明朗な老婆/陰鬱な少女

 加藤優人かとう ゆうとは、背中を汗で濡らしながら歩いている。指を揃えた左手を眉間に添え、空を見上げる。

 雲がほとんどない青色の空。地上に差し込む日差しが眩く、歩くだけでも汗がたくさん出る。8月のこの蒸し暑さに、加藤は辟易する。それだけでなく、辺りから聞こえてくる蝉の鳴き声に対してもだ。

 このように、不満な点はある。しかし、加藤は夏が好きなのだ。この時期は、"夏休み"という彼にとって至高の期間だからだ。

 午前の授業のために、目覚まし時間で起きる必要はない。それに、最低6時間の睡眠を確保するために、夜何時に寝なくてはいけないと考えなくていい。好きな時間まで寝られ、好きな時間に寝られる。日常のルールに従わなくていいという喜びを感じられるのだ。

 さらに、学校で費やす時間を趣味に使える。連日のテストやレポートで溜まったストレスを買い物や映画鑑賞で解消する。そういった予定がなければ、ネットフリックスで好きなアニメやドラマを見れる。

 こういった自由らを満喫できるから、加藤は夏が好きでいられるのだ。

 暑さに耐えながら歩いていると、馴染みの駅が見えた。しかし、ホームには人がほとんどおらず、閑散としている。

 加藤が通う大学は、駅から見える近さで、歩いて5分くらいの距離にある。最寄のその駅には、学生や教員が日頃たくさんいる。しかし、今は夏休み中だからか、そういった人たちの姿はない。スーツ姿の中年男性2人にベビーカーを携えている女性、杖を持つ老翁と学生には見えない人達しかいない。

 ズボンの左ポケットからICカードを取り出す。それを改札口にかざそうとする、その時だった。視界の端に、ある人物の姿を捉え、手が止まった。

 駅の入り口にあるベンチに腰掛けている老婆。紺色のワンピースに、真珠のネックネス。そして、黒色のシャルマンハットを深く被り、銀縁の丸眼鏡をかけている彼女に対し、加藤は声をかける。

「田村さん。お久しぶりです」

 老婆こと田村が加藤の方へ顔を向ける。すると、口角がゆっくりと上がり、目が細められる。

「おはよう。これからお出かけなの?」

「そうなんです。武蔵境にある図書館に行こうと思ってて」

「まあ。勉強とは偉いわね」

「勉強じゃないですよ。読書しに行くんですよ」

「読書でも関心ものよ。最近の子は、本じゃなくてスマホしか見てないもの」

 田村の言葉に、加藤は少し嬉しくなる。本を読むことに対して、そこまで感心してくれたからだ。

「田村さんこそ、どこへ行くんですか」

「娘夫婦に会いに行くの」

「あれっ?近所に住んでるんじゃなかったでしたっけ?歩いて20分くらいだって」

「遠くに行っちゃったのよ」

「…そうなんですね」

 加藤は、間を置いて返した。彼の頭には、「なんでですか」と理由を尋ねる言葉が浮かんでいた。しかし、答えづらい理由だったらと考えると、口に出すことはできなかった。

「今日は楽しみなの。孫たちのもとにいけると考えるとね。プレゼントもあるし」

 田村の言葉を聞き、加藤は不思議に思う。彼女の腰元には、黒いトートバッグしか置かれていないからだ。

-どこにあるんだろう。…いや、これから買いに行くのか。

 そう考えれば、納得がいく。そして、加藤は田村に微笑みかける。

「そこまで楽しみにしてくれる祖母って素敵ですね。僕の祖母がまだ生きてたらなぁ」

「亡くなったの?」

「はい。僕が中学1年生になった年に、病気で。僕、おばあちゃんっ子だったから、その時は辛かったな」

 当時の記憶が蘇り、悲しい感情に襲われる。しかし、加藤はその感情を顔に出さないように努める。

「祖母は厳しかったですが、他人に寄り添える優しい人でした。そんな祖母によく言われた言葉があります。「優しさは、誰かのためになる。だから、どんな時でも優しくしなさい。そしたら、いつか自分に返ってくるから」ってね」

「素敵な言葉ね」

「感謝されないこともあります。でも、感謝されるととても嬉しくなるんです。最近だと、2、3週間前くらいなんですが、ある人の命を助けたんです」

「ある人?」

「運動不足解消のために、自宅周辺を散歩してるですが、その日、階段の中腹で倒れている人を見つけたんです。20代くらいの、僕と同い年ぐらい男で、頭から血を流していました。ぴくりとも動かないのを見て、頭が真っ白になりました。でも、「このままじゃいけない」って考え直して、すぐさま救急車を呼んだんです。まさか、それが初めての救急車乗車になるなんて思いもしませんでした」

