第7話 菱尾

勤めから戻った帯刀たてわき

「江戸家老の牧本まきもと様より

 ご用をうけたまわしばらくの間

 菱尾ひしびへ戻ることになった」

「まぁ、いつ江戸を立たれるのです」


「三日後だ」

「そんな急なのですか

 それで、いつ戻れるのです」


「三ッ月か四ッ月か、半年掛かるかも知れぬ」

「それは大変、早く荷造りをしませんと」


「手数を掛けるな」

「何をおっしゃってるんです

 自分のことはご自分でしてください

 私は自分の荷造りで忙しいですから」


何故か帯刀は慌てる

「ちょっと待て

 まさか一緒に行くつもりか」

勿論もちろん行きます。

 して三年も経つというのに

 朝倉の義母はは上様への御挨拶を

 まだしておりませんので」


「その様な事は無用だ、

 物見遊山に帰るのでは無いのだぞ」

 

茜は帯刀に背を向けたまま

「分かっております。

 ですが旦那様のお世話をするのが妻の役目

 一緒に菱尾ひしびおもきお世話をします」


何とか思いとどまらせようと帯刀たてわき


菱尾ひしびまではの道のりは十日は掛かる

 旅慣れぬ女子おなごには無理がある」

「大丈夫ですよ

 お伊勢参りに大店おおだなの奥方達の護衛として

 何度も行ってるので旅は慣れてます」


帯刀は更に止める言葉を探すのだが

探し終わる前に茜が笑顔で

「あの仕事は良かったですよ

 只で温泉に浸かって旨い物を食べて

 お伊勢様にお参りして

 賃金まで貰えるんですから」


これは駄目だ

茜は一度言い出せば

何が有ってもやり通す気性で止められない

帯刀たてわきは半分諦め


「では明日、牧本まきもと江戸家老様に

 通行手形を頂けるようお願いしてみるが

 もし許しが出なければ

 大人しく留守をするのだぞ」

「はい、承知しました」


茜は嬉しそうに返事をし

「サワ、サワ、荷造りを手伝っておくれ」

とサワを呼びながら自分の部屋へと消えた


嬉しそうな妻の様子を見て

これは自分が折れるしかない

何としても牧本様に

茜の同伴をお許し頂けねば

後々まで文句を言われるぞ

と帯刀は溜息をつく

江戸は入り鉄砲出女の取締りが厳しい

通行手形が無ければ女は関所を通るこが

出来ないのがおきてである


この時の茜は

吞気のんきに同行を言い出したのでは無かった

ここ最近の何かに思い悩む帯刀たてわきの様子が

気になっていたのだが

そこに突然の菱尾ひしびへの帰郷と聞き

何か大きな事が起きるのを剣客として直感した

もしもの時は帯刀を守らねば

二度と大切な者を失いたくない

との思いが茜を動かす


翌日

帯刀たてわきは茜の通行手形を持って帰宅した

これで大手を振って

帯刀と共に菱尾ひしびへ旅立てると

茜は安堵あんどする


―――——  ―――——  ―――——


菱尾ひしびへ旅立つ前日に

帯刀と茜は山里家を訪れた


二人揃っての訪問は

毎年、新年の挨拶回りくらいなので

平左衛門へいざえもん

もしや嬉しい報告かと期待した


「おう、珍しいなぁ正月でも無いのに

 夫婦めおと揃って顔を出すとは」

「急なご用向きで茜を伴い

 菱尾ひしびへ帰郷する事となり

 暫く江戸を留守に致しますので

 御挨拶に伺いました」


平左衛門は期待が外れ

内心、少々がっかりはしたが


「そうか、そいつは良いじゃないか

 菱尾ひしびにはどれぐらい滞在するんだい」

「長ければ半年程になるかと」

 

