墨絵の奇蹟

傍野路石

墨絵の奇蹟

 さて、勝利の美酒に酔い……たいところだが、生憎今日はお互い完敗だったなハハハ。まさかあんな大穴が来るとはねェ……。今日のところは安酒で乾杯だ。完敗に乾杯……なんてな、アハハハ。

 マア、安酒でもこの店のメシは美味いからな。ウン、そうだろう。……何、今日は奢ってくれだって……怪しからんなァ。的中してたら奢ってやったかもしれないが、残念だったな、仲良く割り勘だ……。まあキミ、面白いくらい負け捲ってたもんな。何かこう……初心に返ってみるというのはどうだい。キミは考え過ぎなんだ。たまには僕みたいに単勝複勝でシンプルにやってみるとかさ……エ、お前は考えなさ過ぎだ……アハハハ云えてるね。

 ……そうだ、そんな事より一つ面白い話があるんだよ。

 キミ、神馬しんめは知ってるかい。そうそう、シンメトリー……違うそうじゃない、神の馬と書いて神馬。何、それくらい知ってるって……まあそういう事にしておこう。その神馬に纏わる話なんだが……其処の大通りをずっと山の方へ行くと若鷹神社ってあるだろう。……ほう、まだ行ったことがない。では今度行こう。大きい神社ではないんだが、生き馬の神馬が居るんだ。白いシェトランドポニーでね、それは可愛かったよ。嘗てはサラブレッドも居たらしい。それで話を戻すと、この間行った時に宮司さんに聞いたんだ。昔あの神社で起きた、不可思議な出来事……。


 ……時は半世紀ほど遡る。

 その頃の若鷹神社は、現在に較べればまだ随分とひなびた神社であった。境内には小ぢんまりとした神馬舎があり、其処には尾花栗毛おばなくりげ騸馬せんばが居た。「旭」と名付けられた、これが初代神馬である。この馬が神社にやって来るより以前は、寄木造りの馬がポツネンと置かれているばかりであったが、そんな神社に生き馬の神馬が置かれるようになったのは、なるほど当時の宮司、有馬ありまという男の働きであった。

 彼は馬が好きであった。小さい頃から動物好きではあったが、特別馬を好むようになったのは、少年時代、犬飼君という無二の親友に出逢った事がはじまりであった。

 ……犬飼君は、有馬少年が動物好きであることを知るとごく自然に「うちに馬が居るよ」と云った。有馬少年は訳が分らなかった。馬……聞き間違いではない……しかし馬を飼っている家なぞ、周りでは聞いたことがなかった。犬は飼っていないらしい。半信半疑ながらも興味を示していると、犬飼君が「今度うちにおいでよ」と云ったので、週末に公園で待ち合わせて家に案内してもらう約束をした。

 きたる週末、犬飼君に連れ立って行った有馬少年は、到着してまもなく啞然とさせられた。眼前に広がるは木の柵が囲う開放的な草原……爽やかに頰を撫でる風……向こうの方に数頭、草を食んだり駆け回ったりしている四つ足のいきもの……。有馬少年ハッとした、犬飼君の言葉を思い出しながら……。嗚呼、あれは馬だ……なびたてがみ、サラサラ揺れる尻尾……まさしく馬だ。イヤ、あれが馬でなくて何であろう。まさか駱駝ではあるまい。それにこの景色……まるで牧場ではないか。否、牧場なのである。

「驚いたかい」

 犬飼君は特に自慢気といった風でもなく、有馬少年の反応を見ると嬉しそうに云った。

 彼の家は、サラブレッドの生産牧場であった。犬飼君の祖父が創めたものらしく、家族経営で、繁殖牝馬が六頭ほど繫養されて居る小さな牧場であったが、有馬少年にとってそれは、何処までも、無限にも思えるような広大な景色であった。

 そんな牧場風景を目の当たりにして、有馬少年は間抜けに口を開いたまま愈々いよいよ興奮の体であった。犬飼君は何だか誇らしくなって、牧場を色々案内してやった。

 放牧地を見て回り、うまやへ行くと其処にも馬が居た。馬房の中で凝然じっと佇み、開いた窓から外を眺めていた鹿毛馬かげうまは、少年たちがやって来るとくるり振り返り、通路側へと近寄って来た。

