墨絵の奇蹟
傍野路石
墨絵の奇蹟
さて、勝利の美酒に酔い……たいところだが、生憎今日はお互い完敗だったなハハハ。まさかあんな大穴が来るとはねェ……。今日のところは安酒で乾杯だ。完敗に乾杯……なんてな、アハハハ。
マア、安酒でもこの店のメシは美味いからな。ウン、そうだろう。……何、今日は奢ってくれだって……怪しからんなァ。的中してたら奢ってやったかもしれないが、残念だったな、仲良く割り勘だ……。まあキミ、面白いくらい負け捲ってたもんな。何かこう……初心に返ってみるというのはどうだい。キミは考え過ぎなんだ。たまには僕みたいに単勝複勝でシンプルにやってみるとかさ……エ、お前は考えなさ過ぎだ……アハハハ云えてるね。
……そうだ、そんな事より一つ面白い話があるんだよ。
キミ、
……時は半世紀ほど遡る。
その頃の若鷹神社は、現在に較べればまだ随分と
彼は馬が好きであった。小さい頃から動物好きではあったが、特別馬を好むようになったのは、少年時代、犬飼君という無二の親友に出逢った事がはじまりであった。
……犬飼君は、有馬少年が動物好きであることを知るとごく自然に「うちに馬が居るよ」と云った。有馬少年は訳が分らなかった。馬……聞き間違いではない……しかし馬を飼っている家なぞ、周りでは聞いたことがなかった。犬は飼っていないらしい。半信半疑ながらも興味を示していると、犬飼君が「今度うちにおいでよ」と云ったので、週末に公園で待ち合わせて家に案内してもらう約束をした。
「驚いたかい」
犬飼君は特に自慢気といった風でもなく、有馬少年の反応を見ると嬉しそうに云った。
彼の家は、サラブレッドの生産牧場であった。犬飼君の祖父が創めたものらしく、家族経営で、繁殖牝馬が六頭ほど繫養されて居る小さな牧場であったが、有馬少年にとってそれは、何処までも、無限にも思えるような広大な景色であった。
そんな牧場風景を目の当たりにして、有馬少年は間抜けに口を開いたまま
放牧地を見て回り、
間近に見るサラブレッドはとても大きかった。有馬少年が少々竦みかけていると、犬飼君は横で「この子は
それから幾歳月過ぎて、彼は三十の時、父の後を継いで若鷹神社の宮司となる。馬に携わる仕事がしたいと夢見ることも無論あったが、宮司を継ぐことは初めから決まっていて、彼自身それは自然と受け容れていた。しかしその一方で、彼は神社の仕事を
或る日、有馬宮司は一つ相談すべく、金蘭の友の許を訪ねた。着いてまもなく、その友……他でもない犬飼君が青々とした
厩の中へ這入ると、犬飼君は或る馬房の前に立ち止った。其処には、
宮司は少々面喰っていた。それは、馬の美しいことは勿論だが、同時に、その馬房が初めて馬に触れた彼の日の、あの優しい眼をした鹿毛馬の居た馬房と同じであるに相違なかったからである。そうしてそれが、犬飼君が意図的にそうしたものか、ただの偶然であったかは分らないが、宮司は敢えて聞かずに置いた。犬飼君が此処に連れてきた理由をウスウスと察しながら……。
犬飼君曰く、この金色馬は、有馬宮司が宮司になる二年前の春に生まれ、その綺麗な毛色に目を付けた犬飼君は「神馬にいいかもしれない」と競りには出さず、この時の為に丹念に育ててきたものであるらしかった。もとより犬飼君は、有馬宮司が神馬の件で相談に訪れることをずっと見越していたのだ……。
この馬を神馬に
斯くして若鷹神社に生き馬が奉献されることと相成ると、早速新しい神馬舎と馬場の造設が始まった。半年ほどで完成し、いよいよ境内へ馬がやって来る。馬は落ち着いていて、スンナリと神馬舎の中へ這入るなり、寝藁の上にゴロゴロしはじめた。
宮司は、その尾花栗毛の輝きから「旭」と名付け、こうして初代神馬との神社生活が始まった。
旭号は新しい
旭号の事は、次第に町中に広まっていった。彼は忽ち人気者になり、近所を散歩している時なぞは、通り掛かりに農家が野菜や藁を呉れることも屢であった。やがて評判は少し遠くの方までも伝わって、多くの人が神社を
