אור

א

 ――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。


「ええ、そうです。これが創始者ベルの、その墓になります」

 街外れの森林。木漏れ日の差し込むその場所に、並び建てられたいくつもの墓石。居並ぶそれらとさしたる違いもなく、その墓は葉々の影に佇んでいた。ベル。かつて処刑人として数多の生命を奪い、後に医師として多くの生命を救った男。そして――『ホーム』を創始した、歴史上の人物。

「生前彼は、こう言っていたそうです。誰一人、一人にはさせたくない、と」

 革命の時代。いまを生きる私にとっては、ただの記録に過ぎない過去の出来事。けれど当時を生きた彼らにとっては、現実として直面した凄惨な出来事。私の垣間見た、あの光景。

 三二〇〇と一人。ベルが殺めた、人の数。

「そこには大変な困難があったと伝わっています。彼に恨みを持つ者の手によって、両目を潰されたとも」

 二年足らずの間に奪われたにしては、余りにも多すぎるその生命。けれど被害を受けたのは処刑された人だけでなく、大切な人を奪われてしまった人たちも。家族、恋人、あるいは、友人。失意のまま残されてしまった人々。父を、母を殺され、行き場を失った子どもたち。

 ベルの『ホーム』は、そうした行き場を失った人たちの居場所となるために設立されたのだと聞いている。生前、盲目となった彼の目は、保護した少年に奪われたのだとも。彼の殺めた罪人の、その息子に奪われたのだと。

「処刑人であった彼は、やはり簡単には受け入れてもらえなかった。時代が変わろうとも、すぐには変えられないものもある。彼への嫌悪や、侮蔑や――それに、恨みも」

 彼は受け入れられなかった。受け入れられないままそれでも、光を失ってなお、彼は立ち止まらなかった。晩年は重い病を患い、四肢の麻痺に苦しめられたそうであるが、それでもその死の間際まで彼は『ホーム』に、孤独な人を助ける仕事に尽力し続けていたと聞く。六〇回目の誕生日を一ヶ月後に控えたその時まで。そしてその死の後にまで、心無い言葉をぶつける人は存在していたと。

「ベルが人を殺めたこと、それは事実です。それ自体を肯定することは、やはりできないのかもしれない。時代の犠牲などと、軽々しく片付けてはならない問題であると。ですがあの革命が、後の世に大きな影響をもたらしたこともまた事実。あの革命がなければ人はその生まれや家から逃れられず、ベルが処刑人を辞すこともできなかった訳ですから」

 その生の終わりまで他者の苦しみを拭い去り、その幸せを後押ししようとし続けたベル。彼はそれで、何を得たのだろうか。

「すべて正しき行いなどありはせず、また同時に、拾うべきものの何一つない事象も存在しないのかもしれません。我々にできるのはそれをどう受け取り、何を残していくか――。停滞したままでは、何が変わることもないのですから」

 私は彼に、何を――。

「彼の建てた『ホーム』の、私もその恩恵を受けた一人ですから」

「せーんせー!」

 愛くるしい声をした女の子が、すぐ側の屋敷――彼らの『ホーム』から頭を出した。声と同じく可愛らしい、清潔そうな衣服を身にまとった女の子だ。

「ギコとフサが、またけんかー!」

 女の子が、私を案内してくれた男性に向かって叫ぶ。男性も女の子に向かってすぐ行くと声を張り上げた。その後に彼は、私の方へと向き直る。

「代議士。あなたがいま苦境に立たされていることは存じております。しかし――」

 彼の目が、目の前の墓へと向けられた。

「ベルの理念を継ぐ者として、私はあなたを応援します」

 催促を繰り返す女の子が響いていた。彼は会釈をし、屋敷の方へともどっていく。そうして墓場には私だけが残される。私と、目の前の、墓。ベルの。樹環をあしらったレリーフの刻まれた。