 間近に見るサラブレッドはとても大きかった。有馬少年が少々竦みかけていると、犬飼君は横で「この子は温柔おとなしくて懐っこいんだ」と云い云い、顔を寄せてきた馬の鼻面を優しく撫ではじめた。それから「撫でてみなよ、喜ぶから」と促し、馬も有馬少年の方に首を伸ばしてきた。少年緊張する。しかし不思議な事に、馬の眼を見上げると、そんな強張りも一刹那のうちに何処かへ行ってしまうのであった。その瞳は愛らしくクリクリして、優しさや慈愛に満ち満ちていた。有馬少年は忽ち笑顔になり、その手は半ば自然に鼻面を撫でていた。馬も目を細めて嬉しそうであった。それ以来、有馬少年は馬の魅力に取り憑かれ、毎週々々犬飼君の家へ遊びに出かけた。そうして、のんびり過ごす馬たちを眺めたり……手ずから人参を遣ったり……馬の手入れの容子を観察したり……時には犬飼君と一緒に寝藁を運んだりしたこともあった。犬飼君の父や祖父も懇ろに色々の事を教えてくれて、有馬少年は、馬と親友に出逢った牧場で実に何物にも代え難い時間を過ごした。

 それから幾歳月過ぎて、彼は三十の時、父の後を継いで若鷹神社の宮司となる。馬に携わる仕事がしたいと夢見ることも無論あったが、宮司を継ぐことは初めから決まっていて、彼自身それは自然と受け容れていた。しかしその一方で、彼は神社の仕事をこなしながら、度々、寄木の神馬の前で或る望みを眼の底にシミジミと思い描いていた……。

 或る日、有馬宮司は一つ相談すべく、金蘭の友の許を訪ねた。着いてまもなく、その友……他でもない犬飼君が青々とした牧場まきばを背に出迎えてくれた。彼は牧場長になっていた。二人は二、三言交した後、牧柵に挟まれた道を歩きながら互いの近況や他愛もない事を話し合った。やがて有馬宮司が本題を切り出すと、それをまじめに聞いていた犬飼君は、ただ一言「ちょっと着いてきてくれ」と云い、厩の方へと歩き出した。

 厩の中へ這入ると、犬飼君は或る馬房の前に立ち止った。其処には、金色こんじきの馬が居た。窓辺に佇み、のんびり外を眺めている。実際、それは尾花栗毛の騸馬であったが、その毛並は素晴らしくツヤめき、とりわけ鬣や尻尾なぞは太陽の如き光輝を放っていて、まさしく金色と形容すべき、目映い、美しい馬体であった。

 宮司は少々面喰っていた。それは、馬の美しいことは勿論だが、同時に、その馬房が初めて馬に触れた彼の日の、あの優しい眼をした鹿毛馬の居た馬房と同じであるに相違なかったからである。そうしてそれが、犬飼君が意図的にそうしたものか、ただの偶然であったかは分らないが、宮司は敢えて聞かずに置いた。犬飼君が此処に連れてきた理由をウスウスと察しながら……。

 犬飼君曰く、この金色馬は、有馬宮司が宮司になる二年前の春に生まれ、その綺麗な毛色に目を付けた犬飼君は「神馬にいいかもしれない」と競りには出さず、この時の為に丹念に育ててきたものであるらしかった。もとより犬飼君は、有馬宮司が神馬の件で相談に訪れることをずっと見越していたのだ……。

 この馬を神馬に如何どうかという言に、宮司は面喰いながらも深謝した。犬飼君の懐の深さ……そうして誰より自分の馬好きを理解してくれているということを改めて実感していた。

 斯くして若鷹神社に生き馬が奉献されることと相成ると、早速新しい神馬舎と馬場の造設が始まった。半年ほどで完成し、いよいよ境内へ馬がやって来る。馬は落ち着いていて、スンナリと神馬舎の中へ這入るなり、寝藁の上にゴロゴロしはじめた。

 宮司は、その尾花栗毛の輝きから「旭」と名付け、こうして初代神馬との神社生活が始まった。

 旭号は新しい住居すまいにすぐに慣れ、気に入ってくれたようであった。宮司に懐くのにも然程時間は掛からなかった。というのも、宮司は犬飼君も舌を巻く手入れ上手で、どんな馬でも彼のブラッシングにかかれば忽ち御機嫌になるので、犬飼一家は目を丸くして見ていたものであった。