「まぁ半年なんぞ、あっという間だ

 心配なのは茜の粗忽そこつ振りが露呈して

 朝倉の義母はは上様の気にさわ

 離縁されやしないかと言う事だな」


平左衛門が冗談で言った言葉に

帯刀たてわき


義兄あに上、その様な事はありません

 茜は良き妻ですからご安心ください

 きっと母も気に入ります。

 それに、何があっても

 茜は私が守り抜きますので」


平左衛門は

普段は無駄に口を利か無い帯刀が

向きになり話す姿と

茜は自分が守るとの言葉に

今日までは

例え嫁に出した妹であっても

自分が守ってやらねばと考えていたが

ああ、この男に全て任せて大丈夫なんだ

この男は約束をたがえずに

本気で妹を守ってくれると信じて良いのだ

ならば俺のお役も御免だなと

嬉しくも有り、寂しくも有る心持ちであった


「叔父上、菱尾ひしびの名物は何ですか

 私は食べ物がいいなぁ

 土産は是非、旨い物をお願いします」


甥の百太夫ももだゆうが遠慮なく強請ねだるので


百太夫ももだゆう元服げんぽくも済んだというのに

 お前はいつになれば大人に成るんだ」

茜が呆れて言うと

百太夫ももだゆう

「そりゃぁ叔母上が大人らしくなる頃には

 私も成んじゃないんですかねぇ」

と返したので

帯刀はらえ切れずに笑い出す


平左衛門と美佐子に見送られ

茜は

「兄上、無事に戻りますから

 無駄な心配は無用ですからね」

と笑顔で言い帯刀と山里家を後にした


二人の背中を見ながら平左衛門が

「てっきり子が出来たとの

 知らせだと思ったんだが期待が外れたな

 何時いつになれば子が出来るのか」

と心配そうに言う

美佐子は

「心配なさらなくても

 子はその内に授かりますよ。

 あんなに仲が良よくて

 何よりではないですか」

「そうだな、夫婦仲良くが一番だな」


―――——  ―――——  ―――——


帯刀と茜はそのまま

茜の剣術の師匠であり

菱尾ひしび藩主

諏訪すわ光定みつさだの友でもある十内を訪ね

ご用向きで夫婦揃って菱尾ひしびへ帰郷し

暫く江戸を離れることを告げた


「道中、気を付けて参れ」

十内がそう言った時

茜と目が合った


その目を見て茜は

こりゃ先生も何か菱尾ひしび藩に

不穏な事が起きているのに感ずいている

と直感した

師弟の阿吽あうんの呼吸である


茜の直観通りに十内は

菱尾藩江戸目付けを務める帯刀たてわき

直々に国元へ戻るのは

藩内で何やら良からぬ事が起きている

それは藩の存亡に関わる大事に違いない

と確信した

そして弟子の茜が

余計なことに首を突っ込みはしないかと

心配する


「朝倉殿、

 しっかりと茜の手綱たづなを引いてくれ

 頼んだぞ」

「はい、しっかりと手綱を引きます」

「お二方、私は馬じゃありませんよ」

と茜は苦笑いをする


―――——  ―――——  ―――——


最後の行先は英之進の墓であった

茜は英之進が亡くなってから

毎月欠かさず月命日には墓参りをしていた


「英之進、暫く江戸を留守にするから

 顔を出せない、悪いなぁ勘弁してくれよ

 戻ったら必ず来るからな」


そう言い手を合わせる茜の後ろで

帯刀たてわきは黙って手を合わせる


―――——  ―――——  ―――——


「これで挨拶回りは終わりましたね

 いよいよ明日は菱尾ひしびへ出立です」

「そうだな、私も七年ぶりの菱尾だ」


二人で肩を並べて歩く桜並木


見上げれば桜の樹は

まだ蕾も付けずに静かに春を待つ


菱尾ひしびの春は早い

 着く頃には桜も満開だろう」

「それは楽しみです」

と言い

無邪気な笑顔を見せる茜

愛おしい妻の笑顔に心をなごませる帯刀たてわき

