第一話 「地下に降る血の雨」 chapter 7
束の間の日常は突然の出来事でいきなり変わってしまう。居酒屋の前に集結した不穏分子は沸々と憎悪を燃やして、とある作戦を決行しようとしていた。
酒を少し飲んだ白猫はそれまでの人間性とは明らかに別人となる。
澄ました表情で斜に構えた彼女はある種の人形めいた無機質なディテールが特徴であるが、レモンチューハイをジョッキの半分も飲まない内にまずその姿勢が変わる。テーブルに雪崩れる上半身と頬を紅潮させた焦点の定まらない視線、何より一番変化しているのは他人との距離感であった。
会話に加わらず一人飲み食いしている黒猫の背中を叩き、僅かな時間しか行動を共にしていない彼を揶揄する。親しげに肩に回されそうになった腕を払い除けると、女性に免疫がないのかと意味不明な罵倒を繰り広げた。
自身との間に心の溝がある前提で距離感を保っていた黒猫はその変わり様に驚くばかりで、それに比例してそれまでと違う色の苛立ちが彼にも熱を帯びさせる。
「……酔うたらボスと同じタイプか? べたべた触ってくんなや」
にじり寄ってくる白猫を回避をする為立ち上がった黒猫が、グラスに残っていた芋焼酎のロックを煽ってテーブルに叩き付ける。話し合いが終わったのであれば、そもそもこのような酒の席に付き合う義理はなかった。
「ーー黒猫!」
店を後にしようとする黒猫を不意に真剣味を帯びたような白猫が腕を掴んだ。想定外の動きに不意を突かれた黒猫は反応が遅れて席に座らされる。
「何すんね――」
怒りが爆発し掛けた黒猫は、その時になって野生動物の危機察知的予感を覚えた。幾度の戦闘経験の末、黒猫は悪意や敵意に敏感に反応する体になっていたのだ。
やられたらやり返す、それは甘い考え方である。やられている時点で既に手遅れなのだ。やられる前にやらなければならない。
相手の表情や視線の動きで、その先の行動を読み取り先手を打つ。周りの存在全てを敵とみなすからこその戦闘特化スキルである。
培うべくして積み上げてきた黒猫の人生経験が、何かを感じ取った。
居酒屋の入り口、磨りガラスの扉が叩き割られる。弾けるガラス片が俄かに沸き立つ店内に奇声を上げた。何事かと飛び出した居酒屋の補助スタッフが扉の前に立つ人物に驚愕する。
ドスを握りしめて傷だらけの顔を歪ませた男は、腹に巻いたサラシに片腕を突っ込みながら店内を見渡した。
「ご機嫌麗しゅう! さぁ、今から祭だ。この店の酒全部持ってこい」
反り込みの深い坊主頭に所々抜け落ちた歯を覗かせる笑いが、硬直するスタッフへ突き刺さる。
「……原田、祭は後だ。まずは関係者以外、皆殺しにしろ」
その坊主頭を叩いて二番手を切った男が、トカレフの銃口をスタッフに向ける。そのまま的当てでもするような気軽さで彼は額を打ち抜いた。
銃声と共に巻き起こる悲鳴を合図に店内は武装したやくざ者に蹂躙されていく。
入口に近い個室が乱暴に開かれると、食事を楽しんでいた二人組の男女を問答無用に撃ち殺した。それまで半狂乱に騒いでいた他の客は水を打ったように静まり返り、身を隠して危険から遠ざかる方法を必死に探った。
個室を次々と検めて、まるで宝探しでもするように次々と目的の人間を追い求める。該当しない物は廃棄されるのみである。
最大の幸福とまでは言えないものの、飲食店での食事は充実した時間となる。湯気が立つ料理に飛ぶ血飛沫と力なく果てた人間が重なり、絶妙なアンバランスが店内に広がった。
「おい、とりあえずテーブルの下に隠れとけ。様子見てくる」
懐からコルト・シングルを取り出して撃鉄を起こす。警護対象の二人を白猫に預けて黒猫が先行する。
騒ぎの大元が徐々に近付く中、既に先手を切られた以上動かなければ殺されるのみである。相手の思惑が分からないまま、優利を掴む為に行動を開始した。元いた個室から二つ向こうの個室に潜み、敵勢力が来るまで待つ。
