第6話 朝倉 茜
「ご存知の通り、
この者は若いので一命は取り留める、
と思う」
何とも頼りない言いように
「解毒薬が無いのは知っています
が、何か手立ては無いのですか」
と言い寄り
医者は
「念のため
心の臓と肺の腑を強くする薬を飲ませよう
明日には毒は抜け目を覚ます、と思う」
「それで結構ですから
少しでも助かる確率を上げてください」
と帯刀は医者に頼んだ
急を聞きつけ茜の姉兄
千草と
皆、まんじりともせず
気を失い横たわる茜を囲む
朝になっても茜は目を閉じたままで
呼んでも反応が無い
昼になっても茜の意識は戻らない
皆は不安に襲われ始める
夕刻
薄っすらと目を開いた
姉の千草が茜の手を握り
「茜、茜、しっかりしなさい
私が誰だか分かりますか」
茜は弱々しい声で
「あね、う、え」
「そうです、姉の千草ですよ
良かった、良かった気が付いて」
千草は安堵し涙ぐむ
「姉上、」
「なに、何です茜」
「腹が減りました」
千草は
大切に握っていた茜の手を放り投げ
「何です、お前という
こんなに心配させておいて
いきなり腹が減ったなどと
他に言う事があるでしょうに」
と怒り出す
皆が安堵の涙を流すのかと思いきや
声を上げ笑いながら口にした
「私は、茜さんの
そんなとこも好きなんですよ」
―――—— ―――—— ―――——
自宅で療養し五日もすると
すっかりと元気になった茜は
髪を
玄関で
勤めから戻った
「何処へ行くのだ」
「朝倉様に見合いの返事を伝えに参ります」
「直接に、自分で返事を伝えるのか」
「はい、それが何か」
「いや、うん、別に何でも無い
気を付けて行って来い」
と妹を見送ったものの
受けるのか断るのかと
平左衛門は気になって仕方ない
―――—— ―――—— ―――——
茜は
門番に取り次ぎ
藩邸の前は家路を急ぐ人の往来が賑やかで
空では日が隠れ始め月が姿を現している
「茜さん、もう出歩いて大丈夫なのですか」
「はい、お陰様で。
朝倉様には助けて頂いたこと
お礼を申し上げます」
「礼など無用です。
今日はわざわざ、それを言いに」
「いえ、お返事をしに参りました」
突然に見合いの返事と聞き
もしや断られるのかと
一気に緊張が走った
耳が赤くなり嫌な汗をかく
「その前に、お聞きしたいことが」
「何です」
「見合いの時、朝倉様は私に
それは誠でございましょうか」
「
私は貴女に刀を捨てさせるつもりは
ありません」
その言葉を聞き
茜は、ほっとした様子で
紙入れを取り出し開く
それには見合いの日に
紅い
大切に収められていた
そんな物を大切に持っていてくれたのか
と驚き感激する
茜は紙入れの
真っ直ぐに帯刀を見て
「見合いの日に頂いた
この朝倉様のお心を
有難く頂戴いたしたく存じます」
「それは、」
「山里茜、この縁談を
お受けしとう御座います」
「それは本当ですか、良いのですか
私の妻になっていただけるのですか」
「はい。宜しくお願い致します」
「そうですか、そうなんですね
嬉しいです茜さん。
早く殿にご報告せねば」
と思ったら慌てて転びそうになりながら戻り
「ご自宅までお送りします」
と言う
その姿は今まで見た事の無い慌てぶりで
まるで童ではないか
と茜は可笑しくて、くすりと笑い
「私にはお構いなく
殿に宜しくお伝えください」
「はい、ではこれで。
お気をつけてください」
帯刀は、そう言い終わると
一目散に
藩主、
報告を受けた光定は膝を叩き
「でかした、朝倉」
と喜びを
すぐに厳しい顔をし
「茜は
儂にとっても
幼い頃から知る茜は、娘のように可愛い
もし粗末に
―――—— ―――—— ―――——
家族で
平左衛門と美佐子の一人息子で
茜の甥、
「叔母上、朝倉様への返事は
どうされたのですか」
と尋ね
平左衛門は味噌汁に
平左衛門だけである
こいつ、べらべら喋りやがってと
茜は兄を
平左衛門は茜と目を合わせぬ様に
「それで、受けたのですか
断ったのですか、どっちなんです」
「お受けした」
と答えた
「えっ。受けたんですか
それじゃぁ私は大損ですよ」
「大損とは何のことだ」
「叔母上が嫁に行くか行かないかを
友達と賭けていたんです
