黒の魔人
ジャオン・フータルは夕暮れのドーダムの歓楽街を闊歩する。彼はつい数日前にこの街の外延部の工事にやってきた、出稼ぎ労働者である。否、だった、というべきであろう。そうでなければ、漸く現場が作業を終えるこの時間に街を歩けない。
肉体労働は似合わない。それが彼の結論だった。今、彼の手にあるのは一昨日の日雇い分の給料が入っていた空っぽの封筒と、同僚から盗んだ財布である。
昨日は封筒の中身を使って、浴びるように酒を飲んだ。今日は、この財布を使って楽しむつもりだ。昨日聞いた噂によると、ドーダムの歓楽街のどこかにひっそりと、カジノを作ったヤツがいるらしい。一攫千金、おれにはそういうのが似合う、とジャオンは思った。
と、大股で歩く彼は、建物と建物の隙間から、立ち止まってしまうほどの冷たい風を感じた。はっとしてその闇に目を遣ると真っ白なドレスを着た女が立っていた。
けだるげに、しかしどこか艶めかしく濡れた唇。ぞっとするほど白く美しい肌。そんな彼女がずっと、熱心にジャオンのことを見つめていた。なにより、ジャオンは彼女の様子に、ピンとくるものがあった。
「どうしたの、あんた」
「待ってるの」
彼女はたった一言、そう答えた。当たった、とジャオンは思った。いいドレスを着ているが、ちょっと良過ぎる。こんなところにいるということはつまり、本当に誰かと待ち合わせをしているわけではないのだ。
「いいね。いくら?」
にやにや笑いながらジャオンは言う。そういいながら、彼女の肩を強引につかんだ。瘦せ過ぎず、程よく肉に指が食い込むぐらい。だが、思ったより力なく、軽く感じた。それが、彼の嗜虐心を刺激した。いいおもちゃになりそうだ。
「待ってるの」
彼女はすっと手を伸ばし、ジャオンの顎に、頬に触れた。ひんやりとしていて、少し驚く。だが、すぐにそれが心地よく感じた。
「なるほど。ここではそうやるんだ」
ギャンブルはやめた。触れられた頬に、くすぐったいような刺激が伝わる。
「待ってるの」
ジャオンの手からしゅるりと抜け出た彼女は、スキップでもするように軽快に、暗闇に向かって歩き出す。
「そっちにあるんだ」
ついていくと、果たしてこんな場所などあっただろうか、見たことのない少々神殿じみた建物がある。暗いからか、視界が歪んでみえる。
「待ってるの」
「わかってるって」
彼女に続いて建物のドアを開け、階段を上る。宿のようだったが、人の気配はない。その中の一つの部屋に、彼女は迷いなく入っていく。
「なあ、ここ、どこ?」
さすがにジャオンは訊ねた。しかし、返事は、待ってるの、の一言だった。それに、何故だろうか。この建物に入った後は、まるで手足が糸で引っ張られるようにするすると動く。頭は何となくぼーっとしていて、ついさっき浮かんだ疑問はすぐに飛んでしまう。でも、それが悪いことには思えない。だって、彼女がそこにいて、待っていてくれるからだ。
「待ってるの」
そう、待ってくれている。その部屋の奥、真っ白で大きなベッドがあった。そうだ、それでいいのだ。
「ところでさ、名前ぐらい教えてよ」
「待ってるの」
彼女はそういって、ベッドに腰かけ、ジャオンを見つめる。あっと言う間に、彼女の名前もどうでもよくなった。彼もベッドに腰を沈ませ、彼女に腕を回そうとした。しかし、彼女はまたするりと彼の手から逃れた。。その態度に、さすがのジャオンも顔をしかめた。
「おい、いい加減にしろよ」彼は声を荒げた。
「待ってるの」
対照的に、彼女の口調は変わらない。いつの間にか、窓際に立っていた。
「どういうつもりだ。ふざけるなよ」
彼の怒りは収まらない。ジャオンは彼女の胸ぐらを掴んだ。いくら労働が身に堪えたからといって、別に彼は虚弱だというわけではない。生まれたのは魔界戦争の只中である。剣の練習はよくしていたし、体格だって悪くはない。なにより、剣だったら、喧嘩だったら覚えがある。自分より頭一つ小さい彼女のことなど、簡単に抑え込める自信がある。彼は彼女を無理矢理壁に押さえつけた。
「これ以上馬鹿にするなら金も払わねえぞ。痛い目見せてやる」
そういって、彼はそのまま彼女をベッドに無理矢理戻そうとした。だが、動かなかった。
「待ってるの」
彼女は人差し指を立てると、自分の背後の壁を指した。
「待ってるの」
その時だった。カーテンが開き、壁が、否、建物ごと、まるで舞台の垂れ幕のように左右に裂け、その先にある広大な空間を見せた。小さな灯りが数個。それらが、本来ならただの暗闇であるその場所を、そこに配置された悍ましいものを克明にした。
「なんだ、なんだよこれ!」
――死体。
