第10話 手のひらの紅

悲しみを抱えたまま茜は城へと辿り着き

そのまま

奥を仕切る側室の於梅おうめかたに目通りした

於梅は光定みつさだと共に江戸藩邸に生まれ育ち

光定が唯一愛して側室にした女子おなご

最も信頼し

重臣じゅうしんにも言えぬ心の内を話せる存在である

が、子は無い


「このたび其方そなたに降りかかった災難を

 殿から伺い

 同じ女子おなごとしてあわれに思う

 せめて子が有れば避けられたのに」


せめて子が有れば

その言葉が

誰よりも帯刀たてわきの子をほっしていた

茜の胸を深くゑぐり

子が産めなかった自分を恨む


「殿が新たな名を下さった

 これよりは安嘉やすかと名乗るように」


おっ母さんが付けてくれた名前も捨てるのか

だが今日からは籠の鳥

これも運命さだめと茜は黙って受け入れる


安嘉やすかには何不自由させぬようにと

 殿から仰せつかっておる

 遠慮せず何なりと申すがよい。

 それと今夜は殿が夜伽よとぎをお望みゆえ

 それまで部屋で休むがよかろう」

「はい、かしこまりました」


心が悲鳴を上げる安嘉やすか

それ以上の言葉を口にする事も出来ずに

夜まで自室でただ時が過ぎるのを待った


時が来て支度を整え寝所しんしょへ入ると

既に光定みつさだが待っていた


光定みつさだ

「茜、参ったか

 ささっこれを羽織はおれ」

と父が娘に優しくするように

安嘉やすかの肩に羽織はおりを掛けてやった


「茜じゃありませんよ安嘉やすかです

 ご自分で名を付けたのに忘れたんですか」

「そうであった、すまん安嘉やすか


光定みつさだは笑ったが直ぐに真面目な顔になり

 

「許せ安嘉やすか

 わしの力足りずに辛い目に合わせた

 だが其方そなたの命を守るには

 これしか方法が無かったのだ」

「分かってますよ

 どうせ藩内で私を殺すと決まったのでしょ

 側室になれば誰も手が出せませんからね」


「流石だな、そこまで察するとわ。

 菱尾ひしびに来たがために

 運命の歯車が狂ったな」

「ですが後悔はしていませんよ

 菱尾に来たから帯刀たてわき様をお守りできた

 それで私は満足です」


「それ程に想い合う仲の夫婦を引き離し

 儂も心が痛む、許せ。

 そうじゃ、此れからは安嘉やすかの出す

 文も江戸へ届くようになる」


これを聞いた安嘉やすか

討入り騒動以来

幾ら平左衛門へいざえもんや十内へ手紙を送っても

全く返事が無いので不思議に思っていたが

なるほど、自分が出した江戸への手紙は

藩が止めていたのかと合点した


「明日も明後日も

 できる限り夜伽に呼ぶので

 そのつもりでおれ」

「頻繫に夜伽をして

 殿からご寵愛頂いているとなれば

 私も奥で生きやすくなるって事ですね」


わしがしてやれるのはそれぐらいじゃ。

 さあ、朝まで碁の相手をしてくれ安嘉やすか

「お安い御用です」


この後も光定みつさだは連日のように

安嘉やすか寝所しんしょはべらせ

仲の良い父娘の様に夜を明かした

 

