第一話 「地下に降る血の雨」 chapter 8
昼日中の繁華街は寂寥感さえ漂う独特な静けさがある。夜に営業する飲食店が立ち並ぶビルの荒涼は一入で、それがキャバレーやナイトクラブの雑居ビルともなれば忽ち廃墟染みてくる。
女と金が欲望と虚飾に彩られるステージは、機械での自動化が進んだ飲食業においても未だ衰えない。建前としての飲食店というカテゴリーで、本当の商品はあくまで女である。
そんなビルの裏路地、ゴミ捨て場に袋を抱えた男がのそのそと歩いていく。草臥れたスーツベストの下に着た濃いグレーのカッターシャツは、縒れて清潔感が損なわれている。
寝癖が途轍もない頭は鳥の巣のようで、夜の社交場を取り仕切る支配人とは思えない男である。ゴミ捨て場の扉を開き袋を投げ込んだ男の背後に気配を消して現れた黒猫は、がら空きのその背中を蹴り飛ばしてゴミ捨て場の扉を閉めた。
「……またお前か、クソガキ。今度は何の用だ?」
ゴミ山から緩慢に抜け出して、振り返った先にいた黒猫を見た男は溜め息混じりにうんざりした顔をする。
「儲かってるか? 久し振りやんけ、クソ原」
時代遅れの南京錠を採用した扉に鍵を掛け、黒猫は金網越しに世間話を楽しんだ。
「栗原だ、変な間違い方してんじゃねぇ。悪戯も大概にしろ」
年上を敬う素振りも見せない黒猫に栗原は情けなく凄む。子供染みた渾名の付け方に自身を棚上げして文句を付けた。
「ーー山田組の情報、関わってるのは例の事務所だけってお前言うてたよな?」
金網に齧り付く勢いで迫る栗原の額にコルト・シングルを突き付けて黒猫は事実確認をする。
あの日の夜もまた同じような交渉で引き出した情報が決め手になり、黒猫は襲撃に成功して依頼を遂行出来た。栗原は情報提供者でもありながら、山田組に与して女を拉致する女衒のような役回りをしていると見られる。
「言ったろ、俺はナイトクラブの支配人なんだ。商品として女は提供するが、堅気の女をやくざに売ったりは専門外。奴らとは一商売人として懇意にさしてもらってるだけだ」
両手を上げて降参する栗原はそれでも言葉を曲げなかった。蝿の集るゴミ捨て場で尚も、商売人としての矜持を瞳に燃やしていた。
「クソの分際でイキんなよ、実際お前がどんだけゲスい事しとってもどうでもええねん。真鍋って奴の情報出せや……今回はそれで許したるわ」
コルト・シングルを懐に仕舞い込み、黒猫は話の本題に入る。
居酒屋での襲撃から生き延びて二日、警護に対して猜疑的な心情をぶつけていた相川は心変わりしたように白猫の指示に素直になった。彼女の知り得る限りの情報を引き出した結果、例の男が真鍋という名で外見的特徴から居酒屋に押し寄せたやくざ者の中にはいなかったと推定される。
突発的な戦闘で全ての顔を認識出来た訳がない事と、語られる為人から何事もなく二日も音沙汰がない事から大凡断定された情報である。
件の男を放置すれば再び危険になるという白猫の方針で、黒猫は単独で真鍋の情報を集めていた。
「真鍋、名前を呼ばれてるのは何度か見聞きしたけど、正直やくざ達の内部事情なんて知らねぇ。金さえ貰えりゃ夢を売るのが俺の仕事ってもんだ」
当たり障りのない回答が栗原から溢れる。最もらしい発言で特段期待していた訳でもない黒猫の表情が悪戯心に歪む。
「客の情報は売らんとかほざいてたお前が、山田組の仇相手にベラベラ情報垂れ流しとる。これがバレたらお前はどうなるんやろな?」
嗜虐的な思考を栗原に伝わるように説明すると、これまで冷静に取り繕ってきた栗原の顔が苦悶する。
「脅した張本人がそれを言うかよ。命を狙われたんだ、それに比べれば情報なんて安いもんだろ」
崖の淵に追い込まれて足掻きながらも、黒猫を睨む気概を見せた栗原。
「山田組の奴らが、そんな眠たい話汲んでくれたら嬉しいな」
楽観的な願望を明け透けに語って黒猫は栗原へ止めを刺す。
山田組の、延いてはやくざ者全般が裏切りに寛容ではない事など火を見るより明らかである。命を守る為に他人の情報を売った商売人の命を保証するお人好しがやくざ者にいる筈もなかった。
一度綻んだ布は強度を失い、補修しなければ穴が広がっていく。過ちを犯したか、あるいはその一端に触れたならば状況は連続して悪化する。黒猫に情報を与えた時点で、若しくは山田組と関わりを持った時点から彼の運命は決まっていたのかもしれない。
「真鍋について知ってる事は全て話す。期待されてる情報があるかは関係ねぇ、それで手打ちにしてくれ」
本当の意味で観念した栗原はゴミ捨て場にへたり込む。前を横切るだけで不幸を呼ぶとされる黒猫という生き物に、迷信よりも一層実感を持って恨めしさが籠もった視線を向けた。
「まぁ待てや、話は酒でも飲みながら聞いたるやん。商売人も苦労が多くて堪らんな」
南京錠を取り外して栗原を解放すると、営業を終えて片付けられたナイトクラブへと二人して足を運ぶ。
昼間から飲む酒の味は普段と違い、世俗の流れに逆行する背徳感が格別である。接待する女のいない絢爛豪華な内装は、嬌声と悪罵で喧しい店を嫌う黒猫には寧ろ好印象でさえあった。
馴染みの薄いブランデーもこうした趣向の店ならではだが、軽く飲む程度であれば致し方なかった。情報を聞き出す間、粗末に与えられたブランデーの瓶とロックグラスを舐めてガソリン代わりにした黒猫。柔らかな大人数用のソファーに踏ん反り返る姿は汚い大人と大差なかった。
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