「……ベル」

 そのレリーフに、触れる。

「覚えていますか、ベル。リリです。あなたと一緒にセフィロトを旅した、あのリリ」

 しばらくそうして、墓石に触れる。硬い、無機質な感触。いくら待っても、墓から返事が訪れるはずもなく。

「……本当に、亡くなっているのですね」

 当たり前のことを、私は口にする。その当たり前の響きが、不可思議に感じられる。

「いまも信じられません。あんな大冒険をしたあなたが、一〇〇年も昔の人だなんて」

 思い描くベルはいつだって、子どもの姿であるのだから。

「私は……リリは覚えています。一日だって忘れたことはありませんでした。だってあれは夢や幻ではなく、現実に起こった出来事でしたもの」

 一緒に旅したベルであり、ミカなのだから。

「ねえベル、あなたはすごいですね。あそこをもどってからもずっと、戦い続けていたんですね」

 声が聞こえた。風に乗って。だってギコが、だってフサが。泣いて、怒って、のびのびと感情を顕にする、そんな声が。

「本当はね、もっと早く会いに来るつもりだったんです。あなたがあれからどうなったか、心配、だったから。でも……」

 先生を呼びに来た女の子の愛らしい声が。他にも響き渡る、何人もの声が。

「……でも、そんな心配、いらなかったかな」

 かつて彼が生まれ、育ち、暮らした屋敷から。

「お前のせいでずいぶんやきもきさせられたんだからな、ばかこら! ……なーんて」

 それらの声に、私は耳を済ませた。彼が興し、彼が育んだ声。彼の残した誰かの幸せ。それは紛れもなく素晴らしいことで、彼は紛れもなく生きていて、その意思は紛れもなく受け継がれていて。でも……。

 屋敷から響く声を聞いて、聞いて――自分の声を出すまでに、ずいぶんと長い時間がかかった。かすれる声を震わせて、墓石の彼に、私は尋ねる。

「ねえベル。あなたは願いを――あなたが望んだ本当の願いを叶えられたのですか?」

 ――墓石は、やはり応えることはなく。

「私……私もね、私なりにがんばったんです。がんばった、つもりです」

 あの後。セフィロトの旅を終え、現実に目を覚ました後。父の差し向けた警官隊によって私は無事に保護され、あの人は――私を誘拐し、ガフくんを殺したパトリックは捕まった。私は修道院に送られることもなく、咎められることもなかった。おそらくは父も、それどころではなかったのだと思う。あんなに取り乱した父を見たのは、初めてのことだったから。

 パトリックについての議論は法廷を越え、国家的ニュースとして取り沙汰された。それはこの裁判が、ある大きな争点を巡る論戦に発展していたから。その争点とは――この男を死刑にするべきか、否か。

 一〇〇年前の革命の反省からかこの国ではもう数十年もの間、死刑という罰を判決に用いては来なかった。法が人を殺めるということに、この国の司法は慎重になっていたのだ。けれどそれは死刑の廃止を、条文として死刑の廃止を明文化しているわけではない。悪質な犯罪に対する選択肢として、死刑という可能性は常に残されたままとされていた。

 身代金を目的とした児童誘拐、及び児童殺害。後に発覚した、三件の誘拐未遂。剣水晶勲章を授与された、元軍人が犯した罪。そのセンセーショナルなニュースは国中を駆け巡り、世論はむしろ死刑求刑論者の方が優勢であった。その船頭に立っていたのは他ならぬ父であり、父は署名活動を行うほど熱心に、パトリックの死刑を訴えた。秩序と安寧を維持するには、悪を排除する他にない――殺す他に、ないのだと。

 ――私の想いは、父とは違った。

「あの人のこと、赦せたわけじゃないんです。それはやっぱり、できなくて。でも、だけどでも……死なせてしまうのは、違うって。それは、させたく、ないって……」

 サディンのこと、ベルのこと。頭に浮かんだ、セフィロトでの光景。殺す他になかった時代。殺したい訳では、なかった人たち。彼らとの出会いを、その想いを、すべて咀嚼できたわけではない。けれども私は、とにかくそれらを無駄にしたくなかった。二人の痛みを、苦しみを――犠牲を無駄に、したくなかった。

 私は訴えた。彼を殺さないでくださいと。殺す以外の方法で罪を償わせてあげてくださいと。手当たり次第に、声を上げられるところすべてで声を上げて。あの広場で、紙芝居が開かれ、一〇〇年の昔には見世物としての処刑が行われていた、あの広場で。多くの人から罵倒され、父からも強く非難された。それでも私は訴え続けた。すると次第に、私の言葉に耳を傾けてくれる人が現れ始めた。

 初めはぱらぱらと数人の人が、次には支援すると舞台を用意してくれる人が、やがては地方紙に載り、全国紙にも取り上げられ、大々的に報道された。気づかぬうちに私は死刑廃止論者の旗手として、時の人となっていた。そしてパトリックは――無期懲役を言い渡された。