何時いつまでも

この妻の笑顔を守って生きると誓い

何気ない一時ひとときまでもを愛おしく感じる


―――——  ―――——  ―――——


女中のサワに見送られ

帯刀たてわきと茜は

中間ちゅうげんに成ったクマを従え

旅路についた


見送りの時に

「クマさん、旦那様と奥様を頼んだよ」

サワが言うと

「おう、任せてくれ」

とクマは返した


以前は何時いつもおどおどとして

覇気がなく老人の様だったクマであったが

茜の弟子となり

毎日、小太刀こだち術の稽古と

学問に真面目に取り組み

剣術が強くなっただけではなく

学問を身に付ける事により

物事のとらえ方を深め判断力が高められた

この事がクマの小太刀術の

更なる向上を後押ししただけでなく

顔つきも凛とし

立ち姿も青年らしく胸を張り

以前のおどおどとした面影もない

これぞまさに心技一体であろう


まだ今の茜には

クマに剣術の才が有るか無いかは

推し量る技量を持ち合わせず分からない

だが、真摯に修行に取り組むクマは

これからも成長するであろうと事は

容易に確信んできた


―――——  ―――——  ―――——


初めて夫婦めおとで旅する道中

夫は樹が生い茂る山道でそっと手を差し出す

妻は助けなど必要なく歩けるが

夫の気遣いが嬉しく

素直にその手を取って歩く

言葉を交わさなくても

互いの思い遣りと感謝の心が

重ねた手の温もりから通じ合う帯刀たてわきと茜

後ろから二人の姿を見るクマも

夫婦めおとの情の深さを感じ取る


旅ので立ちは

帯刀は武士として当然ながら

大太刀と脇差しの二本差し

中間ちゅげんのクマは脇差し一本

茜は武家の女子として懐剣かいけんである


だが茜は自分の刀を

クマに背をわせ持参していた

帯刀は知ってはいたが何も言わなかった

見合いの席で

茜が刀を置く事を望んでいない

と言ったのは自分であり

今もその考えに変わりは無いので

敢えて、その事には触れず

剣客である妻の自由にさせていた


―――——  ―――——  ―――——


十日の道のりを歩き終え

一行は菱尾ひしび領地に足を踏み入れた

帯刀たてわきには七年ぶりに目にする故郷こきょうであり

茜には初めて目にする夫の故郷ふるさとであった


城下町は街並みが心地よいほど整えられ

奥ゆかしささえ感じられる


「さすが大名様の御領地ですね

 美しい街並みで私の故郷とは大違いです」

クマは素直に称えた


「この様に美しい街並みの中で

 帯刀様は生まれ育たれたのですね

 この目で見られ嬉しゅうございます」

微笑みながら言う茜を見て

帯刀は妻を連れて来て良かったと思った


帯刀たてわきの実家に着くと

父の正長まさながと母の尊子たかこ

兄の信利のぶとし、その妻の小夜子に息子の長賢ながまさ

家族皆に出迎えられた


「父上、母上、長らく戻れず

 申し訳ございませんでした」

「何を申すか帯刀たてわき

 今や江戸目付け役にまで出世してくれ

 わしは嬉しいぞ

 茜も遠路よく来てくれた」


父の正長まさながは上機嫌である

それに対して母の尊子たかこ


帯刀たてわきは生まれた時から

 賢い子だったのですから

 目付け役など当然の事です」

と言い放ち

「長旅で疲れたであろう

 早く部屋へ行き休みなさい」

と気遣った


「それでは少し休ませていただきます

 茜、休ませてもらおう」


帯刀にともない茜が部屋を出ようとすると


「お待ち、誰がお前に休んで良いと言った」

そう言い尊子が茜を睨んでいる


茜は一瞬何のことか理解できず

動きを止めると

尊子は続けて

「今夜は久方ぶりに戻った帯刀たてわきの為

 出世祝いも兼ねた席を用意するので

