落ちぶれた英雄
三鹿ショート
落ちぶれた英雄
起床と共に酒を飲み、紫煙をくゆらせながら天井を眺める。
天井の染みを数えることを繰り返していたのだが、数え直す度に総数が変化することが不思議で仕方がなかった。
やがて日が暮れると夢の世界に旅立ち、目覚めると、酒を飲み、再び天井の染みを数える。
そのような生活をどれほど続けているのか、憶えていない。
***
不意に何かの音が鳴り、それが呼び鈴の音だということに気が付くと、私は玄関へと向かった。
途中に存在する鏡を見て、私は自身の現状を知った。
密林の奥地で何年も生活しているのではないかと思うほどに髪の毛と髭が伸び、手足は棒のように細く、頬も痩けていた。
他者に見せるような状態ではないのだろうが、そのようなことを気にする人間ならば、長い間、部屋に籠もっているわけがない。
相手が誰であるのかを確認することもせず、私は扉を開けた。
呼び鈴を鳴らした人間は、見知らぬ女性だった。
彼女は私の姿を見ると、言葉を失った。
私の外見を思えば、当然の反応だろう。
何の用事かと問うたところで、彼女は正気を取り戻したらしく、人当たりの良い笑顔を浮かべると、
「実は、あなたの両親から仕事を依頼されたのです」
いわく、両親はしばらく姿を見せることがない私を心配し、自堕落な生活を送っていた場合にも備えて、家事を手伝ってくれる人間を派遣したということだった。
そのような心配をするのならば、自分たちがこの場所に来れば良いだろうと考えたのだが、やってきたところで私の生活が簡単に変化するとは限らないことを思えば、無駄足を経験せずに済んだといえる。
ともあれ、退屈極まりないこの生活に終止符を打つことは微塵も考えていないために、
「何の問題も無かったと私の両親に伝えておいてくれ」
彼女にそう告げると、私は扉を閉め、万年床に戻った。
***
それから彼女は、毎日のように呼び鈴を鳴らした。
何度かは対応していたが、そのうちに面倒と化したため、彼女から逃れることを目的に外の世界に出ることにした。
久方ぶりの外の世界は眩しく、歩いているだけで寿命が縮まっているような気分を覚えた。
他の人間たちが私を見て何かを囁き合っているが、そのことについては、特段の感情を抱くことはない。
おそらくは私の外見について話しているのだろうが、そのような行為に及ぶことは理解することができる。
もしも私が普通の人生を歩んでいた中で、現在の私のような人間を目にすれば、同じことをしていただろう。
私は俯くこともなく、近所の公園に向かい、長椅子に座ると、一時間ほど無為に過ごした。
そろそろ彼女の姿も消えているだろうと思い、自宅に戻ったところ、彼女は玄関の扉の前に座っていた。
私の姿を目にすると、目に涙を浮かべながらも、嬉しそうな表情と化した。
「返事が無いために、何か悪いことが起きたのではないかと考えましたが、まさか外出をしていたとは、思っていませんでした」
彼女は、明日も来るということを告げると、その場を去った。
思えば、彼女が姿を見せなければ、私が外出することは無かっただろう。
これまでの生活と比べると、どれほど健康的であることか。
だが、感謝をするつもりは無かった。
何故なら、私の安定した生活を崩したからだ。
他者に自慢することが出来ない生活だが、私の人生は私が決めるものであり、他者がどのような思考を抱こうとも、関係の無い話だ。
私はその場で呼び鈴を破壊すると、押し入れの中に布団を移動させ、其処で眠ることにした。
翌日から、彼女の声が聞こえてくることはなかった。
***
学生時代の夢を見た。
それは、虐げられていた女子生徒を、私が英雄のごとく救い出すという内容だった。
女子生徒は解放されたが、己の行動が原因で、私は新たな標的と化した。
殴られ、蹴られるだけならば良い方である。
生きている虫を食べさせられ、歯を無理矢理に抜かれ、火が点いた煙草を腕に押しつけられ、全裸で学校の内部を走らされ、校庭の中央で脱糞をするように命令されたことなどは、今でも忘れることができない。
学生という身分を失ったことで、ようやく彼らから解放されたと思っていたが、私が勤務している会社に中途採用として姿を見せた人間が彼らのうちの一人だったために、私は地獄のような苦しみを思い出してしまった。
相手は私のことなど憶えていないようだったが、私が忘れるわけがなかった。
それ以来、私は会社に行くことができなくなってしまった。
しばらくは会社から連絡が来ていたが、それも既に途絶えている。
かつて一人の人間を救い出した英雄は、見る影も無かった。
目が覚めた私は大量の汗をかいており、呼吸は荒かった。
私が怒りで壁などに八つ当たりをする人間ならば、私の部屋は通気性が良くなっていることだろう。
そのようなことを考えながら押し入れの扉を開けると、彼女が笑顔で私を迎えた。
何故この場所に存在しているのかと問うたところ、彼女は私の両親からこの部屋の鍵を借りたということだった。
其処までして私に関わろうとする理由は何かと訊ねると、彼女は私の手を握りしめながら、
「かつて、あなたは私を救ってくれました。ゆえに、今度は、私があなたを救う番だと考えたのです」
いわく、彼女は私がかつて救い出した女子生徒だということだった。
私が変わり果ててしまったことを知り、立ち上がったということらしい。
恩を返そうとするその心意気は立派だが、私は彼女を受け入れることができなかった。
何故なら、彼女は虚言を吐き、私に近付いたからである。
私に近付くためには仕方の無いことだったのかもしれないが、虚言を吐く人間というものを、私は信ずることができないのだ。
私は彼女を追い出し、扉や窓に内側から板を打ち付けると、この生命が終焉を迎えるまで誰とも接触をすることはないと決心した。
誰が救いの手を差し伸べたところで、私の心は既に死んでいる。
それならば、肉体もまた、死を迎えるべきなのである。
今になってこのような行為に及ぶことは、遅いといえるだろう。
苦しみから解放されることが確実ならば、より早く実行しておくべきだった。
扉の外から彼女の声が聞こえてくるが、気にすることはない。
私は酒にあらゆる液体を混ぜ、飲み込んでいった。
気分が悪くなってきたが、そのように感ずる時間も、残り少ないことだろう。
落ちぶれた英雄 三鹿ショート @mijikashort
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