第一話 「地下に降る血の雨」 chapter 5

「あぁ、どこまで話したか。とにかく、てめぇはいつもやり過ぎなんだ。ちょっと大人しくしてろ、山田組ってのはデカい組織。事務所一つ潰したって、虫ケラみたいに何処にでも湧いてくる」


 銀猫との長い会話が終わり、社長室は空白の時が流れた。ソファーから立ち上がり部屋を出ようとした途端、見慣れない新たな人物が現れた。

 立ち塞がるように銀猫へ視線を向ける少女。黒猫より少し背の低い彼女は、黒髪を肩まで伸ばして透き通るような白い肌をした精巧な人形のようであった。


「ーー話は終わってねぇぞ。今まではてめぇ一人自由に動かしてたが、教育係兼監視役としてコンビを組んでもらう。決定事項だ、反論は認めない」

 背中越しに黒猫を見る事もなく、銀猫は途切れていた会話を再開させた。


 黒猫は面倒事の予兆たる目の前の存在を睨み付ける。背格好も大して変わらない少女が自身の教育係になる事よりも、見ず知らずの他人とコンビを組まされる事が更に鬱陶しさを感じさせた。

「社長、私は何も聞いてません。コイツ、誰なんですか?」

 少女は冷たい視線を銀猫へ向けた。道を譲り合う気配もなく、堂々たる様は似た者同士である。


「白猫、今聞いた通りだ。歳は一緒だし、常識も学もないその馬鹿野郎に社会の厳しさを教えてやってくれ」

 銀猫は満足気に一方的な話を進める。白猫と呼ばれた少女の意を汲み取る事もなく、独善的とさえ思えるようなに話の流れが出来上がっていた。


 暫くして言い出したら誰の話も聞かない銀猫との会話がやっと終わる。社長室を出てエレベーターを降りる二人の間には重く暗い雰囲気が漂っていた。

 黒猫はこれまで、単独で全ての依頼を熟してきた。数々の修羅場を潜り抜けて、死ぬ事なく過ごしてきた。そんな中で今更、教育係など邪魔にしかならない。


「明日の午後三時、クライアントとそこの喫茶店で会うから。あんたは付き添い、話は私が進めるから、余計な事は言わず黙って座ってなさい」

 ビルの正面から出て道路を挟んだ斜向かいを指差して、白猫は黒猫を一瞥する事もなく言い放った。

「……お前、本気で教育係するつもりなんか?」

 指定された喫茶店を睨み付けながら、煙草に火を点けて黒猫が返す。


 真意を問い質す黒猫の言葉を数秒の沈黙で埋められる。行き交う車と人間の流れは滞りなく、世界から二人を置き去りにしたようであった。


「本気も何も、仕事だから仕方ない。社長が言い出したらそれが正解でしょ? 何か不満でもある?」

 彼女はその日初めて、黒猫と相見えた。視線と視線がその瞬間にぶつかった。冷たく煌めく相貌が黒猫を刺した。見れば見る程、人形のような女である。


「納得いってへんねん。お前みたいなんが教育係って所にな」

 売られたら買うのが喧嘩で、正面切って睨み付けた白猫の顔に心の在り様を晒け出した。

「……納得なんて、私もしてない。ガキじゃないんだから、会社の決め事に従いなさい」

 敵対の意思はそのままに、それでも彼女はふと諦めたような顔で返答を待たずに歩き始めた。波風を荒立てたまま、気にも止めずその場を後にする。


 自然と舌打ちが溢れる。黒猫は去り行く白猫の背中を睨み付けたまま、大きく吸い込んだ煙草の煙を吐き出した。

 昼前の空は雲混じりの青空が斑に広がり、微かな湿り気を帯びた風が夏の到来を知らせていた。わだかまりを残したまま、黒猫は巡回する無人タクシーを停めて家路に着いた。


 人間一人の人格形成はそれぞれが生きてきた環境の積み重ねが殆どである。そうして命のやり取りが心をリアリストへと染め上げて、感情の機微を蔑ろにしてきた結果が今の彼である。その過程に重大なバグを抱えた黒猫がある種の異常をきたす事は致し方ない。

 人間関係は一期一会。繋がりを持つ人間を極力持って来なかった人格破綻者にとって、白猫という存在は少々刺激が強過ぎた。噛み合わせ、反りが絶望的に拗れている。


 翌日。黒猫は内心の不満を隠し立てせず、件の喫茶店の軽い扉を開く。明るい木目と観葉植物が所狭しと並ぶ店内には多くの客で溢れていた。女しかいない店内は落ち着いた喧騒とコーヒー豆の燻される匂いで満ちている。

 笑顔を貼り付けた店員が不機嫌な来客に少し表情を強ばらせ、店内を睨み付けるように眺める男を受け入れた。

 奥のスペースに敵意を感じて目が合うと渋々そこへ歩き出した。白猫と対面する席にもう一人の人物が何事かと振り返り、黒猫はその人物に思考が停止する。


「斉藤か、こんなとこで何してんねん」

 黒猫と目が合い、立ち上がって深く一礼した彼女に率直な疑問をぶつけた。


 今までの仕事において、黒猫は直接クライアントと関わる事はなかった。ネットワーク上で必要最低限の情報をやり取りすれば全てが解決してきたからである。依頼によって保護した斉藤愛美が日を開けずクライアントとして再会するとは想定外であった。


「あの時は、あなたのお陰で助かりました。ありがとうございます。厄介な事になってまして」

 固い表情を哀愁の笑みで崩して斉藤は語る。先日の印象から更に痩せこけた顔は過度なストレスが影響しているのかもしれない。


 顎で黒猫を座らせようとする白猫を睨み返して黒猫は席に着く。黙って話を聞けと白猫からの視線を気にも留めずに幸の薄い女を観察する。


 立ち居振る舞いから醸し出される博愛の精神と現実を夢見心地に眺めている人生観は、黒猫を始め多くの裏社会を生きる人間にとって薄寒い思考である。

 弱肉強食の世界を生き抜く方法はとてもシンプル、悪意と敵意を力で捩じ伏せる事である。奪われるだけの人間は玩具にしかなれない。あの日、斉藤が出来た事は何もなかった。仮に黒猫が襲撃の手を拱いていれば、今頃奴隷としての人生が始まっていたかもしれない。

 踏み込むべきではない世界へ、その拙い小さな一歩を彼女は踏み込んでしまった。

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