 台所は大忙しじゃ

 さっさと身支度をして手伝いなさい」


帯刀たてわき

「母上、茜も疲れておりますので

 休ませてやりませんと」

と茜への気遣いを口にしたが


「よそ者が只で寝泊まりするのですよ

 手伝うのが当たり前です」

尊子たかこは言い切る


これに帯刀は腹を立て

「茜はれっきとした私の妻です」

と言い返したのだが

兄の信利のぶとしが帯刀に視線を送り

波風立てるなと言わんばかりに首を横に振る


茜は、そっと帯刀の袖を引いてから

「はい、直ぐ支度を整え台所へ参ります」

と応えた


兄嫁の小夜子が

「客間を用意しましたから

 案内いたしましょう」

その場の空気を切るように

立ち上がり二人を部屋から連れ出した


廊下を歩きながら

「茜さん、今日は

 ただ台所にいるだけでいいですからね

 お疲れなんですから

 台所はあちらの廊下を」

小夜子が教えようとすると

帯刀は

「義姉上、私が連れて行きますから」

と断り用意された部屋に茜と入った


二人きりになると帯刀たてわき


「済まない茜、

 母上は朝倉家の一人娘で大切に育てられ

 我儘わがままが過ぎるところがある

 着いて早々に嫌な思いをさせた」

義母はは上は帯刀様を産んで下さった

 大切なお方、これも親孝行にございます」


茜がそう言っても帯刀たてわき

なおも母の態度を納得し兼ねた様子である


帯刀たてわきと茜が台所へ行くと

使用人達が働く手を止め

お帰りなさいませと口々に頭を下げた

だがそれは帯刀たてわきにだけ向けられたもので

茜には無言で冷たい視線を向け

誰一人として頭を下げる者はいない


平素は使用人にも寛大で

怒った事など無い帯刀たてわきであるが

使用人達の妻に対する態度が許せずいきどお

声を荒げそうになった

だが茜に

「これは経験済みです

 めかけの子の私が山里の家に入った時にも

 使用人達から同じ仕打ちをされました

 だから何ともありません」

と穏やかに笑いながら耳打ちされ

帯刀たてわきは言葉を飲み込んだ

妻が庶子しょしである事は知っていたが

幼い頃に、そんな苦労をしていたのかと

胸を痛める


義姉の小夜子が

「茜さんに前掛けを作ったのよ

 気に入ってもらえると良いんですど」

「まぁ、有難うございます嬉しいです」

と茜は素直に喜び

帯刀も

「義姉上、お気遣いかたじけ無い」

と礼を口にした


「なんです、他人じゃあるまいし

 帯刀たてわきさんの妻ならば私の義妹いもうと

 仲良くやりましょうね、茜さん」

「はい義姉上、宜しくお願い致します」


義姉がいてくれれば安心だと

帯刀は安堵あんどした


小夜子は嫁に来てから

尊子たかこには口答え一つせず

今では家の切り盛りを任せられている

出しゃばる事は無く

気配りが行き届く物静かな人柄であるが

芯の通った女である


帯刀たてわきさん、早く戻って休みなさい

 義母上からまた小言を言われますよ。

 茜さんは座っていてね

 長旅で疲れているのですから」


「では義姉上、茜を頼みます」


帯刀が部屋へ戻るのを見届けると

茜はたすきを掛け土間に降り

女中等の側に寄って

「何からすれば良いのか」

尋ねて働き出す


小夜子は慌て止めようとしたが

無理強いも良くないだろうと

「疲れたら休むのですよ」

とだけ言い一緒に身体を動かした


夕餉ゆうげの膳には馳走ちそうが並べられた


最後にやって来た尊子たかこ

下座に座る茜に言葉を吐く

「なにを座っている

 新参者は給仕きゅうじをするもの

 そんな事も分からぬのか」


母のその言葉に

帯刀の顔が曇る

しかし茜が小声で

「たった半日で私は出世しました