 旭号の事は、次第に町中に広まっていった。彼は忽ち人気者になり、近所を散歩している時なぞは、通り掛かりに農家が野菜や藁を呉れることも屢であった。やがて評判は少し遠くの方までも伝わって、多くの人が神社をおとなうようになった。彼の毛艶は何時もピカピカであった。

 旭号が十歳の頃の或る時、宮司が何時ものように旭号の手入れをしていると、一人の小学生くらいの少女がそれをジッと見ていた。何やら一葉の紙を両手に抱えている。宮司が気付いて「今日こんにちは」と声を掛けると少女も同様に返した。続けて「撫でてみるかい」と問うと、少女は少し逡巡している容子であったので、宮司は莞爾として「優しい子だから、大丈夫だよ」と旭号の鼻面を撫でさすってみせた。少女は暫く緊張した面持で旭号を見上げていたが、やがてそのうちにだんだん和らいだ表情かおになっていったかと思うと、小さな手で嬉しそうに旭号の鼻面を撫でていた。そうして大満足の少女は、手に持っていた一葉の紙を宮司に差し出した。紙には、馬が描かれていた。それは小学生くらいの子にしてはよく特徴を捉えて描かれていたので、旭号を描いてくれたものだとすぐに分った。「上手だねぇ……お嬢さんが描いたのかい」「うん」少女はニッコリ頷いた。「おうまさんにあげるの」「おや、呉れるのかい。有難う、旭も喜んでいるよ」少女はまたニンマリと笑み、それから今一度旭号の鼻を撫でると、満足気にバイバイと手を振りながら駆け去って行った。その容子を、宮司は微笑ましく、また何処か懐かしむような眼差しで見送るのであった。

 それからまた歳月が廻り……宮司が四十二、旭号は十五歳となった春の頃、犬飼君から一本の電話が入った。

 白馬しろうまが生まれた……受話器越し犬飼君の開口一番が其れであった。「おお、本当かい……稀有なこともあるもんだ……」それ以前に白馬の生まれたことは一度も無いと犬飼君が話していたことがあったので、宮司はたいへん驚いたが、当の犬飼君はそれ以上に面喰っている容子であった。「イヤ……ただ稀有ってモンじゃあないぜ此れは……兎に角、来てみれば分る」宮司はぜんたいどういう事か気に掛かったが、犬飼君の云う通り取り敢えず牧場へ行ってみることにした。

 宮司が行くと、件の仔馬はもう既にその四つ足でシッカリ立ち上がり、馬房の中で母馬の乳を一所懸命飲んでいるところであった。

 その姿を見て、宮司は思わず息を呑んだ。生まれて間もない仔馬とは思えぬ天鵞絨ビロードの如き純白の毛並……その妖しい光輝……。何処か神聖な気を纏った穢れなき小さな馬体は、しかし実際の体軀より数倍大きく見え、畏怖すら覚えるほどであった。電話越しに犬飼君の云っていた事がイヨイヨ吞み込めてきた。これは尋常の馬ではないぞ……。

「驚いたろう……」宮司の反応を見ていた犬飼君が横から云う。「ああ、何だか凄いな……牡馬おとこうまかい」「いや、牝馬めすうまさ。それで面白いのがだな……母馬は見ての通り鹿毛だが、実は種馬も鹿毛でな……ソレだけじゃない、若しやと思って血統を遡れるだけ遡ってみると、鹿毛、黒鹿毛、青鹿毛、栗毛……何処にも白毛は見当らない。白に近いような毛色もだ。詰まり、此れはもう突然変異中の突然変異ってワケだ。その上仔馬とは思えないこの気配……こんな馬は世界中何処探したって居ないだろう。此れはキット神様からの贈り物だと思うんだ」「ハハ……確かに、そうかもしれないな……此れは……」