「…あなたがいて幸運だったわね、その人」

「結果は、最初に言った通りです。治療を受け、目を覚ました彼が、私にこう言ったんです。「このご恩は一生忘れません。やらなくてはいけないことをできるのは、あなたのおかげです」って。それを聞いて、「助けて良かった」って嬉しかったんです」

「あなた、本当に優しいのね」

 田村の褒め言葉に、加藤は嬉しくなる。そんな言葉をかけた彼女は、眉根と口角を少し吊り上げている。その表情は、彼に寂しい印象、そして疑問を与えた。

-どうして、そんな寂しそうな顔してるんだろう。


_____


 田村と別れた後、加藤はホームにあるベンチに座っていた。

 電車が来るまで、全身を覆う熱気に耐える。しかし、座っているだけで汗が出る暑さに疲労が溜まっていき、限界を迎えようとしている。

「早く来ないかなー」

 そう呟きながら、左上にある電光掲示板へ目を向ける。そこには、「こんど 武蔵境 9:16」と表示されている。

 加藤は左手首にはめている腕時計を見る。時計の2つの針が"9:05"を差している。

「あと10分もあるのかー」

 加藤は小さなため息を吐く。その時だった。

 視界の左端から、一人の女性が入り込んできた。青色のデニムワンピース姿の彼女は、加藤の前を横切ると、彼の隣にゆっくりと腰掛けた。

 加藤は、隣の女性へ目を向ける。髪型は、明るい茶色のショートボブ。左耳には、真珠のイヤリング。服装といい、髪型から大学生という印象を受けた。

 その女性は、前方をじっと見ている。そんな彼女の表情は、加藤に暗い印象を与えた。無表情で、彼女の目には光が宿っていないように見えるからだ。

-何かあったのかな。

 見覚えがない人物。しかし、暗い顔をしている人を見ると、加藤はいつも気になるのだ。

 「体調が悪いのか」。もしくは、「辛いことがあったのか」。様々な憶測を浮かべている時だった。彼女の顔がゆっくりとこちらへ向く。

「あの」

「…はい?」

 急に声をかけられ、加藤は驚く。そして、焦り始める。

-やばい。じっと見てたことに怒ってるかも。

 そう考えるだけで、心臓の鼓動が速くなっていく。「そんなつもりじゃなかった」、ただそう言えばいいだけなのに、それができない。怒られる恐怖で何も答えられずにいた時だった。

「えっ?」

 加藤は唖然とする。自分が思っていることと違うことへの驚き。それに加えて、自分の考えがなぜ分かったのだろうかという驚きもあったからだ。

「気になりますか」

「えっ?」

「どうしてこんな顔してるのかって」

 彼女と目が合い、顔全体が視界に入る。そこで、加藤は彼女への心配がさらに大きくなった。彼女の目の下には、クマができていて、顔のところどころにニキビがある。

-あまり寝れてないのかな。

 そう心配していると、彼女が前方へ目を向けた。

「次の電車まで、まだ時間ありますね」

 彼女の言葉を受け、加藤は腕時計を見る。9時6分、次の電車が来るまであと10分。

「それがどうしたんですか」

「ちょっと、話を聞いてもらえませんか」

「…僕がですか」

 返答までに少し間があった。見ず知らずの女性から、急にこんなことを言われたことはなかった。それに、何を考えているのか分からないという不安があったからだ。

 しかし、彼の考えは聞き役になることに決めていた。話を聞くことで彼女の悩みが解決するかもしれない、そんな期待と「力になりたい」という気持ちがあるからだ。

「僕でよければ」

「良かった」

 彼女は、嬉しそうに口角を上げる。

「私、羽田陽子はだ ようこって言います。あの大学の1年生です」

 羽田が前方を指差す。柵に囲まれた向かいのホームの先に、校舎が見える。

「僕もあの大学に通ってるんです。今年で2年生になります。あっ、加藤優人といいます」

「加藤さん、ですね。…実は、私には親友がいました」

 少しの間の後、羽田はトーンの下がった声で話を切り出した。

「親友ですか」

佐川咲さがわ さきっていう子で、中学校からの仲でした。「さっちゃん」って呼んでて、なんの偶然かいつも同じクラスでした。休み時間、試験勉強の時、遊ぶ時、ほとんどの時間を彼女と過ごしました。まるで、本当の姉妹のように。だけど、彼女は死んでしまった」

「病気ですか」

「殺されたんです」

「えっ」

 加藤は唖然とする。

「1週間前の事件、覚えてますか」

「事件?」

「"女子大生惨殺事件"。ある女子大生が自宅で、何者かに刃物で滅多刺しにされた事件です。

「えっ!?」

 加藤は思わず、大きな声で反応してしまう。親友が事件の被害者だった、今まで直接聞いたことのない話に驚くしかなかった。

「事件の発端は、今から2ヶ月以上前のことです。ここから、さっちゃんの不幸が始まったんです」

 淡々と語る羽田に、加藤は固唾を飲む。

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