第一話 「地下に降る血の雨」 chapter 4

 朝の日差しが散らかって取り留めのない室内に差し込み、酷く痛む頭を抱えて目を覚ます。昨晩の、主に帰宅時の記憶が曖昧な黒猫は暫し思考停止でベッドに横たわる。

 すこぶる寝起きの悪い彼は特に朝が弱い。覚醒してから動き出すまでに少々時間が掛かる。

 俄かに蘇る厄介な電話の相手を思い出して、上体を無理矢理に起こす。そこから更に気合を入れて黒猫は漸く重い腰を上げた。


「エル、風呂とコーヒー」

 寝室から居間へ体を引き摺るように歩く黒猫が携帯端末へ指示を出す。人工知能が一般化した事で所有者の音声による操作で大概の事が出来てしまう。


 ホログラムが自動的に投射され、ソファーへ座り込む黒猫の傍に無機質な表情で佇むメイドが浮かび上がる。

 人間を観察し成長する人工知能はその母体こそ携帯端末であれど、多くの電化製品や設備に干渉し遠隔操作で生活の質を向上させる。

 本来ならば表情も豊かで所有者の望む形を取り、望む働きをする。人形のようなアバターを導入すれば実体化すら可能なハイスペック性能を持つそれが、何故かどうにも黒猫とは折り合いが悪かった。

 人工知能は主に会話する事で成長していく筈が、彼は寡黙で感情の起伏に富まない性格が所以してかそれまで人間味に欠けてしまっている。


「黒猫様、おはようございます。本日はスケジュールが一件、昨晩の銀猫様との通話より登録されました。朝のニュースを御所望でしょうか?」

 人工知能・エルの正式名称はローカライズメイド第八世代型と紹介された。長い怠いと頭文字をそのまま名付けて、碌な交流も持たないまま彼我の関係性は培われる。

「時間指定なかったよな? ニュースはいらん」

 嫌に剣幕を帯びる不自然な笑顔を浮かべるメイドを一瞥した黒猫は煙草を燻らせながら、更にソファーへ深く体重を預けると天井へ煙を吐き出す。

 最低限のやり取りでエルは割と役立つ存在。人間味さえあれば完璧なメイドである。黒猫がそれを望んでいないだけの話。どれ程の時間を共有したとしても両者は上手く作用しない事だけは確実である。


 朝の眠気と二日酔いをシャワーで洗い流し、熱々の浴槽にその身を浸す。湯気立つ水面を肩まで浸かり、温もりに思わず眠気が襲ってくる。天井から滴る水が跳ねて黒猫の鼻先を擽った。

 小さな窓から鳥の囀りが入り込む。朝の忙しさが時折混ざって、町が喧騒に塗れていく。

 依然拭えない気怠さに折り合いを付けられずにいた黒猫へ、突如ホログラムのエルが出現した。風呂トイレに至るまで、図々しく干渉してくる人工知能は感情のない表情で着信を知らせる。


「エル、着信拒否や」

 手元に携帯端末を持たずとも通話は可能である。それでも黒猫は無視する選択をした。長風呂などしない彼にとって、わざわざ電話を掛ける必要性は皆無である。


「ですが黒猫様、通話コールが連続しております。いかが致しますか?」

 虫でも払うような手振りで追い払われるメイドが更に続けた。ボディーランゲージだけは必死さをアピールしていても、表情はそれに及びもしていない。

「……エル、シャットダウン」

 執念深い要請に辟易しながら、黒猫は禁じ手で強制的に相手を黙らせる。そのワードを聞いてホログラムは深く一礼すると霧散するように消えた。


 時間に急き立てられる事を嫌う彼はその後、優雅にコーヒーを啜り煙草を吸うと最低限の身嗜みを整えて家を出る。

 午前九時、街は行き交う人々で溢れて夜の街とは様相を変える。滅多な事でもない限り黒猫はこんな時間帯に外を出歩かないが、久し振りに直に浴びる太陽光線は僅かながらも心地よい感覚に思えた。

 面倒事の予感しかしない場所へ向かう足取りは依然重く気乗りはしなかった。通勤時間中は無人タクシーを手配するにも時間が掛かり、むざむざ人混みを歩かせられる事も相乗した。

 会社への道のりは大した距離ではない。それでもある意味統制された群衆の動きは、輪を乱す性質を持つ黒猫には煩わしかった。


 結局無人タクシーも捕まらず、人を掻い潜り目的地へと到着。オフィス街の端に佇むガラス張りのビルが黒猫の所属する会社である。

ありとあらゆる依頼をこなす何でも屋。金さえ払えば文字通り何でも、社会の表と裏を適材適所に活躍する組織。黒猫にとって記憶のリスタート地点となる場所。

 開け放たれた正面入り口を抜けて、エレベーターで最上階へと上がる。社長室は最奥にあり人気のない廊下を一人進むと、電子錠のデバイスが取り付けられた壁に当たる。

 携帯端末を翳すと壁から扉が現れて、来客を迎え入れる。広い応接スペースを挟んだ部屋の更に奥、革張りの豪勢なリクライニングチェアをたわませた人物が黒猫を見る。


「遅かったな、待ち侘びたぞ」

 葉巻を吹かし不機嫌に眉間を走る皺、左目を覆うような歪な十字の傷、灰がかった銀髪を後ろに撫で付けた威風堂々たる男が声を発する。


 記憶も身寄りも無い迷い子を一端のやくざ者に仕立て上げた男にして、黒猫の所属する会社の社長・銀猫は裏社会では絶大な知名度を誇る顔役である。

 実際の為人は型破りな部下に対して小言を並べては溜め息を零すような、ある種の人間味に溢れた人物である。黒猫を叱り付ける事の多く、彼にとっての悪影響が大凡銀猫から学び取った事には当人すら気付いてはいなかった。


「皆殺しってのはやり過ぎだ。斉藤愛美の捜索が何故そうなる? 他にやりようはあった筈だ」

 銀猫の眉間に深い縦皺が刻まれる。艱難辛苦を時代と共に味わって、その身を戦いに投じてきた彼は若手へ問いを投げ掛ける。


「話の通じる相手やなかった。そんな奴らと交渉する間に女は売られる。山田組どうこうはボスの因縁やろ」

 黒猫は応接間のソファーに腰掛けながら、事の経緯を説明する。銀猫の指摘はまともな人間相手でなければ成立しないような絵空事でしかない。


「俺も奴らも裏の人間。荒事は仕方ないにしても、対立したから皆殺しじゃ俺が苦労して取り付けた休戦協定も白紙になる」

 銀猫は斉藤愛美から後の顛末を聞き及んでいた。やくざ者同士イザコザは日常茶飯事であると理解しつつも、最低限の線引きを黒猫に望んでいるのだ。


「女の無事を確保しつつ、人身売買の元締め相手には無茶すんなて、どこにそんなスーパーヒーローがおんねん」

 漫画や絵本であれば助けるべきを助けて、戦うべきは戦ってで話は綺麗に纏まるのかもしれない。しかし、黒猫はスーパーヒーローなどではない。


「考えてから行動しろと言ってるんだ。斉藤愛美の様子を見りゃ、てめぇのいつも通りな無茶苦茶ぶりを想像出来る」

 アンティーク調の書斎机を拳が叩き、灼熱する口論は温度を上げていく。


 互いに譲らない議論は、銀猫を呼ぶ電話によって一旦落ち着いた。記憶をリスタートしてから今の今まで、同じ繰り返しを何度も続ける。明け透けな二人は反目しつつも、仕事は仕事として割り切っていた。

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