旭号が十歳の頃の或る時、宮司が何時ものように旭号の手入れをしていると、一人の小学生くらいの少女がそれをジッと見ていた。何やら一葉の紙を両手に抱えている。宮司が気付いて「
それからまた歳月が廻り……宮司が四十二、旭号は十五歳となった春の頃、犬飼君から一本の電話が入った。
宮司が行くと、件の仔馬はもう既にその四つ足でシッカリ立ち上がり、馬房の中で母馬の乳を一所懸命飲んでいるところであった。
その姿を見て、宮司は思わず息を呑んだ。生まれて間もない仔馬とは思えぬ
「驚いたろう……」宮司の反応を見ていた犬飼君が横から云う。「ああ、何だか凄いな……
そうして、二人シミジミと眼前の燦爛たる白毛を見つめていると、その仔馬は乳を飲み終えたらしく、顔を上げると徐に人間二人の方を振り向いた。
その時、仔馬の眼に、宮司は少しく違和感を覚えた。
……青い眼……。
両眼とも、黒い横長の瞳孔の周り……大抵は黒くて瞳孔が目立たぬようになっている虹彩が、宛ら
「何だか眼も、普通と違うね……」「ああ、そうそう。
「……魚目を持ちながら、白毛に縁の無い血統中に突として現れた、神懸ったような白馬……奇蹟の象徴みたような馬だ……。如何だい。君ン処の神馬にしようじゃあないか」犬飼君は宮司の肩をポンポン叩きながら云った。「エッ……此の仔をかい」宮司は遠慮勝ちである。「ああモチロン。今の流れで外に何が居るんだい、ハハハ。
齢十七となった初代神馬旭号は、犬飼君の牧場に戻り余生を過ごすこととなった。それと入れ違いに、真白な魚目の牝馬が鳥居を潜った。
其処でまず宮司は驚いた。鳥居の前に立ち止った折、宮司が一礼するのに同じくして、彼女もひと度お辞儀をしたのである。若しかそれは偶々頭を下げただけかもしれないが、しかし、立ち止った刹那少し頭を上げ、鳥居の向こうを見、そうして下げたその無駄のない動作に、宮司は屹度お辞儀をしたのに相違ないと思わずには居られなかった。教えてもいないのにまるで此処が如何なる場所か心得ているようだ……感心しながら、境内へと歩を進めた。
宮司は、馬を曳きながら、何時になく荘かな心持であった。同時に、白馬を曳く己が何だか誇らしくも思えて、
やがて神馬舎までやって来ると、巫女が掃除をしてくれていた。この巫女は
そんな助勤巫女澄野は、宮司の曳いて来た白馬を見るなり目を丸くした。
「ハハハ……如何だい、新しい子は」「……アッ、はい……す、凄いですね何だか、眩しいくらいで……」澄野はハッと我に返りながら、猶も驚いた容子で白馬をジロジロ眺めている。「こんなに綺麗なんですね、白馬って……」「中でもこの子は特別さ……僕も白馬に触れるのは初めてだけれど、白毛に限らずこんな神々しい馬は見たことがない。旭も美しい馬だったが、これは何かこう別次元の美しさだ……」
白馬は「
聖号は当歳の頃から非常に
聖号が神馬となってからというもの、参詣客が一層増えた。彼女の神々しさは誰の眼にも顕らかで、参詣客は
参詣客が増えれば、社務所は忙しくなった。御守授与など、殊に週末には絶え間無かったが、その内でも御朱印は大変な評判であった。澄野が御朱印に墨筆で馬の絵を描き添えてくれるのである。これは、宮司が御朱印の字を
この時、宮司にも澄野にも、この
或る年の一月の或る夜更けの事であった。宮司が床に就いて眠りかけていると、聖号の
突然、男が地に伏してわっと泣き出したので宮司は驚いた。一体どうしたのかと宥め尋ねるが、男は泣き伏すばかりであった。やがて、少しく落ち着いたかと思うと、宮司に向き直って済みません済みません……と鼻を啜りながら何度も頭を下げ、何やら手に持っていた巾着袋を半ば強引に手渡してきた。そうして有無を云わせず夜闇の中に走り去ってしまった。何が何やらサッパリの宮司はぽつねんと立ち尽くし、聖号は用は済んだとばかりに奥へと引っ込んで行った……。
