第10話 手のひらの紅
悲しみを抱えたまま茜は城へと辿り着き
そのまま
奥を仕切る側室の
於梅は
光定が唯一愛して側室にした
最も信頼し
が、子は無い
「この
殿から伺い
同じ
せめて子が有れば避けられたのに」
せめて子が有れば
その言葉が
誰よりも
茜の胸を深くゑぐり
子が産めなかった自分を恨む
「殿が新たな名を下さった
これよりは
おっ母さんが付けてくれた名前も捨てるのか
だが今日からは籠の鳥
これも
「
殿から仰せつかっておる
遠慮せず何なりと申すがよい。
それと今夜は殿が
それまで部屋で休むがよかろう」
「はい、
心が悲鳴を上げる
それ以上の言葉を口にする事も出来ずに
夜まで自室でただ時が過ぎるのを待った
時が来て支度を整え
既に
「茜、参ったか
ささっこれを
と父が娘に優しくするように
「茜じゃありませんよ
ご自分で名を付けたのに忘れたんですか」
「そうであった、すまん
と
「許せ
だが
これしか方法が無かったのだ」
「分かってますよ
どうせ藩内で私を殺すと決まったのでしょ
側室になれば誰も手が出せませんからね」
「流石だな、そこまで察するとわ。
運命の歯車が狂ったな」
「ですが後悔はしていませんよ
菱尾に来たから
それで私は満足です」
「それ程に想い合う仲の夫婦を引き離し
儂も心が痛む、許せ。
そうじゃ、此れからは
文も江戸へ届くようになる」
これを聞いた
討入り騒動以来
幾ら
全く返事が無いので不思議に思っていたが
なるほど、自分が出した江戸への手紙は
藩が止めていたのかと合点した
「明日も明後日も
できる限り夜伽に呼ぶので
そのつもりでおれ」
「頻繫に夜伽をして
殿からご寵愛頂いているとなれば
私も奥で生きやすくなるって事ですね」
「
さあ、朝まで碁の相手をしてくれ
「お安い御用です」
この後も
仲の良い父娘の様に夜を明かした
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
茜が
竹馬の友、
クマを従え江戸へと出立した
行きは笑顔の絶えない三人の旅路が
帰りは風の音しか耳に届かない無言の二人旅
ただ黙々と足を運ぶのみ
最後の宿場町の川崎宿を早朝に出て
昼過ぎには江戸の屋敷に到着し
帯刀は旅装束を
休む間も無く江戸藩邸へと出掛けた
クマは帯刀が出かけるのを見計らい
火の着く
それを見て女中のサワは驚き声を上げる
「クマさん何してるんだい
それは奥様の大切な物だろ」
「いいんだ、奥様に頼まれたんだ」
「奥様に頼まれたって
肝心の奥様は帰ってないじゃないか」
「奥様は、もう帰って来られない」
そしてクマは
サワに話して聞かせ
「奥様がサワさんが尽くしてくれた事に
礼を伝えてくれと
サワは膝から崩れながら
「何てこったい、そんな
旦那様と奥様が可哀想じゃないかい」
おいおいと泣いた
それから二人は言付け通りに荷物を
暗い顔で荷車に乗せていく
夕刻になり藩邸から帰宅した帯刀は荷車を見て
「これは
とクマに尋ね
「奥様に自分の物は全て
引き取って頂く様に申し付かりました
これから届けに参ります」
「そうか、私も山里様に
この度の始末を報告に行かねばならぬ」
夕陽に背を押されながら山里家へと
女中のタカが
「旦那様、朝倉様がお見えです」
「そうか
何をしている、上がって頂ぬか」
だがタカは
「それが何だか荷物を沢山お持ちで」
「
と平左衛門は玄関まで迎えに出て
荷車を見て
「こりゃ何だい」
「茜様と離縁致しましたので
持ち物を届けに参りました」
「そりゃ冗談が過ぎるだろ」
と笑ったが
事実だと悟る
「そうか、離縁したか。
それで茜は
「茜様は
「おい、どういう事だ。なぜ茜が側室になる
お前は出世の為に茜を献上したのか」
平左衛門は怒りで声を荒げだす
帯刀は何があっても
口外する事は出来ない
ただ
「申し訳ございません」
と頭を下げるのみ
平左衛門は
「お前は俺に、何があっても
茜は私が守り抜きますと言ったよな
あの言葉は虚言か噓だったのか」
帯刀は口を一文字に結び沈黙を守る