 そうして、二人シミジミと眼前の燦爛たる白毛を見つめていると、その仔馬は乳を飲み終えたらしく、顔を上げると徐に人間二人の方を振り向いた。

 その時、仔馬の眼に、宮司は少しく違和感を覚えた。

 ……青い眼……。

 両眼とも、黒い横長の瞳孔の周り……大抵は黒くて瞳孔が目立たぬようになっている虹彩が、宛ら藍玉アクアマリンの如き澄んだ青を呈していたのである。

「何だか眼も、普通と違うね……」「ああ、そうそう。魚目さめってヤツさ。此れも頗る珍しくてな……虹彩の色素が少なくて青く見えるんだ。べつだん視力には影響はない」「ヘェ、成程……」宮司は改めてまじまじとその眼を見た。美しい、賢そうな眼であった。

「……魚目を持ちながら、白毛に縁の無い血統中に突として現れた、神懸ったような白馬……奇蹟の象徴みたような馬だ……。如何だい。君ン処の神馬にしようじゃあないか」犬飼君は宮司の肩をポンポン叩きながら云った。「エッ……此の仔をかい」宮司は遠慮勝ちである。「ああモチロン。今の流れで外に何が居るんだい、ハハハ。そもそも、その為に君を呼んだんだ。ホラ、旭ももう長いだろう」「確かにそうだが……いいのかい、コンナ素晴らしい馬を……」「いいも何も、俺は君だから云ってるんだぜ。それに、これ程の馬だ。神馬にしないと罰が当りそうだしな」ハハハハ……。犬飼君が冗談交りにそう云うと、宮司も思わず笑いを零した。しかしまた改めて仔馬の眼を見遣ると、半分くらいは冗談で済まぬような、そんな気もしてくるのであった……。

 稀代きだいの白馬が若鷹神社二代目神馬として境内にやって来たのは、それから二年後の事……。

 齢十七となった初代神馬旭号は、犬飼君の牧場に戻り余生を過ごすこととなった。それと入れ違いに、真白な魚目の牝馬が鳥居を潜った。

 其処でまず宮司は驚いた。鳥居の前に立ち止った折、宮司が一礼するのに同じくして、彼女もひと度お辞儀をしたのである。若しかそれは偶々頭を下げただけかもしれないが、しかし、立ち止った刹那少し頭を上げ、鳥居の向こうを見、そうして下げたその無駄のない動作に、宮司は屹度お辞儀をしたのに相違ないと思わずには居られなかった。教えてもいないのにまるで此処が如何なる場所か心得ているようだ……感心しながら、境内へと歩を進めた。

 宮司は、馬を曳きながら、何時になく荘かな心持であった。同時に、白馬を曳く己が何だか誇らしくも思えて、曳手ひきてを握るその手にはジワジワと汗が滲んでいた。何時にも増して森厳たる境内一帯に蹄音つまおとが響く……。

 やがて神馬舎までやって来ると、巫女が掃除をしてくれていた。この巫女は澄野すみのと云い、近所に住む高校生で、この神社には小さい時分から何度も来ていた。もっと云えば、嘗て旭号の絵を描いてくれたあの少女こそ澄野であった。彼女はその頃から変らず絵を描くことが好きで、今は都会の有名な美術大学を志してお金を貯めるべくこうして助勤アルバイト巫女をやっている。彼女は馬も好きで、その切っ掛けは無論旭号である。よく神社を訪れる彼女の目的は、およそ馬に会うことであった。故に今彼女が助勤巫女をやっているのは偏に稼ぎの為に限らず……というのは云わずと知れよう。馬の世話の手伝いを頼めばたいへん熱心で、手入れの仕方も覚えた。助勤を始めてから間もなく愛馬旭号が引退と相成ったので淋しそうであったが、これからは犬飼君の牧場へ行けば会えると聞くと安心したようであった。

 そんな助勤巫女澄野は、宮司の曳いて来た白馬を見るなり目を丸くした。ぶち一つ見当らぬその馬体は陽に照らされた未踏の雪原が如く目映く、青く澄んだ藍玉アクアマリンの眼は森羅万象を見通すかのように冴え光っている。三歳になったこの白馬のあまりの神々しさに呆然とする澄野の反応は殆ど予想通りのもので、宮司は内心失笑しつつ同情をも感ずるところであった。

「ハハハ……如何だい、新しい子は」「……アッ、はい……す、凄いですね何だか、眩しいくらいで……」澄野はハッと我に返りながら、猶も驚いた容子で白馬をジロジロ眺めている。「こんなに綺麗なんですね、白馬って……」「中でもこの子は特別さ……僕も白馬に触れるのは初めてだけれど、白毛に限らずこんな神々しい馬は見たことがない。旭も美しい馬だったが、これは何かこう別次元の美しさだ……」