深更の境内に突として泣き伏した彼の男が賽銭泥棒であったと判ったのは、それから後の事であった。謝られながら手渡された巾着袋には金が入っていて、小銭がジャラジャラと、紙幣も幾らか有った。それらは賽銭箱から抜き取ったものだったのだ。その夜半の事は、宮司には何度思い返しても不可思議な体験であった。賽銭泥棒の突然の改心……あの場に流れていた得も云われぬ神妙な空気……。男を凝然と見据えていた聖号は本当に何か語り掛けていたのではないかしらん……そう思わずには居られなかった。
同じ年の夏の頃。凄まじい夕立が雷鳴と俱に他の音を一切掻き消していた時分であった。社務所でまったり宮司は競馬雑誌を読み読み、澄野は墨絵を描き描きしているところ、突如、尋常ならざる轟音が耳を衝いた。余程近くに落ちたものらしく、不意を食って宮司は流石に肝を潰した。澄野も思わず筆を止め、目を丸くしていた。
宮司は、落雷地点は然る事ながら、聖号のことも気に掛かったので、容子を見に外へ出た。出ると雨は止みかけていた。
神馬舎に向かおうとしてすぐ、彼は神木に目を吸い寄せられ、足を止めた。そうして、絶句した。
神木が、燃えている……。
直径二米程の喬木が真ッ二つに裂け、
宮司はハッとして急ぎ社務所へ引き返そうとしたが、その時、有ろう事か燃える杉の片割れが不気味な音を立てながら拝殿の方へと倒れ込んだ。彼は愈々マズいぞと思い思い、全速力で社務所に駆け込んだ。
事態を知らされた澄野は少々青ざめた容子であった。宮司は彼女に聖号を曳いて安全な処へ避難するように云った。そうして彼自身は、消防の到着を待つ間、出来る限りの火消しを試みた。
何遍も何遍も水を打ッ掛けるが、しかし火勢は一向治まらぬ。何時の間にか火は本殿にも及び、その勢いは弥増して行く。宮司は汗塗れになりながら、愈々焦れた。同時に目の前の理不尽に憤りすら覚えた。モクモクと立ち上る黒煙……社殿を呑み込む火炎地獄……。如何にもならぬ……と終には疲れてしまった。そうして何を思ったか神馬舎の中へフラフラ這入って行くと、其処で気を失い倒れた。火の手がすぐ其処まで迫っているとも知らず……。
一方、離れた処で不安そうな澄野の手に曳かれた聖号は、頭を上げて燃え立つ炎を凝然と見守っていた。
宮司は消防士の大きな声に呼び掛けられて目を醒ました。神馬舎から運び出されたらしく、其処は社務所の畳の上であった。自分はぜんたい如何したのか……聞くと、火に囲まれた神馬舎の中で気絶していたのだと知った。幸いなことに身体に異常は無く、煙も全く吸っていないらしかった。
既に鎮火したとのことで、被害状況を見るべく外に出ると、社務所の前で澄野が聖号を撫でながら人参を食べさせていて、一先ずほっと安堵した。
社殿の方は焦げ臭い空気が漂い、建物も神木も惨憺たる姿と成り果てていた。それらを前に溜息を漏らしつつ絶望しかけていたが、神馬舎の前まで来たところで宮司はハッとして足を止めた。周りが悉く真黒に燃え焦がれた中で、ただ神馬舎だけが何事も無かったようにポツネンと佇んでいたのである。それはまるで、見えざる壁にスッカリ蔽われているかのような、其処だけ別世界であるかのような趣で、煤一つ付かず煙さえ浴びていないらしかった。壁に飾った墨絵も、変わり無く其処に在る。宮司は、自分が無事であったことに妙に納得した。反対に、状況からして何故神馬舎が無傷であったのかはよく分らなかったが……。何気無く顧みると、聖号が咀嚼しながら顔を上げ、此方を見ていた。
斯くして不幸の雷に打たれた神社であったが、宮司は不思議と前向きであった。それにはやはり、焚毀を免れた神馬舎と聖号の存在が大きく、暗雲の中に射す一縷の光となってくれたのだ……と彼は後に回顧している。
町の人々の助力もあり、社殿の修復は順調に進められた。とは云え完全修復には相応の時間を要したが、その間、神社の中心は神馬舎であった。
聖号は平生通り参詣客にお辞儀していた。あんな事があったというのに全く気にする容子もなく、頼もしい限りである。思えば、雷の落ちた時、彼女は全く動じる容子もなかった。そうして火事が起きて宮司たちが慌忙の体であった時も相変らず落ち着き払って澄野に曳かれていた。だからこそ自分もそれほど慌てずに居られたと澄野は云っていたが、馬というのは繊細ないきものである。落ち着きを失い走り出しても不思議はないものだが、聖号がそうなることは決して無い。それどころか、当歳の頃から落ち着いていないところなぞ見たこともなかった。落雷の物凄い響震にも動じなかったことから、若しや聾なのではあるまいかと宮司は一瞬だけ