 よそ者が新参者に格上げです」

悪戯いたずらっぽく笑うので

帯刀も

「そのようだな」

と笑顔になった


夜になり

帯刀と茜は、やっと二人きりになれ

枕を並べながら

「辛くはないか」

と夫が妻に問う

逆に妻が問う

「何がです」

「母上の物言いだ」


「何も辛くなどありませんけど」


その答えを聞いて帯刀たてわき

やくざ者や掏摸すりの元締め相手に

臆することなく啖呵を切りり込め

刀を抜けば死をも恐れずに

立ち向かう妻の姿を思い出す


帯刀たてわきは茜を引き寄せ

その胸に抱きながら

「そうであった、

 我が女房殿は江戸の鬼娘

 姑なんぞ敵では無いな」

「それは私に嫌味を言っているのですか」


「いや、女房殿に惚れていると言ったのだ」


―――——  ―――——  ―――——


翌日

帯刀たてわきと茜はクマをしたがえ外出した

行先は帯刀の竹馬の友

二藤にとう幸太郎こうたろうの屋敷である


二藤にとうはよく喋る男であった

会うなり

「いやぁ茜さんには是非お会いしたいと

 思っていたんですよ。

 帯刀たてわきは子供の頃から剣術と学問にしか

 興味がない詰まらない奴で

 それが江戸で人並みに恋をして

 頭を下げて嫁をもらうとは

 全くもって青天の霹靂へきれきでしたよ。

 こんなに可愛らしいひとを妻にして

 お前も隅に置けない」


帯刀たてわき

「お前は相変わらず下らぬ事を

 ぺらぺらと話す奴だ」

と言うが決して嫌ではない事はうかがえる


二藤にとうには六歳を頭に三人の娘がいた

「ひとつ屋根の下で女四人に囲まれ

 男一人は肩身が狭い」

と笑う

二藤の妻が子供達を連れ挨拶に現れた

三番目の娘は生まれたばかの赤子あかご

母の腕の中で眠っている


茜が赤子あかごを見て

「まぁ可愛らしい」

と口にした

二藤にとうの妻は

「宜しければ抱いて上げてください」

そう言いって赤子を茜の腕に抱かせた


腕に抱いた赤子は

柔らかくて温かで甘い香りがし

今にも壊れそうな程に小さいのに

生の息吹を体中から力強く発している


それまでに見た事の無い

優しく輝く瞳で

じっと赤子あかごを見詰める茜の横顔を

帯刀たてわきは静かに見ていたのだが

茜の顔が一瞬曇ったのを見逃さなかった

あぁ妻は子が出来ない事をなげいているのだ

と気持ちをみ取り妻を不憫ふびんに思う


―――——  ―――——  ―――——


二藤家からの帰り道

帯刀が

茜に見せなければならない物があるからと

家とは逆方向へ歩き出した

着いた先には

樹齢三十年の大きく立派な桜の樹が

透き通る真空色まそらいろの空下で

紅い花弁はなびらを惜しみなく降らせている


帯刀が手のひらを広げると

紅い花弁は一枚また一枚と

吸い込まれる様に手のひらに舞い降りる


茜はその姿を見て

相変わらずに花弁を捉えるのが上手いのだな

と思いながら桜の樹を見上げる


「茜」

と呼ばれ振り向くと

帯刀は両の手のひらに積もらせた

紅い花弁に勢いよく息を吹きかけた

吹かれた花弁は桜吹雪となって

茜の頭上に降り注ぐ


あっ、と声を上げ

「紅い雪」

茜が静かに呟きながら微笑む


「茜、どこにも行くな

 私の手を離すな

 私もお前の手を決して離さない

 ただ信じてそばに居てくればいい

 それだけで良いんだ」


帯刀の唐突な言葉に一瞬は戸惑ったが

自分が二藤にとう家で赤子を抱きながら

子が出来ずに申し訳ないと思った事を

気付いた夫の言葉だと察した


そして以前

子が出来ない事に気を病んだ時

子が欲しくて妻にした訳では無い

私の望みは、

共白髪まで茜と手を取り合い生きること

との夫の言葉を思い出し