私は行かない方に賭けたのになぁ」
「
賭けをしてたのか
まったく誰に似たんだか」
茜が怒っているのに
「そりゃ伯母上に似たんですよ」
と言い
平左衛門と義姉の美佐子は
必死に笑いを
―――――――――――――――――――
―――――――――――――――――――
明日は
朝倉帯刀と山里茜の婚礼が執り行なわれる
茜が一人、縁側に座り月を見ていると
兄の平左衛門が通りかかり
「何をしている」
と声を掛けた
「ここから月を見る事は、もう無いのだなと」
「何を言ってる、
遠くへ
朝倉殿は生涯江戸勤めなのだから
これからも同じ江戸の空の下じゃないか」
「そうですね」
「茜、嫁に行ったら何事も辛抱しろ
辛抱して、辛抱して、辛抱して、
大手を振って戻って来い
どこへ嫁に行こうとも
お前は俺の大事な妹なんだから」
「兄上、今日まで育てて頂き
有難うございました」
「何を言ってんだ、
当たり前の事をして来ただけだ
それに、あの日に約束した
俺がお前を守ってやると」
あぁ、そうだった幼い日に
亡くなった生みの母を探しに
深川まで行った時
兄は、お前を守ってやると約束してくれ
苦しい時も、悲しい時も
私が前へ踏み出せるように
そっと背中を押し助けてくれた
そんな兄に憧れ
背中を追いかけ剣の道に進み
今日まで来たのだ
全ては兄が守っていてくれたからの事
そう思うと茜の目からは
兄への感謝で一筋の涙が流れる
「何を泣いてんだ、
明日は一世一代の目出度い日なんだぞ
もう寝ろよ」
と平左衛門は妹の頭を
幼い頃のように、ぽんぽんと優しく叩いた。
―――—— ―――—— ―――——
江戸屋敷長屋を出て一軒家に移り住んだ
婚礼は、江戸家老の牧本が媒酌人を務め
帯刀の父、
母の
茜は尊子を心配し義父の
「
お悪いのでしょうか」
と尋ねると
「いや、ただの風邪じゃ大事無い」
と言い
義兄の
「大事を取って江戸に赴かなかっただけなので
心配には
と言うので茜は安堵したのだが
病が原因では無かった
尊子は
嫁は自分が選んだ者をと決めていた
なのに何の相談も断りも無く
幕臣の娘を妻にすると言うのが許せない
しかし殿の口利きとあらば
表立って文句も言えず反対もできない
余りの悔しさで
列席しなかったのである
そうとは知らずに
そして、優しい良い嫁だと感心する
―――—— ―――—— ―――——
初夜の床で茜は
「朝倉様、
末永く宜しくお願い致します」
と
「茜、今日から
「あぁ、そうでした。私も朝倉でした」
二人は
「今日は朝から忙しく
帯刀様もお疲れでしょう
ゆっくりお休みなさいませ」
と茜は
さっさと自分の寝床に入ってしまった
何かの冗談かと思い
茜は
先に寝る新婦がいるのかと
だが
ああ、この人は私の妻になったのだと
その寝顔を見ながら幸せを嚙みしめる
―――—— ―――—— ―――——
互いに
他愛もない事で笑いあう
そんな二人を奉公人のクマとサワは
微笑ましく見ている
祝言を挙げてから三ヶ月
梅の花が咲き始めた頃
茜と義姉の美佐子は
姉の千草の呼び掛けで
女三人揃って
一日でも早く茜夫妻に子が授かる様にと
手を合わせて願をかけた
千草が
「
と聞くので茜は
「旦那様は最近お勤めが忙しく
毎日お疲れのようです」
と答えると
「それでは子作りが
と心配そうに千草が言う
茜は明るく
「大丈夫ですよ、祝言を挙げ
毎晩、枕を並べ寝ているのですから」
と答えた
茜の言葉に千草は
「枕を並べるだけでは子はできないでしょう」
と言い
今度は茜が首を
「初夜はどうだったのです
周りに聞こえぬよう千草が小声で尋ねた
茜は、何を当たり前の事を聞くのだと
「そりゃぁ慣れない事で疲れているだろうと
気を使って早々に寝ました」
「それから後は、
毎晩どうしているのです」
「よく眠れていますよ」
千草は青い顔し
「嫁入り前に
と美佐子を問い詰める様に言った
美佐子も顔を青くしながら
「世間慣れした茜さんが
知らないはずは無いと思い」
「教えなかったのですね」
「はい。申し訳ありません」
姉たちは何を揉めているのかと
巻き込まれないように遠目で
「美佐子さん、あれは持っていますか」