 白馬は「ひじり」と名付けられた。

 聖号は当歳の頃から非常に温柔おとなしく、そして頗る賢い馬で、犬飼君が曰く、馴致の必要も無いくらいのものであったという。

 聖号が神馬となってからというもの、参詣客が一層増えた。彼女の神々しさは誰の眼にも顕らかで、参詣客はみな、彼女を前にすると異口同音に歎称し、斉しく手を合わせて有難がった。すると聖号は聖号で、人間たちが自分を拝むのに決まって一々恭しくお辞儀を返すものだから、人々は愈々驚歎させられるばかりなのであった。斯かる聡慧たる白馬は、何時しか神様より崇められる神馬となっていた。

 参詣客が増えれば、社務所は忙しくなった。御守授与など、殊に週末には絶え間無かったが、その内でも御朱印は大変な評判であった。澄野が御朱印に墨筆で馬の絵を描き添えてくれるのである。これは、宮司が御朱印の字をしたためている折、ちょっとした遊び心で澄野に「絵でも描いてみるかい」と云ってみたのが発端で、その末澄野が物の美事に墨絵に天稟てんぴんを発揮したものであった。彼女の墨絵に感銘を受けた宮司は、改めて一枚描いてもらい、その墨痕鮮やかなる馬の絵をキッチリ額装して神馬舎に飾った。聖号もよくその絵を眺めていた。

 この時、宮司にも澄野にも、この先訪おとなう不可思議を極めた出来事なぞ、想像すらし得る筈もないのであった……。

 或る年の一月の或る夜更けの事であった。宮司が床に就いて眠りかけていると、聖号のいななくのが聞えてきた。コンナ時間に珍しいな……と不思議に思い、容子を見に行ってみることにした。褞袍どてらを羽織り、電灯を持って出ると、何やら人の影が在った。よく見ると若い男で、どうしたものか地に膝を突き、放心したような体で神馬舎の方を見ていた。その神馬舎に目を遣ると、聖号が中から顔を覗かせ、真っ直ぐに男を見ているようである。宮司はこの状況に首をひねりながら、同時に神馬舎の窓を閉め忘れたか……?と数時間前に記憶を遡るが、何だか今一判然としないので兎に角男に声を掛けた。しかし反応は無く、依然としてポカンと口を開いたまま神馬舎を、聖号を見ている。否、それは見ているというより、目を奪われているといった方が真実ほんとうであった。宮司は愈々困って、今一度神馬舎を見遣るとやはり聖号も男の方を凝然じっと見据えている。そうしてそれは何処となく、何かを語り掛けているようにも見えた……。

 突然、男が地に伏してわっと泣き出したので宮司は驚いた。一体どうしたのかと宥め尋ねるが、男は泣き伏すばかりであった。やがて、少しく落ち着いたかと思うと、宮司に向き直って済みません済みません……と鼻を啜りながら何度も頭を下げ、何やら手に持っていた巾着袋を半ば強引に手渡してきた。そうして有無を云わせず夜闇の中に走り去ってしまった。何が何やらサッパリの宮司はぽつねんと立ち尽くし、聖号は用は済んだとばかりに奥へと引っ込んで行った……。

 深更の境内に突として泣き伏した彼の男が賽銭泥棒であったと判ったのは、それから後の事であった。謝られながら手渡された巾着袋には金が入っていて、小銭がジャラジャラと、紙幣も幾らか有った。それらは賽銭箱から抜き取ったものだったのだ。その夜半の事は、宮司には何度思い返しても不可思議な体験であった。賽銭泥棒の突然の改心……あの場に流れていた得も云われぬ神妙な空気……。男を凝然と見据えていた聖号は本当に何か語り掛けていたのではないかしらん……そう思わずには居られなかった。

 さて、宮司の体験した椿事はそればかりでなかった。

 同じ年の夏の頃。凄まじい夕立が雷鳴と俱に他の音を一切掻き消していた時分であった。社務所でまったり宮司は競馬雑誌を読み読み、澄野は墨絵を描き描きしているところ、突如、尋常ならざる轟音が耳を衝いた。余程近くに落ちたものらしく、不意を食って宮司は流石に肝を潰した。澄野も思わず筆を止め、目を丸くしていた。