茜が側室になり一番辛いのは
主人の
クマはそれを伝えようとするが
鬼の
遠い昔、あの深川の雑踏の中で
背中で泣きじゃくる幼い妹に
兄様が守ってやると約束したのに
それが果たせない自分の情けなさと悔しさが
より一層に平左衛門の怒りを沸き立たせる
「お前を信じ慕っていた妹を
俺の大事な妹を、物扱いしやがって」
と拳を振り上げる
振り上げた腕に
「父上なりませぬ
縁も
騒動となります」
父を
歯を食いしばりながら淡々と
「朝倉様、叔母上のこと承知致しました
他に用が無ければ早々にお引き取りください」
―――—— ―――—— ―――——
それからの
お勤めに励んだ
母の
早く
全て
二年も経つと業を煮やした尊子は
との便りを
帯刀は初めて返事を書く
短い一文を
【我が妻は、生涯 茜一人にて候】
それ以降、尊子からの手紙は途絶えた
―――—— ―――—— ―――——
クマが三十に成ると
未だ独り身を通す主人に申し訳なく断った
しかし
「お前の師匠なら嫁を取るようにと
勧めただろう
だから私はそうしているのだ」
との言葉に
今でも帯刀が茜を想うからこその事と知り
素直に所帯を持った
クマ夫妻は
そのまま朝倉家に住込み五人の子を
子が増える度に帯刀の表情は
家の中は明るくなり笑い声が響いた
帯刀はクマの子供達に惜しみなく
学問と教養を身に付けさせ
その内の男子一人を養子に迎えた
帯刀が息子に教えた家訓は一つのみ
「
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
茜が
既に藩主は
女房達と西ノ丸に暮らしていたのだが
寄る年波には逆らえず今は病の床にある
人払いがされた部屋には
病重い
「大殿より言い付けである
既に藩主貴景様もご了承
明朝、籠に乗り瀧澤家へ向かうように」
それを聞いて
「私一人で御座いますか」
「案ずるな、
貴景様は、たとえ養女に出しても
相応の家を自ら探すと仰せだ」
「
図々しい事
これ以上の噓は罪に御座います」
「何が噓と申すか」
「
これは
諏訪家の名誉の問題ぞ
大殿と私と
私も墓場まで持って行くゆえ
其方も
よいな
「はい、決して口には致しませぬ」
「大殿はご自身が亡き後
残りの生涯を城で過ごさせるのは
余りに不憫と思われ
瀧澤へ
どうか大殿のお気持ちを快く
受け取って欲しい」
光定が手を伸ばし
か細い声で
「
これが
許してくれ、
「何を仰せです
あの時、大殿が命を助けて下さらねば
今日まで
大殿と
心より感謝申しております」
光定は安堵した様子で
「
二度と何者にも人生を搔き乱されずに
澄んだ水の如く安寧に生きてくれ」
「はい、はい、」
と
涙を流し
その背中を
―――—— ―――—— ―――——
次の朝
城という小さな
身一つで
己の腕を嚙みながら涙を
己の命よりも大切な我が子を生み
身二つとなった
雲一つ無い高く青き空の下
秋の小春日に優しく包まれた籠は
母の深い情を乗せ
一歩一歩と確かな歩みで進み行く
籠に揺られながら清寧は思い
勤めに
細部にまで目が行き届き
何事も抜かりなく遣り遂げる事から
現藩主の
八年前に妻子を病で同時に亡くしてから
浮いた話も無く独り身を通している事から
光定と
安心して
下賜を決めたのであった
それだけ聞けば
申し分ない人物ではあるようだが
それでも一抹の不安は残る
はたして
紅子は
―――—— ―――—— ―――——
下賜された者と賜った者という
ぎこちなく有ったが
毎日、城から戻ると紅子と楽しそうに遊び
夜は紅子が眠るまで
すっかり懐いた
「父上、父上」
と呼ばれる度に
ぎこちなかった
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
元義弟の
妹が菱尾藩主の側室になったと聞かされた時は
なんと可哀想な事と悲嘆に暮れ
それからも、
遠い
複雑な思いに駆られた
【殿より
覚えめでたく何の不自由無く過ごしている】
の
「死んだ生みの母から貰った名前を
取り上げられたのか」
と溜息をつき
