仰向けに足掻く虫

大成 幸

心優しき青年

 仰向けにひっくり返っている虫。茶色の身体に、頭から生えた2本の長い触角。何本かの棘がある6本の足をジタバタ動かしている。

 ゴキブリ。その虫の名前を思い出すよりも先に、加藤優人かとう ゆうとは嫌悪感と恐怖に襲われる。

 自宅の前で、加藤は動けずにいる。そして、床に仰向けになっているゴキブリを凝視する。ジタバタと動いているのを見ながら、顔を引きつらせる。

 加藤はこれから、電車で隣町に行く予定だった。眠気に耐えながら、洗顔、歯磨きと身だしなみを整える。そして、エアコンや電気が切られているのを確かめてから、部屋を出た。その出た先で、彼は目の前の光景に出会したのであった。

 ゴキブリは、体勢を戻そうと必死に足を動かしている。しかし、その力が身体を起き上がらせることはなく、頭の斜め先へ不自然な移動をさせるだけだ。

 加藤は突然、慈悲の心を抱き始める。それは、祖母のある言葉が頭に浮かんできたからだった。


「優しさは、誰かのためになる」


 加藤は早速、行動に移そうとする。しかし、彼は勇気が出せず、その場で立ち止まっている。見るだけで背筋が凍る存在へ触れることに、抵抗があるからだ。

 「何か策はないか」、そう考えている時だった。加藤の視界にあるものが映った。それは、ドアの郵便受けに差し込まれている一枚のチラシ。それを見た彼は、閃いた。

 親指だけを表面に出すようにして、右手でチラシを掴む。上に小さく振ると、親指が沈んで凹みができ、紙全体にピンと張りができた。

 加藤は、チラシをゴキブリの背中へ近づけていく。チラシがゴキブリの背中に触れる。その感覚がチラシ越しに伝わり、不快感に襲われる。しかし、彼はその感情を抑えながら、ゴキブリをチラシに乗せる。身体の半分まで乗ったのを見て、右手を少し上げる。チラシが持ち上げられたことで、ゴキブリが浮き上がる。

 宙に投げ出されて一秒も経たないうちに、ゴキブリの足が地面に着いた。

-良かった。

 元の体勢に戻れたのを見た加藤は安堵し、ほっとため息を吐いた。

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