「はい、嫁入の時に持たされた物が
ございます」
「では急ぎますよ」
千草は、いきなり茜の手を引き
速足で歩き出し、美佐子も続く
「千草姉上、どこへ行くんです」
「
山里家に着くと千草と茜は
嫁ぐまで茜が使っていた部屋で
美佐子を待った
待つ間、千草は
「お待たせしました」
美佐子が持って来た書物を千草に渡した
千草は姿勢を正し
「茜、これが妻の夜の心得です」
と開いた書物は
生まれて初めて目にする
「義姉上はこんな物を
隠し持っていたのですか」
と茜は驚き美佐子に言った
千草は
「美佐子さんは隠し持っていたのではなく
妻の努めと教えられ
里から持たされたのです
よいですか茜、
子を作るには、この様にするのです」
そうだったのかと茜は驚く
「そして、ここに書かれている様に
契りを結んで初めて
それを貴女は三ッ月もの間
何もせぬとは、
それでは離縁されても文句は言えません」
―――—— ―――—— ―――——
山里家からの帰り道
茜は初めて知った子作りの事実と
千草に言われた
頭の中で繰り返され
段々と
茜は
黙って玄関で刀を受け取り
着替えの手伝中も口を利かず
黙々と
明らかに怒っている茜に
自分が何か不味い事をしたのかと
考えてはみたが、何も思い当たらない
何か声を掛けようかと考えた
だが、こんな時は下手に口を利かずに置き
妻が怒りを口に出したら
父や兄を見て心得ている
夜も深まり
帯刀が寝室に入ると
しかも布団の上で膝を揃えて座り
自分が来るのを待ち構えていたので
いったい何を怒られるのかと
夫は戦々恐々とし嫌な汗を流しながら
妻と膝を向かい合わせる
「帯刀様、どうしたら子ができるか
ご存知でしたか」
突然の突拍子もない質問に
何か裏があるのかと考えながら
「
と答えた
見る見る妻の顔は怒りを帯び
「どうして教えてくれなかったのですか」
と言う
教えてくれなかった、とは
つまり子作りの方法を知らなかったのかと
夫は
「まさか知らなかったのか」
と口にしながら
続けて、その様な事は嫁入り前に
里の母や女中から指南を受けるのが
武家の慣わしであろう、と言いかけたが
こんな時に夫が意見をするのは
妻の逆鱗に触れるだけと言葉を飲み込んだ
すると妻は今度は目を潤ませながら
「帯刀様は私と離縁したいのですか
契りを結ばねば
離縁されても文句は言えぬと
姉上が言っておりました」
夫は目を潤ませる妻の腕を掴み
優しく体を引き寄せ
「馬鹿言をうな。
誰が、こんなに愛おしい女を手放すものか」
と真剣に口にする
妻は夫の胸に顔を埋めながら
「起こして下されば良かったのに」
夫は微笑みながら
「茜が大切過ぎて
起こすのが忍びなかったのだ。
我が妻は生涯お前ただ一人
詰まらぬ心配はするでない」
「今日からは決して
帯刀様より先には寝ません」
「そうか」
と言い夫は強く熱く妻を抱きしめる
茜の身と心は
それまでに感じた事の無い
得体の知れない幸福感で満たされた
―――—— ―――—— ―――——
朝倉家の奉公人は二人
茜の顔馴染みである
口入屋の黒木屋からの紹介で
江戸っ子らしい
さっぱりとした性格で
ぱっぱと仕事をこなす
子供達は一人立ちしており
大工の亭主と二人暮らし
住み込み下男のクマは
地方から江戸に来た者で
よく気が利くのだが
気の小さな男で
そのせいか猫背で歩き
歳は二十一とまだ若いのに
見た目は老人のようである
山里から朝倉に姓が変わっても
茜の剣術の精進は続けられ
時折は剣術の師、筆岡十内の
精進していたが
さすがに刀を差して男装し
剣客としての仕事を請け負う事は無い
それでも頼まれれば
喧嘩の
夫の
それを聞く帯刀は
「そうか、そうか」
とただ笑いながら聞いている
茜が出掛けるとき
必ずクマを
クマは、べらんめえ口調で
臆することなく
怖そうな奴らを素手で投げ飛ばし
いとも簡単に蹴散らす茜を見て
初めは驚いたが
今は
奥様は町の衆から頼りにされ
凄い方だと憧れにも似た思いを抱いている
そんなクマは最近
茜が庭で刀を振り稽古するのを
物陰に隠れじっと見ている
余りにも毎日覗いているので
茜は
「クマ、隠れていないで出て来なさい」
とクマの隠れる方を向き声を掛けた
