかげで、簡単に支えることができる。いいことではないが。
「杖は?」
「そこ」急に弱弱しくフラックは床を指差す。彼の杖が確かに転がっていた。そして、心配になって彼の顔を仰ぎ見ると、顔色が悪い。
「ちょっと待って」
セレイはゆっくりと姿勢を治し、左頬をフラックの胸に押し当てる。さらに、両手を彼の背中に回し、きつく抱きしめた。
「あの、セリー?」
フラックは虚を突かれ震えた声で言った。抱き返した方がいいかと逡巡し、ついにフラックが彼女の背中に手を回そうとしたとき、
「はい、これで大丈夫?」
と、急にセレイはフラックを突き放した。一歩二歩、と後退ったフラックだったが、そのまま姿勢は崩れなかった。
「うん。大丈夫、かも」
「顔真っ赤だよ。だっさ」
「え? そうかな」
フラックは反射的に右手で自身の頬に触れた。確かに熱くなっている、なんて感想の前に、ねっとりとした嫌な感触が広がった。
「あ」「あ」
二人は同時に悲鳴とはまた違う、しかし絶望に満ちた声を上げた。
「虫型っていったよね?」
「このまま、研究室に行きます」
セレイは虫が苦手だ。そのことをフラックはよく知っている。故に、そう答えた。今、右頬から手を放そうものなら何をされるかわからない。
「ご飯あるから、気が向いたら戻ってきて」
「うん。先に食べてて」
本当は一緒に食べたいと思っていたが、そんな気が一気に失せた。不思議なものだとセレイは思った。なんなら、今晩はいくら手を洗って来ようが、一緒のベッドに入るのもちょっと抵抗がある。
フラックはぎこちなくセレイとすれ違い、二階の自室に上がっていく。が、立ち止まって振り返り、
「ちなみに、僕、今日も魔族倒してきたりしたんだけど……〈ダオド〉だし」
「うーん、今日はそういう気分じゃない」
セレイは苦笑いを浮かべた。
「そう。だよね」
フラックはそのまま階段を上って消えていく。
セレイはその様子を眺め、はあ、とため息をついた。でも、全部わかっていたことだ。なので、気にしないことにする。しようとした。
彼は〈ダオド〉で、魔族を夜な夜な殺すことしか考えていない。今思えば、彼が一体どうして自分と結婚しようと考えたのか、わからない。なんとなく、勢いで自分も了承してしまった気もするし、と、ネガティブなことを考え出すと止まらなくなってしまうに違いないので大きく首を振って追い出した。
『心配か?』
急に声がした。男とも女ともつかない、どちらかといえば、『機械的な』声である。
「いいえ。いきなり喋らないで」
頭痛の種が増えた。セレイは天を仰いだ。
『理解できない。お前には力がある。われは知っている』
「うるさいなあ。運んでやろうと思ったけど、そのままにしておくね」
ぶっきらぼうにセレイは言った。
『構わない。だが、お前の力を最も正当に評価しているのはわれだ。われは、お前こそが魔界戦争を終わらせた張本人だと知っている。それを忘れるな』
「あっそ。知りません。持ち上げすぎ。それに、もうほとんど使わないから」
そういって、セレイは玄関を後にする。ついで、玄関の明かりを落としダイニングに戻った。フラックがいつも使っている、真っ黒な杖を残して。
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