【姫を産んだ、大殿は大変喜ばれ
の
「そうか、子を産みお
子が有れば孤独では無くなる」
と安心し
【紅子は大病もせず元気に育っている。
私は毎日、剣術の稽古をしている】
の
「姫が丈夫にお育ちなり何よりだ。
やはり妹は生涯、江戸の鬼娘か」
と笑い
【この度、名を
の
「何てこった、又しても妹は
物の様に扱われ、望まぬ道を歩むのか」
と
己の身を切るような悲しみが胸に詰まる
【
大切に可愛がり、
安堵した】
の
「そりゃ良かった」
と遠い空の下に居る妹と共に
【
私は反対したのに舎人殿が
兄上から一文字頂こうと言い
兄上に似はしないかと私は心配している】
の
「馬鹿野郎、俺に似たらいい男になるだろう。
子を持つほどの仲に成ったのなら安心だ。
それにしても俺の名から一文字取るとは
瀧澤とは実にいい奴じゃぁないか」
と気分を良くする
が、それでも
もう二度と妹には会えぬのかと思うと
悲しさと
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
茜が
十一年の歳月が流れた
辿り着いた場所には
透き通る
大きく立派な桜の樹が
五歳に成った
一目散に樹の下へ走り出し
ひらひらと舞い落ちる
手を伸ばすが、花弁は
十歳に成った
「母上、どうして私は花弁に逃げられるのですか
どうして私だけ捕まえられないのですか」
「母様も捕まえられないのよ」
と
「本当だ、母上も逃げられる。
なぜ姉上だけ捕まえられるのですか」
「さぁ、どうしてかしらねぇ」
「
姉に言われるままに征平が手を出すと
弟の手のひらに乗せてやった
幼い
「もっと、もっと取ってください」
とねだり
今は遠くへ去った記憶が引き戻される
また必ず一緒にこの桜を見ようと
互いの手を繋ぎながら約束した
心の底に
その人との約束を果たせる事は叶わぬが
娘が手のひらに乗せる
懐かしい人の面影を
「英之進よ、私は曲がりくねった道を歩き
随分と遠くへ来ちまった
人は絶えず前へ進むのみ
どんなに
でも後悔なんぞは微塵もしてないさ
これが私の道だ
私が自分の足で歩んで来た道だ
お前が生きてたら何て言うんだろうか
なぁ英之進、我が友よ何か言ってくれ」
「母上」
と呼ばれ
落ちて来る
はしゃいで口にする
「母上、
――――――――――――――――――――
――――――――――――――――――――
「
と孫が言う
「どちら様だい」
「さぁ知らない方です」
「どれ、お顔を拝見してみるか」
家督を息子の
今は孫達の子守をしながら妻の美佐子と
のんびりと隠居生活を送っている
最近では
鬼の
暗い廊下の先に構えられた玄関には
夏の強い陽射しが差し込み
そこに立つ者の背中を照らして顔を隠す
平左衛門は痛い足でゆっくりと玄関を目指し
遠くにある人影を見つけると
足が痛いのも忘れ急に歩みを早めながら
名を叫ぶ
「茜。」
玄関に立つのは茜と
「茜、本当に茜か
まさか幽霊じゃあるまいな」
「足なら、ちゃんと付いてますよ」
と足を上げて見せる妹
「お前にまた生きて会えるとは、
これで俺は今すぐ死んでも悔いはない」
「そりゃ困りましたね
私は喪服を持って来て無いですよ」
「馬鹿野郎、兄を殺す気か」
「ご自分で死ぬと仰ったんじゃないですか」
平左衛門の妻、美佐子が笑い出し
「相変わらず可笑しな兄姉の掛け合いです事」
と言いながら涙を拭う
朝倉家討入り騒動から三十年近くが経つのに
未だ菱尾領から出る事のできない妻を
夫の
藩主の
江戸への里帰りの許しを得てくれ
息子の
征平の背中には
「兄上、約束通り無事に帰ってきましたよ」
「何が約束通りだ、長くて半年と言ったのに
三十年近くも待たせやがって」
「仕方ないじゃないですか
と
平左衛門は幼い頃のように
ぽんぽんと優しく叩き微笑む
「よく無事に戻ったな。お帰りよ、茜」
—— 完 ——
手のひらの紅(あか) 桶星 榮美OKEHOSIーEMI @emisama224
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