社殿の修復も五割ほど進んだ頃。朝、日課のブラッシングをしていると、宮司は聖号の或る変化に気が付いた。
「……ちょっと
それはほんの微々たる変化であったが、毎日触れている宮司には確かに感じられた。とは云え、普段餌を残さず食べきる彼女のことであったから、そういう事もあるかとあまり気にせず馬場に放した。まさかそれが、最大にして最後の椿事の兆しであるとは露知らず……。
少し餌を減らしてみるなどした宮司の考えとは裏腹に、聖号の腹は次第々々に膨らみを増して行った。
半年ほど経つと、それは愈々顕著であった。肥ったという表現は適当でない……明らかに「腹が大きく」なっていた。宮司はそれを見て一つ脳裡を過ったが、しかし有り得ないことであった。取り敢えず一人で考えても如何しようもないので、犬飼君に連絡を入れることにした。
後日、犬飼君が獣医を連れて神社にやって来た。念の為診てもらうことにしたのである。
聖号を見ると、犬飼君も獣医も何かに気付いた容子であった。
診察はすぐに終わった。そうして獣医は云った。
「妊娠していますね……」
宮司は耳を疑った。しかしそれは心の何処かで予感していた言葉でもあった。
「やっぱりか……」犬飼君は呟いた。
「何故……」
宮司にも犬飼君にもまるで心当りがなかった。種付けなどしていないし、聖号はずっと神社に居るから、一体何処で孕んだものか見当もつかない。宮司の知らぬ間に何処からか牡馬がやって来て孕ませていったとしか考えられないが、その可能性は極めて低い。迷宮入りであった……。
とは云え、妊娠が発覚した以上このままという訳にも行かぬので、聖号は犬飼君の牧場に移し、出産に備えることとなった。
その間、宮司は気が気でなく、何度も牧場へ容子を見に行った。そうして、その日はあっと云う間に訪れた。
出産当日、宮司は勿論、澄野も駆け付け、夜を徹して顚末を見守った。
仔馬は、無事生まれた。
星の無い全身真黒の牡馬であった。
母馬とは正反対の毛色に一同驚き、そうして無事に生まれたことを喜んだが、それも束の間であった。
犬飼君が聖号の異変に気付いた。そしてそれが伝染するかのように、宮司や澄野に良からぬ直感を
聖号はゆっくりと、静かに、寝藁の上に臥した。それから目を閉じると、それきり動かなくなった……。
翌朝、宮司は誰も居ない境内をひとり歩いていた。……昨晩はあの後、宮司も澄野も犬飼君の家に泊めてもらった。仔馬は別の牝馬の許で育てられることになった。犬飼君の云うには、ベテランの馬だから心配は要らないらしい。それから聖号の墓を造ろうという事になり、委しくはまだこれから……。
色々思考を廻らしていると、気付けば神馬舎の前に居た。ふと、壁に掛けた墨の馬が目に入る。……そう云えば、あの仔馬は犬飼君によれば青毛であるらしい。本当に真黒であったが、母馬に似てツヤツヤであった。……結局、聖号の謎の受胎は何だったのであろう……。
其処まで考えたところで、宮司は墨絵を凝視したまま,暫く動けなくなった。
……という話だ。因みに、青毛の仔馬はすくすく育って、その後神馬として立派に務めたそうだ。去勢したらしいからその血統は今には残っていない。
ところで、僕はこの聖号の受胎の話を聞いた時、何だかちょっと聞き覚えを感じたんだ……それで気付いたんだよ。最近読んだ小説に似たような話があった……とね。まあその小説では墨絵じゃなく押絵だったんだが……って、聞いてるかい。キミ……僕が喋ってる間に飲み過ぎじゃないか……。キミを背負って帰るのは厭だぜ。あっ、おい、寝るな!
墨絵の奇蹟 傍野路石 @bluefishjazz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます