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「強くて、弱くて、優しくて、怖がりな、いまここを生きる、罪深いあなたへ――」

 バチカルのアイアテス・リリ・オーンズ。享年八二歳。その生涯は決して、恵まれたものとは言えなかった。

 第二パトリック事件の後、求心力を失った彼女は落選、政界での立ち位置を失うも慈善家としての活動を始める。それは急進する資本主義社会の煽りを食らって生活に困窮する人々を支援するためのものだったが、しかし時代は激動の世紀。帝国主義の限界を露呈した至上二度目の世界大戦に、東西を二分した冷戦が連続して起こる時代。後ろ盾を持たない彼女の活動はすぐにも頓挫することとなる。

「もしかしたらあなたはいま、失意の底にいるのかもしれません。自らの弱さを憎み、自らの犯した罪を悔いているのかもしれません」

 それでも彼女は私財をなげうち、自らの活動を推進させた。脇目を振らず、身を削って。そうした彼女の活動に対する理解者はむしろ少数であり、余りにも理想主義的であるとして批判に晒されることも少なくはなかった。彼女の庇護対象に前科者が含まれていたことも、そうした世論に拍車を掛けた。

「人から離れ、暗闇に閉じこもり、たった一人で自らを責めているのかもしれません。自分には助けを求める資格などないと、そう信じ込んで」

 それらの批判に、彼女は反論しなかった。反論も、自身を正当化することもなかった。彼女は生前、こう語っていた。自分は多くの間違いを犯している。けれど間違いでない何かも行っている。それは私には判らない。だからあなたに、みなさんに、受け取ってほしい。次代に残すべき何かを、みなさんに見つけ出して欲しい。そのように、彼女は語っていた。

「私には、あなたの罪を肩代わりすることはできない。あなたの悩みを解決し、あなたの代わりを生きることはできない。……けれど、あなたの声を聞くことならできる。その手を握ることなら、できる」

 そうして彼女はその死の時まで、歩みを止めることをしなかった。名誉や名声とは無縁のままに、彼女は息を引き取った。しかし、それから二〇年後。冷戦が終結し、国家と国家、人と人との融和が国際社会における課題とされる時代。彼女の思想や行いが、表舞台に取り沙汰される。

「一人で苦しみ、一人であることに苦しむあなたを、一人にさせないことならできる。泣き虫で臆病で、逃げてばかりだった私だけれど、そうできるだけの社会を、実現したいと思うから。実現して、みせるから。だから、だから――」

 彼女の構築したシステムを取り入れそれは、超国家主義的な機能を持って国際的に運用されていった。時と共にそれは生物のようにその形を変化させ、あるいは彼女の想定とは異なる姿へと変じていたかもしれない。それでも彼女の言葉は理念の一部として書き残され、揺らぐことのない憲章の一文として語り継がれた。彼女のその、呼び名と共に。

「だからどうか、過去から未来へつながるあなたに――」

 結び重なる二つの樹環。肌見放さず身につけていた、生前の彼女を象徴するバッジの絵柄。人を孤独から救い、守り続けたハインリッヒ・リリ・オーンズ。人は彼女を、こう呼んだ。

「“助けて”と言えるだけの、勇気を――!」

 ラトヴイームの守り手と――――。

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