יא

「長い、本当に長い旅をしてきました」

 音のない波。揺らぐ表に飛沫を上げて、小舟が白い線を描く。

「星の飛沫の流れしアッシャーにも行きました。幾何対黄金のイェツィラにも。果てなき東のクリフォトも旅したんです」

 ミカと一緒に空想した、使徒王さまが旅した場所。星の川、対の世界、そして悪徳の――己と向き合う、クリフォトの地。誰の心にも潜在する、知恵<善悪>なる罪を映し出す。

「一人ではとても越えられない旅でした。アドナが、叡智の蛇が、“ベル”が――それにリリがいなければ、ここへ来ることは叶いませんでした。……それに、もう一人」

 そのクリフォトを越えたこの場所を、ぼくは知らない。おとぎ話にも、伝記にも記載のなかった不明の場所。

「蛇の中を落ちるぼくに、誰かが呼びかけてくれたんです。あの声がなければ、いまのぼくはありません」

 不明の場所で、渡し守が櫂を漕ぐ。

「あれは、父さんですよね」

 渡し守は答えない。それでもぼくは、話を続ける。

「みんなのおかげで鋭利に尖った最果てへの道を通ることができたのです。西の果てのセフィロトの、その果ての最果てにまで。けれど――」

 かつて恐れたその人へ。

「けれどそれでもぼくの願いは、いまも叶わぬままなのです」

 かつて尊じた、その人へ。

「父さん」

 その死のときまで聞くことのできなかった問いを、我が父へ。

「どうして母さんの首を刎ねたのですか」

 確認することが恐ろしく、目を背け続けたその問いを。確認するまでもなく、判りきっていたその答えを。

「ぼくを、死なせないためですよね」

 母は、罪を犯した。それが何の罪かは判らない。それは斬首に値する罪で、けれどもそれは、多分な猶予を与えられた罪でもあった。逃げようと思えば、逃げられたはずだった。父と母、二人だけであれば。しかし、二人の間には子どもがいた。まだまだ幼い、ようやく歩き始めたばかりの子どもが。一粒種の息子であるこのぼく、ベルが。

 ぼくを捨てて二人で逃げるか。母の処刑を断り、家族三人首を落とすか。あるいは――。そうしてぼくは生き残り、母は、父の手に掛かって、死んだ。

「……父さんは、無口ですね」

 ぼくは父が恐ろしかった。父がぼくをどう思っているのか、憎んでいるのか、疎んでいるのか、それすらも判らなくて。父は何も言わなかったから。だからぼくはいつも、父に怯えていた。父と向き合うことを、避けていた。でも。

「ぼくは……ぼくは、話すのが好きです。話すのが、好きになりました。だってそれは、相手がいなきゃできないことだから。相手がいることは、幸せだから。彼がそれを、教えてくれたから……。だから……だからぼくは、願いを叶えないといけないんです。……いえ。叶え、たいんです」

 いまだからこそ、思う。もしかしたら、逆だったのかも知れないと。ぼくの痛みが友人を苦しめているとは知らなかったように。もしかしたら父の方こそ、ぼくのことを――。

「約束の、願いを」

「ベル」

 小舟を中心に、波紋が立つ。

「どこへ行きたい」

 どこへ行きたい。いつかも聞かれた、父の問い。てのひらに視線を落とす。指を見る。いまは確かに存在する、喪われていた右の小指。小指に嵌めた、ラトヴイームの誓いの指環。かさかさとした、樹の感触。口を閉じ、何を答えることもできなかったあの時。答えがなかったわけではなかった。答え<願い>はもう、決まっていたのだ。あの時から、変わらずに。

 ぼくは、答えた。

「ミカに、会いたい」

 小舟が、音一つない表の上で静止した。

「――お前の母を、殺めた時」

 その中でその声が、父の声だけが、世界を渡る。

「お前の母に会いたいと、私は願った。だがそれが赦されるはずのない願いであると、私はそうも理解していた。故に私は職務に殉じた。神の代理人である王に従い、王の剣として国家への奉仕に心血を注いだ。我が王の首を自ら刎ねた、あの時でさえも」

 初めてかも、しれなかった。父の声を、こうして聞くのは。父とこうして、相対するのは。

「私は処刑具だった。父にそう教わったように。父が父の父にそう教わってきたように。故に私も、同じ道をお前に教えた。お前をここへ連れてきたのは、他ならぬ私であるのだから。だが……私の道は、ここで途切れている。この先を、願う者の道を、私は知らない。だから――」

 父がこうして、ぼくを見るのは。

「ここから先は、お前の道だ」

 ぼくの前へと差し出された櫂。使い古され、いまにも折れてしまいそうな。それをぼくは、受け取った。直後――父の身体が、炎に燃えた。白く、眩く、輝くような炎に。燃える父が、口を開いた。けれども父は何も言わず、口を閉じ、まぶたを閉じて、焼かれるままに身を任せた。そして――そうして、父の姿は、そこから消えた。

 父は、何も言わなかった。最後まで父は、無口であった。

 父の立っていた場所に、立つ。父の立っていた場所で、櫂を表に突き入れる。そしてぼくは、漕ぎ出した。西の果ての、その果て先へと。父の先へと、漕ぎ出した――。

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