息を殺し隠れて見ていたのに
どうして知られてしまったのだと
クマは驚き
おどおどしながら姿を現した
「お前さん、なんで毎日覗いてるんだい」
「申し訳ありません」
「謝らなくていい、
そうしていても仕事は手を抜かずに
ちゃんとしているのだから
ただ、
「はい」
と言ったきりクマは中々話そうとしない
「どうした、別に怒ったりしないから
思う事があるなら
遠慮せずに言ってみな」
クマは下を向いたまま
「奥様の様に強くなりたいんです」
「何のために」
「私は幼い頃から気が小さく
人の後ろに隠れてばかりで」
「それは別に悪い事じゃないさ、
お前は懸命に生きてるじゃないか」
「そんな生き方は嫌なんです
人の後ろに隠れずに
奥様の様に堂々と胸を張って
生きて行きたいのです」
クマは意を決したように土下座をし
「私に剣術を教えてください
どうか弟子にしてください」
「私は弟子など取らない」
と茜が言っても、クマは頭を上げようとしない
仕方なく
「少し考えさせてくれ
さあ、立って仕事に戻りなさい」
クマは言われるままに立ち上がり
下を向き、その場を去った
茜は、どうしたものかと悩む
弱い自分を変えたい
とのクマの気持ちは分からなくもない
だが、そんな理由で剣術を習うとは
それに未熟な自分が弟子を持つなどとは
全くもって有り得ない
ここは先生に相談するか
と一人で十内の屋敷に足を運んだ
―――—— ―――—— ―――——
十内に事の詳細を話すと
「
どうせ始めは鬼の平左と呼ばれた
兄の平左衛門に憧れて、であろうが」
確かにその通りである
「ならば、クマが剣術を習いたいとの
それだけで十分ではないか」
「では先生が弟子にしてくださるのですね」
「断る。私も歳を取った、
もう弟子は取らん」
「それじゃぁクマが通える道場を探さねば。
先生、どこが良いでしょうかねっ」
「
「はぁ、何をご冗談を
未熟な私が弟子を持つなどと」
「弟子を取り指南するのは
己の修行にも通ずる、
弟子と師匠は鏡のごとし
目には見えぬ己の悪癖を知る事ができる」
「自身の修行にも成れるって事ですね」
「その通りだ」
「それで、先生は私がクマを弟子にするのを
お許し下さると」
「無論、許す。
だが師と成るからには覚悟がいるもの
弟子の不始末は己の不始末と心得よ」
「はい」
十内の隣で聞いていたお勢が
「まぁ茜さんが弟子を取るんですか
てぇ事は
「まだ決まった訳ではありませんよ
―――—— ―――—— ―――——
茜はいつも通りに着替えを手伝いながら
昼間にあったクマの一件を話し
もし許しが貰えるならば
クマを弟子にして
帯刀は
「良いではないか、何も反対はせぬ」
と快諾した
「そうですか、有難うございます。
弟子を育てることは
十内先生が
この茜の言葉に
これ以上に妻が強くなれば
夫婦喧嘩をした時に
自分は間違いなく殺されると
要らぬ不安が脳裏を横切り
帯刀の動きが止った
「
茜が心配して声を掛けると
「いや、何でも無い」
こうして茜は正式にクマを弟子てとし
刀を持てない身分のクマに
思慮を深めるために学問を教えた
クマに論語を教えながら
『英之進、論語を教えろ。
覚えられなくて母上から𠮟られる』
『ああ、いいよ』
『その代わりに
私がお前の用心棒になってやる』
『はははっそれは有り難い』
そんな亡き友、英之進との
幼き日の遣り取りを思い出し
英之進ならば
もっと上手く教えるのにと苦笑いをする
―――—— ―――—— ―――——
茜が
三年の年月が過ぎ
もう四年目となる
二人の仲は変わらずに
誰が見ても仲睦まじい
ただ未だ子宝に恵まれない
三年子無きは家を去れと言うほど
子を産む事は嫁の
離縁されても文句は言えない
茜は子が出来ない事に気を病んだが
「子が欲しくて妻にした訳では無い
心配せずとも私は次男坊で
朝倉家の跡取りには兄の息子がいる
私の望みは、
共白髪まで茜と手を取り合い生きること」
そう言い慰める
いや、慰めでは無く
それが帯刀の心からの望みであった。
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