――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――


茜が安嘉やすかとなってから三日後

帯刀たてわきは二度と故郷に足を入れぬ覚悟で

竹馬の友、二藤にとうにも別れを告げずに

クマを従え江戸へと出立した


行きは笑顔の絶えない三人の旅路が

帰りは風の音しか耳に届かない無言の二人旅

ただ黙々と足を運ぶのみ


最後の宿場町の川崎宿を早朝に出て

昼過ぎには江戸の屋敷に到着し

帯刀は旅装束をくと

休む間も無く江戸藩邸へと出掛けた


クマは帯刀が出かけるのを見計らい

風車かざぐるまを持って台所へ行き

火の着くかまどに放り込んだ

それを見て女中のサワは驚き声を上げる


「クマさん何してるんだい

 それは奥様の大切な物だろ」

「いいんだ、奥様に頼まれたんだ」


「奥様に頼まれたって

 肝心の奥様は帰ってないじゃないか」

「奥様は、もう帰って来られない」


そしてクマは菱尾ひしびでの出来事を

サワに話して聞かせ

「奥様がサワさんが尽くしてくれた事に

 礼を伝えてくれとおっしゃってた」


サワは膝から崩れながら

「何てこったい、そんなむごい話があるもんか

 旦那様と奥様が可哀想じゃないかい」

 おいおいと泣いた


それから二人は言付け通りに荷物をまと

暗い顔で荷車に乗せていく


夕刻になり藩邸から帰宅した帯刀は荷車を見て 

「これは如何いあかがした」

とクマに尋ね

「奥様に自分の物は全て山里やまさと様へ

 引き取って頂く様に申し付かりました

 これから届けに参ります」

「そうか、私も山里様に

 この度の始末を報告に行かねばならぬ」


帯刀たてわきとクマは荷車を引き

夕陽に背を押されながら山里家へとおもむいた


女中のタカが

「旦那様、朝倉様がお見えです」

平左衛門へいざえもん

「そうか菱尾ひしびから戻ったか

 何をしている、上がって頂ぬか」


だがタカは

「それが何だか荷物を沢山お持ちで」

らちが明かない」


と平左衛門は玄関まで迎えに出て

荷車を見ていぶかしく思い尋ねる


「こりゃ何だい」

「茜様と離縁致しましたので

 持ち物を届けに参りました」


帯刀たてわきの答えに平左衛門は

「そりゃ冗談が過ぎるだろ」


と笑ったが帯刀たてわきの目を見て

事実だと悟る


「そうか、離縁したか。

 それで茜は何故なぜ一緒に来ないんだ」

「茜様は諏訪すわ光定公のご側室となられ

 菱尾ひしび城に御座おわします」


「おい、どういう事だ。なぜ茜が側室になる

 お前は出世の為に茜を献上したのか」


平左衛門は怒りで声を荒げだす

帯刀は何があっても菱尾ひしびのお家騒動を

口外する事は出来ない

ただ

「申し訳ございません」

と頭を下げるのみ


帯刀たてわきの煮え切らない返答に

平左衛門は

「お前は俺に、何があっても

 茜は私が守り抜きますと言ったよな

 あの言葉は虚言か噓だったのか」


帯刀は口を一文字に結び沈黙を守る


茜が側室になり一番辛いのは

主人の帯刀たてわきである

クマはそれを伝えようとするが

鬼の平左へいざの恐ろしい威圧に体が動かない


遠い昔、あの深川の雑踏の中で

背中で泣きじゃくる幼い妹に

兄様が守ってやると約束したのに

それが果たせない自分の情けなさと悔しさが

より一層に平左衛門の怒りを沸き立たせる


平左衛門へいざえもんは帯刀の胸ぐらを掴み

「お前を信じ慕っていた妹を

 俺の大事な妹を、物扱いしやがって」

と拳を振り上げる


