ב

「――私」

 声が、幼かった。手も小さく、身体も軽く、見える視界も非常に低い。胸に触れる。鼓動を感じる。とくとくと鳴らされる、生命の律動。これは、私だ。あの頃の私。幼く、小心で、泣き虫であった頃の私。彼――と、過ごしていた、あの頃の。

 いや、それよりも。周囲を見回す。見覚えのある光景。現実として見たことのある、現実でも見たことのある、その場所、その風景。間違いなかった。未熟な魂を映し出す、願いへと続く心の反映――。

 西の果ての、セフィロト。

 目の前には、暗い穴が開いていた。暗い、どこまでも続く暗い穴が。山をくり抜くような形で。山中トンネル。整然と、整えられた。私の時代のものではない。これは、過去のもの。一〇〇年前のもの。彼らの生きた時代のもの。大樹の聳える、あの時代の。胸に当てたその手が、鼓動の早まりを然と認める。

 確かめなければ。

 心臓が、痛いほど胸を打ち付ける。呼吸が浅くなる。この暗闇の先にあるもの――あるか、どうか、未だ不鮮明なものを思って。……怖い。確かめる、ことが。彼の旅の結末を。私の行いの、その結果を。確かめることが、怖い。でも、いかなければ。だっていかなければ、私は、もう、どこにも――。

 足を、踏み入れた。

 衣擦れの音すら反響する光なき暗黒。その中を、私は歩き続けた。道は真っすぐ、迷いはしない。ただただ私は、歩くだけ。一歩一歩、一歩一歩、足の裏に伝わる感触を確かめながら、光の出口を目指して進む。

 ふいに、声が聞こえた。暗闇の裡から、小さく小さくささやく声が。何を言っているかは聞き取れない。聞き取れないけれど、それが心地の良いものでないことは感じる。心地の良くないそれが、私に向けられたものであることは感じる。けれども私はそれらを無視し、更に先へと歩を進めた。

 次第に声が大きくなった。ささやき声は罵声となり、間違えようもなくそれらは私を批難していた。私の弱さを、私の無知を、私の過ちを彼らは批難していた。心臓の痛みが強まった。呼吸が浅く、苦しくなった。それでも私はそれらを無視し、更に先へと歩を進めた。

 呼び声が聞こえた。全身に緊張が走った。姿は見えない。けれど、そこにいるのが誰かは判る。その人が、再び私を呼んだ。なぜお前はこんなにも勝手なのだと、悲しむような声で。その人は――父は、私を叱った。足が止まりかけた。止まりかけた足に力を込め、私は更に歩を進めた。

「あっ」

 足が、止まった。人を、感じて。姿は見えない。ただ、そこにいるのを、感じて。それが誰かを、察知して。

「あ、わた、わた、し……」

 呼吸が止まる。舌が回らず、言葉がうまく発せなくなる。何かを言わなければならない。でも、なにを。私には、答えがなかった。この人に返す答えが、確信が、私にはなかった。だから私は何も、この人に何も言えずに――。

 “彼女”が、口を開いた。

 ――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。

 足が、下がっていた。後ろに。その下がった足が、燃えた。炎の壁が、迫っていた。赤い、炎が。それでも私は、前へと踏み出せなかった。このままではいけない、なにか言わなきゃ、なんとかしなきゃと思いながらも、自分が自分を離れたように、身体は指一つ自由にならず。

 炎が昇る。私を焼いて。それでも私は動けない。怒る父を前にした時のように。パトリックに誘拐された時のように。彼に……助けに来てくれた彼に、来いと呼ばれた時のように。恐れる私は、動けない。何も成長していない私は。あの頃のままの私は。臆病で弱虫で、泣き虫な私は。

 そうして私は、炎に包まれ――。


 手を、握られた。

 炎のゆらぎのその向こう、暗闇に同化したその誰か。影も形も見えないその子。私と同じ、小さな小さな女の子。私と、同じ。その子のその手が、私のその手をぎゅうと握った。握られ私も、ぎゅうと返した。

 身体が、動いた。

「……ごめんなさい」

 前へと足を、踏み出した。

「これから私が何をしようとあなたにとっては手遅れで、きっと心を晴らすことはできないのかもしれない……」

 炎が身体から、遠ざかる。

「自己満足なのかもしれない。償うことなんてできないのかもしれない。喪われたものは、二度とはもどってこないのだから……でも」

 炎を払いて歩く。前へ、前へ。

「でも、ここで何もしなかったらこれまでのことが、この、事件のことが、本当に意味のないことになってしまう。それだけは耐えられない、赦せないから――だから!」

 握った手の先のこの子と共に。

「いまのままでは曖昧な答えを確かなものとするために、どうか、どうか私を――」

 “彼女”の、目の前へ――。

「果て先へ、行かせてください」

 ――光が、差し込んだ。暗闇を割って。トンネルの出口。“彼女”を越えて、出口に向かって歩く、歩く。そうして抜けた、その先には――見渡す限りの、緑の世界。おとぎ話に、出てくるような。楽園。光り溢れる神様の。そんな言葉が、自然と浮かぶ。そして――。

 そしてその先には――聳える大樹の、ラトヴイーム。

 手を握る。強く強く握りしめる。隣のその子と、同じくらいの強さの力で。握って私は、私たちは、ラトヴイームの聳える丘を登っていった。確かめるために。

「あ」

 彼の、彼らの――。

「あぁ……」

 物語の――。

「ああ――!」

 結末を。


 視界が、滲んだ。


 ――会えたんだ。会えたんだ、会えたんだ!

 ラトヴイームの大樹を背にして、二人の少年が並んでいる。並んで座ったその二人は、穏やかな寝顔を互いに寄せて、指を結んで眠っていた。誓いの指環を、重ね合わせて。

 涙が止まらなかった。子どもの姿で、子どものように、子どものままの私は泣いた。手の先にいる隣のその子も、私と同じように泣いていた。二人でえんえん泣きながら、並んで座る少年たちを、私と彼女は見続けた。

 泣いて、泣いて、泣きながら、こんなに泣いたのはいつぶりだろうと私は思った。もうずっと、本当に長いこと、涙を流していなかった気がした。泣いてもいいと言われた私。けれども私は、いつしか泣くのを封印していた。

 泣いてもいいと、私は思えた。

 二人のために泣いていいと、私は思った。

 泣いた自分を、泣いた自分が、赦していた――。


 気づけば、墓の前にいた。ベルの墓。樹環のレリーフの刻まれた。そこには当然亀裂などなく、触れてもなにも起こりはしない。きっとそれで、よいのだと思う。

 目元が涙に濡れていた。指先でそれを拭う。拭ったその手を、胸へと当てる。手を、つなぐようにして。確かにそこに存在した、私の中のもう一人の“オレ”と手をつなぐようにして。――手をつないで私は、密やかに誓いの言葉をささやいた。

 行こう――“リリ”。

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