夫の一番の幸せは自分と共に生きることで

自分も夫と共に生きる事が幸せで

一番に大切なことなのだ

だから、もう悩むのは止めよう

夫と寄り添い生きることだけを考えよう

と心を軽くした


「はい、決して手を離しません」

「いつか必ず二人で手を取り合い

 またこの桜を見に来よう」


「約束ですよ」

「ああ、約束だ」


二人は手をつなぎ

共に誇らしげにそびえる桜を見上げ

その美しい光景を目に焼き付ける


―――——  ―――——  ―――——

 

翌日から

帯刀たてわきは毎日どこかへと出掛け

帰りが遅くなる事もあれば

夜になってから出る事もある


何処どこで何をしているのか

誰と会っているのか

江戸家老の牧本から

言いつけられた任は何なのか

帯刀たてわきは何も話さないし

茜も尋ねる事はしない


ただ夫の様子から

やはり藩に重大な問題が起きていることは

確信できた


そんな生活が二月も経った今では

クマはすっかり朝倉本家の使用人達と

仲良くなっていた

初めの頃は嫌厭けんえんされていたのだが

その理由わけ

クマは江戸者だから田舎者の自分らを

見下しているに違いなとの実に馬鹿馬鹿しく

他愛ない事であった


ある時、下男の一人が

「俺らを田舎者と馬鹿にしてるんだろう」

とクマに面と向かって口にした


「馬鹿になんかするもんか

 俺の生まれ育った国は菱尾ひしびより

 ずっと貧しくて苦労した

 病気の弟の治療費を稼ぐ為に

 泣く泣く江戸に出たんだ」

「そうかい、クマさんは弟想いなんだな」


「俺も菱尾ひしびに生まれてれば

 貧乏苦労をしなかっただろうに

 こっちの方こそ田舎者と馬鹿にされるな」

とクマは笑った


それからは使用人達はクマと打ち解け

仲良く働いていたのだが


帯刀たてわき様は殿様の言いつけで

 好きでもない女を嫁にして

 本当にお気の毒だ」

と女中らが言うのでクマは驚き

あるじ夫婦ふさいの事を話して聞かせた


うちの旦那様が教えてくれた

 ご自分が奥様に惚れて

 見かねた殿様が仲を取り持ってくれたと」

「それは本当かい」

と女中らは怪訝な顔を見せた


「ああ本当だとも

 お二人が喧嘩したのを見た事が無い。

 大きな桜があっちの方に有るだろ」

「あるよ、菱尾ひしび一の桜さ」


「その桜の下で

 お二人は仲良く手をつないで

 じっと桜を見上げてらして

 そのお姿を離れて見てる俺の胸が

 熱くなった程の仲の良さ」


これを聞いた年増としまの女中がしたり顔で

「確かに、私にゃわかるね

 帯刀様が小さい奥様を見る目

 あれは惚れた女を見る目だよ」

と言うと他の使用人らもうなず


「だいたい無理矢理に

 嫁を取らされたと言ったのは奥様なんだよ

 きっと、いつもの思い込みで言ったんだよ」


又しても使用人らは頷く


「あの真面目が刀を差して歩いてる様な

 帯刀様が恋い慕うなんてねぇ」

「本当だよね

 こりゃ相当な惚れ込みようだね」

「ちょっと皆、

 私達も小さい奥様を大事にしないと

 罰が当たるよ」


使用人らは顔を突き付けて

此れからは小さい奥様の世話を

ちゃんとしようと話し合った

使用人達の間では

尊子は奥様、小夜子は若奥様と呼ばれ

茜は小さい奥様と呼ばれている


一方で茜は、

持ち前の明るさでよく働き

本家の家族から信頼を得て

朝倉家の嫁として認められる様になった


ただ一人、義母の尊子たかこを除いて。


 


 



 





 






 

 



 



 


 



 

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