 宮司は、落雷地点は然る事ながら、聖号のことも気に掛かったので、容子を見に外へ出た。出ると雨は止みかけていた。

 神馬舎に向かおうとしてすぐ、彼は神木に目を吸い寄せられ、足を止めた。そうして、絶句した。

 神木が、燃えている……。

 直径二米程の喬木が真ッ二つに裂け、彼方此方あちこち樹皮の剝げた無惨な恰好で、裂け目から赫々と火を吹いていた。

 宮司はハッとして急ぎ社務所へ引き返そうとしたが、その時、有ろう事か燃える杉の片割れが不気味な音を立てながら拝殿の方へと倒れ込んだ。彼は愈々マズいぞと思い思い、全速力で社務所に駆け込んだ。

 事態を知らされた澄野は少々青ざめた容子であった。宮司は彼女に聖号を曳いて安全な処へ避難するように云った。そうして彼自身は、消防の到着を待つ間、出来る限りの火消しを試みた。

 何遍も何遍も水を打ッ掛けるが、しかし火勢は一向治まらぬ。何時の間にか火は本殿にも及び、その勢いは弥増して行く。宮司は汗塗れになりながら、愈々焦れた。同時に目の前の理不尽に憤りすら覚えた。モクモクと立ち上る黒煙……社殿を呑み込む火炎地獄……。如何にもならぬ……と終には疲れてしまった。そうして何を思ったか神馬舎の中へフラフラ這入って行くと、其処で気を失い倒れた。火の手がすぐ其処まで迫っているとも知らず……。

 一方、離れた処で不安そうな澄野の手に曳かれた聖号は、頭を上げて燃え立つ炎を凝然と見守っていた。

 宮司は消防士の大きな声に呼び掛けられて目を醒ました。神馬舎から運び出されたらしく、其処は社務所の畳の上であった。自分はぜんたい如何したのか……聞くと、火に囲まれた神馬舎の中で気絶していたのだと知った。幸いなことに身体に異常は無く、煙も全く吸っていないらしかった。

 既に鎮火したとのことで、被害状況を見るべく外に出ると、社務所の前で澄野が聖号を撫でながら人参を食べさせていて、一先ずほっと安堵した。

 社殿の方は焦げ臭い空気が漂い、建物も神木も惨憺たる姿と成り果てていた。それらを前に溜息を漏らしつつ絶望しかけていたが、神馬舎の前まで来たところで宮司はハッとして足を止めた。周りが悉く真黒に燃え焦がれた中で、ただ神馬舎だけが何事も無かったようにポツネンと佇んでいたのである。それはまるで、見えざる壁にスッカリ蔽われているかのような、其処だけ別世界であるかのような趣で、煤一つ付かず煙さえ浴びていないらしかった。壁に飾った墨絵も、変わり無く其処に在る。宮司は、自分が無事であったことに妙に納得した。反対に、状況からして何故神馬舎が無傷であったのかはよく分らなかったが……。何気無く顧みると、聖号が咀嚼しながら顔を上げ、此方を見ていた。

 斯くして不幸の雷に打たれた神社であったが、宮司は不思議と前向きであった。それにはやはり、焚毀を免れた神馬舎と聖号の存在が大きく、暗雲の中に射す一縷の光となってくれたのだ……と彼は後に回顧している。

 町の人々の助力もあり、社殿の修復は順調に進められた。とは云え完全修復には相応の時間を要したが、その間、神社の中心は神馬舎であった。

 聖号は平生通り参詣客にお辞儀していた。あんな事があったというのに全く気にする容子もなく、頼もしい限りである。思えば、雷の落ちた時、彼女は全く動じる容子もなかった。そうして火事が起きて宮司たちが慌忙の体であった時も相変らず落ち着き払って澄野に曳かれていた。だからこそ自分もそれほど慌てずに居られたと澄野は云っていたが、馬というのは繊細ないきものである。落ち着きを失い走り出しても不思議はないものだが、聖号がそうなることは決して無い。それどころか、当歳の頃から落ち着いていないところなぞ見たこともなかった。落雷の物凄い響震にも動じなかったことから、若しや聾なのではあるまいかと宮司は一瞬だけよぎるものがあったが、普段の生活からして聾であると考えるのは流石に無理があった。では単に鈍いだけなのかとも考えたが、否むしろ感覚は鋭敏であるし、何より賢い。考えれば考えるほど不思議な馬であった。一つ確かな事は、彼女は普遍の常識では捉えきれぬ、ただ聖号という存在なのだということである。