命の瀬戸際に起こる悲嘆とそれを嘲笑うような銃声が何度か続き、とうとう黒猫が潜む個室の扉が開かれる。
個室の引き戸から顔を出した坊主頭に黒猫はコルト・シングルを突き付ける。相手は銃口を向けられて尚不吉な笑顔を崩さず黒猫を見る。
「山田組やな。こんな居酒屋で何してんねん?」
黒猫は臆せず淡々と問い掛ける。頭のネジが外れた人間はこれまでも多く対峙してきた。紙一重の腹の探り合いが始まる。
「探してたぜ、山田組は祭好きの集まりでな、お前を招待してやるよ」
歪んだ笑顔に更に邪悪さが深まる。銃口を向けられている事を気にもせず、無表情な黒猫に顔を合わせる。
「……気色悪いねん」
見るに堪えない顔と人間性にげんなりした感想を溢してコルト・シングルが火を吹いた。脳天を抉り抜いた弾丸が木製の天井飾りに食い込んだ。
死に様でさえ笑顔のまま坊主頭は個室へ倒れ込み、血と脳漿が溢れ出てテーブルに微かに広がる。
相手の目的を何となく把握した黒猫は即座に動いた。ターゲットが自身であれば警護は白猫に任せてしまって問題ない。次の敵が来る前に携帯端末を起動する。
人工知能を呼び出せば使用者が望むままの行動を言葉だけで実行する事が可能である。白猫に居酒屋の裏口から逃げろとメッセージを飛ばし、その時間稼ぎをするべく特攻を決めた。
個室を出るとすぐに第二陣がそこにいた。坊主頭から奪い取ったドスで手前の男を斬り付ける。手入れの悪いドスも、雑に首へ突き立てれば殺傷力は必要十分。続け様に後ろの男にも引き抜いたドスで顔を斬り裂いた。
最低限の武装しかしていなかった黒猫は、そのドスの斬れ味に落胆する。同じ動作を虎徹で置き換えれば膾斬りに出来たからである。障害物の多い室内で振り回すのは骨が折れるが、それでも邪魔する物体毎斬り裂く鋭さと破壊力を持っている。
店の入口へ近付く程に凄惨な景色が垣間見えて、肉体のエンジンは徐々に最高の性能を発揮する段階に入る。相手も手段を選ばず、強硬策に出た事を知った。
「ーー監視カメラに映ってた奴だ。探した甲斐があったぜ、弔い合戦と洒落込むか」
居酒屋の入り口で待ち構えていた男が歓迎するような表情で両手を広げる。その様相はぎらついた憎悪の眼差しを向ける周りの人間とは一線を画していた。
「こんなガキにやられたとあっちゃあ、山田組の面目丸潰れだな」
見掛けの幼い少年を相手にやくざ者が大挙する。あの日の夜から黒猫を探していた彼等は、漸くありつけた御馳走に群がる獣のようである。
それぞれがトカレフやドスを構えて黒猫に向かってくる。準備不足が否めない戦況においても、彼にとっては普段と変わらない。銃弾の的にならないように動き回り、ドスの一振りを往なして腕を取るとそれを軸に半回転して顔へ肘打ちを見舞う。
押し寄せるようなドスの横払いを意識の飛んだ男で防ぎ、剥ぎ取ったドスで仲間を斬り付けた男の頸動脈に刃を刺し込む。噴水のように血が舞い上がり天井を汚して黒猫にぽたぽたと垂れた。
「祭がどうとか知ったこっちゃないけどな、むさ苦しい男に興味ないねん」
黒猫は仕留めた二人を盾にしつつ脱出の旨を伝える白猫のメッセージを聞き、捨て台詞を吐き付けて撤退する。圧倒的に準備不足な上、追手を全て相手にしている程体力は長く続かない。
店内の奥、厨房を抜けて居酒屋の裏口を出ると雨が降っていた。店から離れて通りに出ると傘を差した群衆に紛れて山田組の捜索網を搔い潜る。
顔に浴びた返り血は勢いを増す雨に流れて、無人タクシーに乗り込む頃には先程の襲撃が嘘のように静まり返った車内で町を走り抜けた。
敵は偶然あの場に居合わせたにしては随分と準備が整っていた。あれだけで追跡を撒けたとは思えないが、深追いしてくる気配は感じない。それはそれで不可解である。ターゲットが黒猫である以外の事を知る必要があるようだ。
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