振り上げた腕に百太夫ももだゆうしがみつき叫ぶ

「父上なりませぬ 

 縁も所縁ゆかりも無い菱尾ひしび藩士に手を挙げては

 騒動となります」


父をなだめた百太夫ももだゆうは背中越しに

歯を食いしばりながら淡々と

「朝倉様、叔母上のこと承知致しました

 他に用が無ければ早々にお引き取りください」


―――——  ―――——  ―――——


それからの帯刀たてわきは以前よりも増して

お勤めに励んだ

菱尾ひしび藩の安泰が茜の安泰だと信じて


母の尊子たかこから月に何度も

早く後添のちぞいいを貰うようにと手紙が届いたが

全て屑籠くずかごへ投げ捨てていた

二年も経つと業を煮やした尊子は

後添のちぞいいになる者を連れて江戸へ行く

との便りをよこ

帯刀は初めて返事を書く

短い一文を


【我が妻は、生涯 茜一人にて候】


それ以降、尊子からの手紙は途絶えた


―――——  ―――——  ―――——


クマが三十に成ると

帯刀たてわきは所帯を持つよう勧めたが

未だ独り身を通す主人に申し訳なく断った

しかし

「お前の師匠なら嫁を取るようにと

 勧めただろう

 だから私はそうしているのだ」

との言葉に

今でも帯刀が茜を想うからこその事と知り

素直に所帯を持った


クマ夫妻は帯刀たてわきの願いで新居は構えず

そのまま朝倉家に住込み五人の子をした

子が増える度に帯刀の表情はやわらぎ

家の中は明るくなり笑い声が響いた


帯刀はクマの子供達に惜しみなく

学問と教養を身に付けさせ

その内の男子一人を養子に迎えた


帯刀が息子に教えた家訓は一つのみ

身命しんめいして菱尾ひしび藩を護るべし」


――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――


茜が安嘉やすかとなり四年の歳月が過ぎた


既に藩主は貴景たかかげへと代わり

光定みつさだは大殿となり

女房達と西ノ丸に暮らしていたのだが

寄る年波には逆らえず今は病の床にある


安嘉やすかは病床の光定に呼ばれた

人払いがされた部屋には

於梅おうめかたと三人だけである


病重い光定みつさだの代わりに

於梅おうめかたが話し出す


「大殿より言い付けである

 其方そなたは家臣の瀧澤たきざわ舎人とねり下賜かしされる

 既に藩主貴景様もご了承

 明朝、籠に乗り瀧澤家へ向かうように」


それを聞いて安嘉やすかは慌てる


「私一人で御座いますか」

「案ずるな、紅子あかねも共にである

 貴景様は、たとえ養女に出しても

 紅子あかねは我が妹、輿入り先は姫として

 相応の家を自ら探すと仰せだ」


紅子あかねを姫として輿入れなどとは

 図々しい事

 これ以上の噓は罪に御座います」

「何が噓と申すか」


於梅おうめかたが厳しく言い放つ


紅子あかねは大殿の娘であり

 諏訪すわ家の姫である

 これは其方そなた紅子あかねだけの問題では無い

 諏訪家の名誉の問題ぞ

 紅子あかねの出生の秘密を知るは

 大殿と私と其方そなただけ

 私も墓場まで持って行くゆえ

 其方も努々ゆめゆめ口にしてはならぬ

 よいな安嘉やすか

「はい、決して口には致しませぬ」


「大殿はご自身が亡き後

 安嘉やすかに髪をおろさせ

 残りの生涯を城で過ごさせるのは

 余りに不憫と思われ

 瀧澤へ下賜かしされると決めたのだ

 どうか大殿のお気持ちを快く

 受け取って欲しい」


光定が手を伸ばし安嘉やすかの手を握り

か細い声で

其方そなたには辛い思いをさせた