「それで私ね、いま、代議士なんて呼ばれてるんです。びっくりしてしまいますよね。自分でもそう思います。あんなに口下手で泣き虫だった私が先生なんて呼ばれる立場になるだなんて、あの頃からは絶対に、想像つきませんもの。でもね――」

 二〇年。セフィロトから目覚め、あの広場で初めて人の前に立った時から二〇年。人前に出ることに怯えていた私はいまや、それを自らの職務としている。政治家として、サディンやベルが願った世界を作り出そうと尽力してきた。

 もちろんそれは一筋縄ではいかない道のりだったけれど、幸いなことに理解者には恵まれた。こんな私を支援し、応援し、その背中を後押ししてくれる人を私は得た。だから私はこれで間違っていないと思っていた。これが私にできる、“白紙のキャンバスに色を塗る”方法であると、そう信じて。けれど――。

「パトリックがね、殺してしまったんです。仮出所中に、また、子どもを」

 奪われた人生を取り返したかった。逮捕されたパトリックは取り調べた刑事に向かって、そう供述したらしい。この発言は、この国に生きる人々すべての怒りを買った。二〇年の間に固まりかけていた死刑制度の廃止案は白紙に戻され、今度こそパトリックを殺すべきだと人々は沸き立った。

 彼らの怒りはパトリックだけに留まらず、当時の人々にも向けられた。即ち死刑に反対し、パトリックという悪魔を野に放つその片棒を担いだ人々へ。そしてその怒りは当然の帰結として、当時の世論を牽引したその火付け人に対しても向けられて。

 私、リリに対しても。

「責められるのはね、やっぱりつらいです。二〇年経っても私はやっぱり、弱虫なリリだから。だから、とても、つらい。つらくて、苦しい。でも、本当につらかったのは。何より心に来たのは――」

 目を閉じると、思い出す。その人は、怒ってはいなかった。泣いてすらいなかった。ただ無表情に、あらゆる感情が抜け落ちてしまったかのように、ぼうっとした顔で私を見ていた。ぼうっとした顔でその人は、責めるでもなく、咎めるでもなくその人は――殺された男の子のお母さんは、ただただ私に問いかけてきた。

 ――なぜあの男を処刑台に送ってくださらなかったのですか。

「……私ね、判らなくなってしまったんです。本当にこれで良かったのか。私がしてきたこと、正しかったのか。もしかしたら、もしかしたらだけど私――」

 私は何も答えられなかった。かつてのように。二〇年前の、叱る父の前でなにを言うこともできずに泣きじゃくっていた子どもの頃のように。私は何も、答えられなかった。私には、私には彼女の問いに応えるだけの確信が、答えが――。

「私、間違っちゃったのかなあって……」

 なかった。

「……ごめんなさい、暗い話をしてしまって。大丈夫です。私、がんばりますから。最後まで、がんばりますから」

 立ち上がる。がんばるために。何をかは判らない。でも、そうする。そうしなければ、ならないから。みんなのために、そうしなければ。

 償う、ためにも。

「話を聞いてくれてありがとう、ベル。また、来ますね」

 そう言ってからもしばらく私は、ベルの墓の前で立ち尽くしていた。差し込んでいた陽光はすでに朱に染まり、地平の彼方へいまにも落ちんとしている。風が吹いた。葉々のそよぎが、墓に刻まれたレリーフに朱の色を落とした。私はそこから目を逸らすようにして、ベルの墓に背を向ける。そして一歩、一歩、歩を進める。明日がもう、そこまで迫っているのを感じながら。私は一人で、行く――はずだった。

 何かの割れる、音が聞こえた。

 振り返る。ベルの墓。変わらずそこに、鎮座した。――いや、違和感があった。何かが違っていた。墓の一部が、一点が、先程までと違っていた。

 朱に染まったレリーフ。墓に刻まれた樹環。その中心が、割れていた。縦に走った亀裂。それは小さな、塵のように小さな小さな亀裂であったけれど、私はそこから目を離せなかった。

 まさか――まさか、まさか。

 頭に浮かぶ想像を否定しながら、けれども身体は動いていた。私は再びベルの墓の前に立ち、彼の墓へと、刻まれたレリーフへと、樹環のその中心へと指を伸ばしていた。混乱する頭を他所に、静かに、けれど確かな意思でその場所へと向かい、そして私はその亀裂に――極彩色のその場所に、触れた。

 光が、視界を覆った――。

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