 社殿の修復も五割ほど進んだ頃。朝、日課のブラッシングをしていると、宮司は聖号の或る変化に気が付いた。

「……ちょっとふとったか?」

 それはほんの微々たる変化であったが、毎日触れている宮司には確かに感じられた。とは云え、普段餌を残さず食べきる彼女のことであったから、そういう事もあるかとあまり気にせず馬場に放した。まさかそれが、最大にして最後の椿事の兆しであるとは露知らず……。

 少し餌を減らしてみるなどした宮司の考えとは裏腹に、聖号の腹は次第々々に膨らみを増して行った。

 半年ほど経つと、それは愈々顕著であった。肥ったという表現は適当でない……明らかに「腹が大きく」なっていた。宮司はそれを見て一つ脳裡を過ったが、しかし有り得ないことであった。取り敢えず一人で考えても如何しようもないので、犬飼君に連絡を入れることにした。

 後日、犬飼君が獣医を連れて神社にやって来た。念の為診てもらうことにしたのである。

 聖号を見ると、犬飼君も獣医も何かに気付いた容子であった。

 診察はすぐに終わった。そうして獣医は云った。

「妊娠していますね……」

 宮司は耳を疑った。しかしそれは心の何処かで予感していた言葉でもあった。

「やっぱりか……」犬飼君は呟いた。

「何故……」

 宮司にも犬飼君にもまるで心当りがなかった。種付けなどしていないし、聖号はずっと神社に居るから、一体何処で孕んだものか見当もつかない。宮司の知らぬ間に何処からか牡馬がやって来て孕ませていったとしか考えられないが、その可能性は極めて低い。迷宮入りであった……。

 とは云え、妊娠が発覚した以上このままという訳にも行かぬので、聖号は犬飼君の牧場に移し、出産に備えることとなった。

 その間、宮司は気が気でなく、何度も牧場へ容子を見に行った。そうして、その日はあっと云う間に訪れた。

 出産当日、宮司は勿論、澄野も駆け付け、夜を徹して顚末を見守った。

 仔馬は、無事生まれた。

 星の無い全身真黒の牡馬であった。

 母馬とは正反対の毛色に一同驚き、そうして無事に生まれたことを喜んだが、それも束の間であった。

 犬飼君が聖号の異変に気付いた。そしてそれが伝染するかのように、宮司や澄野に良からぬ直感をもたらした。

 聖号はゆっくりと、静かに、寝藁の上に臥した。それから目を閉じると、それきり動かなくなった……。

 翌朝、宮司は誰も居ない境内をひとり歩いていた。……昨晩はあの後、宮司も澄野も犬飼君の家に泊めてもらった。仔馬は別の牝馬の許で育てられることになった。犬飼君の云うには、ベテランの馬だから心配は要らないらしい。それから聖号の墓を造ろうという事になり、委しくはまだこれから……。

 色々思考を廻らしていると、気付けば神馬舎の前に居た。ふと、壁に掛けた墨の馬が目に入る。……そう云えば、あの仔馬は犬飼君によれば青毛であるらしい。本当に真黒であったが、母馬に似てツヤツヤであった。……結局、聖号の謎の受胎は何だったのであろう……。

 其処まで考えたところで、宮司は墨絵を凝視したまま,暫く動けなくなった。


 ……という話だ。因みに、青毛の仔馬はすくすく育って、その後神馬として立派に務めたそうだ。去勢したらしいからその血統は今には残っていない。

 ところで、僕はこの聖号の受胎の話を聞いた時、何だかちょっと聞き覚えを感じたんだ……それで気付いたんだよ。最近読んだ小説に似たような話があった……とね。まあその小説では墨絵じゃなく押絵だったんだが……って、聞いてるかい。キミ……僕が喋ってる間に飲み過ぎじゃないか……。キミを背負って帰るのは厭だぜ。あっ、おい、寝るな!

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