 これがわしがしてやれる最後の償い

 許してくれ、安嘉やすか

「何を仰せです

 あの時、大殿が命を助けて下さらねば

 紅子あかねを産む事が出来なかったのです

 今日まで母娘おやこが何不自由無く過ごせたのは

 大殿と於梅おうめ様のお陰

 心より感謝申しております」


光定は安堵した様子で

安嘉やすか、明日よりは名を改め

 清寧さやねと名乗れ

 二度と何者にも人生を搔き乱されずに

 澄んだ水の如く安寧に生きてくれ」


「はい、はい、」

安嘉やすかは光定の手を握りながら

涙を流し

その背中を於梅おうめが優しくさす


―――——  ―――——  ―――——


次の朝

清寧さやねと名を改めた茜は城を後にした


城という小さな鳥籠とりかごに閉じ込められる時は

身一つで

己の腕を嚙みながら涙をこらえていたのに

菱尾ひしび領という大きな鳥籠に移る今は

己の命よりも大切な我が子を生み

身二つとなった清寧さやね


雲一つ無い高く青き空の下

秋の小春日に優しく包まれた籠は

母の深い情を乗せ

一歩一歩と確かな歩みで進み行く


籠に揺られながら清寧は思いふけ

於梅おうめによれば

瀧澤たきざわ舎人とねりはなる人物は

勤めにいて他人より目立つ事は無いが

細部にまで目が行き届き

何事も抜かりなく遣り遂げる事から

現藩主の貴景たかかげから厚い信頼を得ており

八年前に妻子を病で同時に亡くしてから

浮いた話も無く独り身を通している事から

光定と貴景たかかげ父子おやこ

安心して清寧さやね紅子あかねを任せられると

下賜を決めたのであった


それだけ聞けば

申し分ない人物ではあるようだが

それでも一抹の不安は残る

はたして瀧澤たきざわ舎人とねり

紅子あかねを可愛がってくれるであろうか

紅子は瀧澤たきざわ舎人とねりなつくのだろうかと


―――——  ―――——  ―――——


清寧さやねの抱いていた不安は杞憂きゆうと終わった


舎人とねり清寧さやね

下賜された者と賜った者といういびつな関係で

ぎこちなく有ったが

紅子あかねと同じ年頃の娘を亡くしていた舎人は

毎日、城から戻ると紅子と楽しそうに遊び

夜は紅子が眠るまでそばで見守る


すっかり懐いた紅子あかねの幼い口で

「父上、父上」

と呼ばれる度に

舎人とねりは幸せを嚙み締める様な顔で応え

ぎこちなかった清寧さやねとの関係も

紅子あかねかすがいとなり打ち解け

何時いつしか、どこにでも有る

きたりの家族と成っていった


――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――


山里やまさと平左衛門へいざえもん

元義弟の朝倉あさくら帯刀たてわきから

妹が菱尾藩主の側室になったと聞かされた時は

なんと可哀想な事と悲嘆に暮れ

それからも、

遠い菱尾ひしびに暮らす妹からの便りが届くたび

複雑な思いに駆られた


【殿より安嘉やすかと名を頂いた

 覚えめでたく何の不自由無く過ごしている】

ふみを読み

「死んだ生みの母から貰った名前を

 取り上げられたのか」

と溜息をつき


【姫を産んだ、大殿は大変喜ばれ

 紅子あかねと名を付けて下さった】

ふみ

「そうか、子を産みおはら様になったか。

 子が有れば孤独では無くなる」

と安心し


【紅子は大病もせず元気に育っている。

 私は毎日、剣術の稽古をしている】

 のふみ

「姫が丈夫にお育ちなり何よりだ。

 やはり妹は生涯、江戸の鬼娘か」

と笑い

 