死体、死体、死体死体。天井から吊られたもの。地面に転がるもの。壁に寄りかかるもの。少し見ただけで数十はある。もはや表情をも読めないほど古いそれらが、空間を埋めている。なのに、死臭はしなかった。ただ埃っぽい、土や砂の臭いだけがした。それが不気味に感じた。相当年月が経っている。
「待ってるの」
だが、彼女が指差しているのは、それらではない。
彼女が指差す先には、真っ黒な、何かがいた。死体たちの奥で、まるで黒いドレスでも着たかのよう。人型の、しかし、絶対に人ではない何か。頭のある位置だけが白く、輝いて見える。その下、黒いドレスは不思議とぶら下がっているように見えた。まるで吊られた操り人形。
ジャオンは不思議とそれから目が離せなくなっていた。
と、そのドレスが縦に、細く裂けた。否、それはドレスではない。指だ! 彼が直面しているのは、人間の手首から指先だけを模したような、巨大な手だった。手首あたりに、白く輝く頭のようなものがついており、指先を下にして、地に立っている。ただ、指の本数が七本なのが気持ち悪い。しかも、その指一本一本の先端に、さらに七本の指がついている。
それが、その指先を一振りする。すると、ジャオンが胸ぐらを掴む、彼女の首がはらりとほどけた。そして、あっと言う間に彼女全身は糸になってしまった。ジャオンの手の中には、もう細く美しい糸の束しか残っていない。
「どういうことだ!」
ジャオンは絶叫した。それは決して怒りに押された声ではなかった。
彼の声に応ずるように、それも叫んだ。洞穴から響くような深く黒い声。到底人間には出せない音。そうだ、これは七本の指、そして七本の腕を持つ、手を象った魔族だ!
彼がそれに気づいた時にはもう遅かった。ジャオンの両手首、そして足首に糸の塊が出来ていて、それらが遠く闇につながっている。逃げようにも体が動かなかった。
「やめろ、助けてくれ!」
〈糸の魔族〉が七本のうち一本の腕を持ち上げ、その先の指を開いたり握ったり、と繰り返す。それだけで、彼の体を引っ張る糸の力が強くなり、あっという間に彼の肩や股関節が悲鳴を上げた。このままだと、間違いなく千切れる。
もう一度叫ぼうとしたが、口が開かない。いつの間にか、縫い付けられていた。口を開こうとすると激痛が走り、血の味がする。そうしている間にも、肩が、股関節がぎりぎりと外へ引っ張られ、ぎりぎりぎりぎりと悲鳴を上げる。必死で首を振り、止めるよう懇願するが、全く届きはしなかった。体が反り、背骨がきしむ。ご、と肩の関節が外れた。いよいよだった。
ばきん!
砕ける音が空間を叩き、月光が暗闇を貫いた。同時に、ジャオンの全身を引く痛みも力もなくなった。口は血だらけだったが、まだ両手両足が体についている。では、何が砕けたのか。それは、この空間の天井だった。そして、その砕かれた天井の真下、一人立つ影があった。
――真っ黒な甲冑を思わせる姿。しかして、どこか生身の肉体を思わせる生物感も併せ持っていた。人型故、人だと理性は判断する。だが、同時に、これは人ではない、魔族だとジャオンの本能が警告する。背中しか見えないが、それは危険だとすぐに察した。
「魔王城の地下通路、全部見つかっていると思っていたが、まだあったのか。魔王も隅におけないな」
それは、そういった。
「あまり、離れるなよ。あとで助けに来た人間が困るからな」
黒い人型はそういうと、少しだけジャオンのことを振り見、そして、自分の首を触り出した。
「そうか。これで人の意識を惑わすわけか。賢いな」
その手の中に、小さな虫型の魔族が蠢いた。小さな牙を懸命に黒い人型の指先に突き立てるが、まるで通じない。ぶち、とそれは魔族を握り潰した。そして、そのまま握り拳に変え、腰を落とし〈糸の魔族〉へ構える。
そうだ、聞いたことがある。ジャオンは思い出した。
魔界戦争から十年がたった今でも、魔族は絶滅していない。魔王亡き後、指揮を失った魔族がそこら中にいる。彼らは時折人里に現れ、人を食う。それは、どこでも一緒のことだ。どの街でも起きている。故に、軍は多少縮小こそすれ、魔族への対応は継続して行っている。ドーダムもそうだ。だが、一つだけ違うのは、ここには黒い魔人がいること。
その魔人は、人語を明確に使い、そして、魔族だけを殺す。
理由は不明。普段どこにいるのかもわからない神出鬼没の魔人。軍がいくら探しても、その正体はつかめない。ドーダムにはそれ専門の第四衛兵隊があるくらいだというのに。
そんな、なぜか人間を守るために同族を狩り続ける、その魔人のことを、ドーダムの人たちはこう呼ぶという。
「魔人〈ダオド〉!」
血の唾を飛ばし、ジャオンはその名を呼んだ。
その声に応えるかのように、魔人は地を蹴り、〈糸の魔族〉の頭部めがけて拳を振るった。
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