【この度、名を清寧さやねと改め

 菱尾ひしび藩家臣の瀧澤舎人たきざわとねり殿のもと

 紅子あかねを連れ嫁いだ】

ふみ

「何てこった、又しても妹は

 物の様に扱われ、望まぬ道を歩むのか」

くやしみ

己の身を切るような悲しみが胸に詰まる


舎人とねり殿は紅子を我が子のように

 大切に可愛がり、紅子あかねもすっかりなつ

 安堵した】

ふみ

「そりゃ良かった」

と遠い空の下に居る妹と共に安堵あんど


舎人とねり殿の息子を産んだ

 私は反対したのに舎人殿が

 兄上から一文字頂こうと言い

 征平ゆきひらと命名した

 兄上に似はしないかと私は心配している】

ふみ

「馬鹿野郎、俺に似たらいい男になるだろう。

 子を持つほどの仲に成ったのなら安心だ。

 それにしても俺の名から一文字取るとは

 瀧澤とは実にいい奴じゃぁないか」

と気分を良くする

が、それでも

もう二度と妹には会えぬのかと思うと

悲しさとさみしさに襲われた


――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――


茜が安嘉やすか清寧さやねと名を変え

十一年の歳月が流れた


紅子あかね征平ゆきひらが仲良く手を繋ぎ歩く後ろ姿を

清寧さやねは穏やかな心で見つめる

辿り着いた場所には

透き通る真空色まそらいろの下に

大きく立派な桜の樹がそびえ立っていた


五歳に成った征平ゆきひらは桜の樹を見つけると

一目散に樹の下へ走り出し

ひらひらと舞い落ちる花弁はなびらを捕まえようと

手を伸ばすが、花弁は征平ゆきひらの手を除けて行く


十歳に成った紅子あかねが手のひらを差し出すと

あかい花弁はその手の中に吸い込まれて行く


「母上、どうして私は花弁に逃げられるのですか

 どうして私だけ捕まえられないのですか」

征平ゆきひらふくれっ面で訴える


「母様も捕まえられないのよ」

清寧さやねは手のひらを出して見せた


「本当だ、母上も逃げられる。

 なぜ姉上だけ捕まえられるのですか」

「さぁ、どうしてかしらねぇ」


征平ゆきひら、手を出してごらんなさい」

姉に言われるままに征平が手を出すと

紅子あかねは捕まえたあかい花弁を

弟の手のひらに乗せてやった


幼い征平ゆきひらは喜び

「もっと、もっと取ってください」

とねだり紅子あかねは弟の為に花弁を捕まえる


清寧さやねはその様子を眺めながら

今は遠くへ去った記憶が引き戻される


また必ず一緒にこの桜を見ようと

互いの手を繋ぎながら約束した

心の底に仕舞しまってある人

その人との約束を果たせる事は叶わぬが

娘が手のひらに乗せるあか花弁はなびら

懐かしい人の面影を清寧さやねの隣に並ばせる


清寧さやねは心の中で亡き友に語りかける

「英之進よ、私は曲がりくねった道を歩き

 随分と遠くへ来ちまった

 人は絶えず前へ進むのみ

 どんなにこいねがうとも後戻りはできない

 でも後悔なんぞは微塵もしてないさ

 これが私の道だ

 私が自分の足で歩んで来た道だ

 お前が生きてたら何て言うんだろうか

 なぁ英之進、我が友よ何か言ってくれ」


「母上」

と呼ばれ清寧さやねが顔を上げると

征平ゆきひらが手に乗せた幾枚もの紅い花弁を高く放り

落ちて来る花弁はなびらを見ながら

はしゃいで口にする

「母上、あかい雪のようです」

 

――――――――――――――――――――

――――――――――――――――――――


御祖父おじじ様お客様です」

と孫が言う

「どちら様だい」

「さぁ知らない方です」


「どれ、お顔を拝見してみるか」

山里やさと平左衛門へいざえもん

家督を息子の百太夫ももだゆうに譲り

今は孫達の子守をしながら妻の美佐子と

のんびりと隠居生活を送っている


最近ではひざが痛く妻の手を借り立ち上がる

鬼の平左へいざも既に六十半ばを過ぎていた


暗い廊下の先に構えられた玄関には

夏の強い陽射しが差し込み

そこに立つ者の背中を照らして顔を隠す


平左衛門は痛い足でゆっくりと玄関を目指し

遠くにある人影を見つけると

足が痛いのも忘れ急に歩みを早めながら

名を叫ぶ

「茜。」


玄関に立つのは茜と征平ゆきひら親子であった


「茜、本当に茜か

 まさか幽霊じゃあるまいな」

「足なら、ちゃんと付いてますよ」

と足を上げて見せる妹


「お前にまた生きて会えるとは、

 これで俺は今すぐ死んでも悔いはない」

「そりゃ困りましたね

 私は喪服を持って来て無いですよ」


「馬鹿野郎、兄を殺す気か」

「ご自分で死ぬと仰ったんじゃないですか」


平左衛門の妻、美佐子が笑い出し

「相変わらず可笑しな兄姉の掛け合いです事」

と言いながら涙を拭う


菱尾ひしび藩お家騒動から端を発した

朝倉家討入り騒動から三十年近くが経つのに

未だ菱尾領から出る事のできない妻を

夫の舎人とねりは哀れに思い

藩主の貴景たかかげに直談判し

江戸への里帰りの許しを得てくれ

息子の征平ゆきひらを共に付け送り出してくれた


征平の背中には清寧さやねの刀が背負われている


「兄上、約束通り無事に帰ってきましたよ」

「何が約束通りだ、長くて半年と言ったのに

 三十年近くも待たせやがって」


「仕方ないじゃないですか

 退きならない事情があったんですから」


むくれる清寧さやねの頭を

平左衛門は幼い頃のように

ぽんぽんと優しく叩き微笑む


「よく無事に戻ったな。お帰りよ、茜」



         —— 完 ——

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手のひらの紅(あか) 桶星 榮美OKEHOSIーEMI @emisama224

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