י

 堕ちる。蛇の内側を、ぼくは堕ちる。炎に包まれ、半ば消失したままに、この永遠をぼくは堕ち続ける。四方で無数に降り注ぐ、ぼくの落とした生首たちと共に。女性の顔の、生首と共に。

 女性。女性の面。女性の面が並んでいる。おびただしい数の女性の面が、生首となって降り注ぐ。天より注ぎ、等の速度でぼくを囲う生首たち。生首たちが、ぼくを見る。同じ顔でぼくを見る。死した骸の生首が、それでもぼくを視線で詰る。万の言葉に等しき遺志で、ぼくの肺腑を切り裂き刻む。

 ――母の相貌。ぼくの犯した、原初の罪咎。

 リリの言葉。リリの言葉が、頭を巡る。涙とともに訴えた、彼女の想いが頭を揺らす。彼女は言っていた。ぼくの考えもしないことを言っていた。それはとても、とても大事なことのように思えた。いまここを生きるぼくにとって、何よりも見つめ直さなければならないことであると――。

 けれど、ぼくはすでに燃えている。呑み込む蛇と同化しかけ、朦朧とする自己は無量の断片へと砕かれ割られ。ぼくはぼくを、失い忘れ――。

「そうだ、それでいいのだ」

「それだけがお前の願いだ」

 ぼくを取り込み、彼らがいう。

「お前は再び生まれ変わり」

「お前は再び地獄を彷徨う」

 ぼくの中の、彼らがいう。

「幾度も幾度も友を殺して」

「幾度も幾度も友を模倣し」

 ぼくの行いを、物語る。

「己に己の罪を暴かれ」

「己を仇する罰に溺れる」

 ぼくの心を、代弁する。

「不変に留まる罰への堕落が」

「安楽伴う自己懲罰が」

 ぼくの――願いを。

「お前の願った」

「お前の願い」

 ……ぼくは、いった。

 堕ち続けて、いいのかな。

「いいんだよ」

「いいんだよ」

 ……ああ、そうか。ようやく判った、君たちの正体が。君たちがなぜ、ぼくを苦しめてきたのか。そうか、そうか、そういうことか。だったらぼくに、君たちに逆らう理由はない。だって君たちは――ぼくの心の、鏡なのだから。

 火が、全身を包んだ。目をつむる。まぶたの裏の赫灼。開いた時にはぼくはぼくを忘却し、彼の――ミカの真似事をしていることだろう。何も知らぬ無垢なる一人となりて、そうして、また、苦しみの旅へ――。


 本当に、それでよいのか。


 目を開いた。蛇の腑の裡、焔の赤。

 いまにも消え失せそうな我が身――の前に、落ちるもの。

 刃が。回って、浮いていた。これは――。

 リリの、ナイフ。

 本当の、願いを――!

 聞こえた、それ。リリの声。リリの声に、己が呼び覚まされる。彼女の言葉が、彼女の想いが自身の裡を駆け巡る。彼女が何を言おうとしたか、ぼくに何を訴えたのか、それらが瞬時に浸透する。

 そして、確信した。自分に足りなかったものは、幾度も繰り返してきたぼくの旅に足りなかったものは、これであったのだと。彼女のナイフ――彼女との出会いが、足りていなかったのだと。これが最後の、鍵なのだと。回る剣に、手を伸ばす。

「ひとつの願いは」

「反する願いを焼き殺す」

 伸びかけた手が、止まった。

「それを手にしてしまえば」

「お前は罪業の安らぎを失うだろう」

「そしてその先にあるのは」

「逃れ得ぬ苦しみ」

「生という名の」

「地獄」

「それでもお前は」

「己を焦がす剣を拾うか」

 落ち行く母の首と共に、二人の道化がぼくを見る。白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。涙を模した三角マークと、二股に分かれたジェスターハット。おどけた姿の道化師たちは、嘲る様子はまるでなく。

「ぼくは――」

 固く真剣に、ぼくを見て。

「ぼくはずっと、勘違いしていた」

 それを見て、ぼくは余計に確信する。

「彼が悲しいとぼくも悲しい。彼が苦しいとぼくも苦しい。ぼくはそれを知っていた。だから彼には幸せでいてほしかった。彼が幸せであることが、ぼくにとっても幸せだった。彼の安らぎになれることが、ぼくにとっての歓びだった。でも――」

 かつてぼくを憎んだ彼ら。

「ぼくが悲しいことが、ぼくが苦しいことが彼を苦しめていただなんて――彼を不幸せにしていただなんてそんなこと、ぼくは一度も考えたことはなかった」

 ぼくを憎んだ彼らの似姿。

「ぼくは多くの人の生命を奪った。赦されないことをした。だから償い続けるしか、苦しむしかないと思っていた。唯一それが、ぼくにできることなんだって。でも、でも、ぼくが本当に大切な人を想うのであれば――」

 ぼくを罰する、敵意の象徴。

「ぼく自身が幸せにならなければならなかったんだ」

 セフィロトに写した、罰を求める心の反映。

「そのためにぼくは――」

 二つの願いの、裡の一つの。

「本当の願いを、取り戻さなければならない」

 それを、いま、捨てる。

 ナイフを、取った。リリのナイフを。リリのナイフが、ぼくのまとう炎を吸い込む。螺旋を描き、回る炎の剣となりて、小指なきぼくのてのひらへと収まった。それを、ぼくは、挿す。何もない、目の前の空間に向かって。空間が割れる。割れた空間を、切り開く。縦に大きく、大きく、大きく。

 役目を終えた炎の剣が、塵となって消えていく。後に残るは、開いた空間。その内側へ、ぼくは両手を差し込んだ。そこにあるものを、そこにあると確信しているものを取り戻すために。――本当の願いを、思い出すために。

「言っただろう、私はいると」

 遠きその場の、それをつかんだ。それを、引きずり出す。長い、長い、長い、道のりを。ずっと、ずっと、ずっと、共に在り続けた、“友人”を。彷徨うぼくと同じ顔をした、導き続けたぼく自身を。

「ずっと側に。お前の最も近い場所に」

 ベルベルと呼んだ生首。生きるべきはミカであり、首を落とされるべきはベルであるというぼくの幻想を投影した対象――“切り落としたぼくの小指”。“指環を嵌めた、願いそのもの”。

「……ごめん、遅くなった」

「謝る相手は、私ではない」

「うん……そうだね。でも、言わせて。君にも――叡智の蛇の、二人にも」

 抱きしめた“ベル<契りを結んだ小指>”を中心に、世界の光景が変わっていく。蛇を構成する影が消え去り、外の世界が現れていく。

「ここまで導いてくれて、ありがとう」

 道化師たちが、薄れていた。曖昧にぼやけたその姿はぼくが投影した元のイメージとはかけ離れ、ぼく自身であるようにも、セフィロトに元々存在する何かのようにも見える。その何かが、雑音混じりに語りかけた。

「忘れるな、罪悪感はいつでもお前の背後にいると」

「我らが消え去ることはなく、終生背負い続けると」

「うん、判ってる」

「ならば」

「よい」

「ベル」

 胸の内の、ぼくがつぶやく。ぼくであってぼくでない、本来の姿にもどりつつあるぼくの一部が。共に旅した時と同じく、変わらぬトーンで、こういった。

「――約束を、どうか」

「……うん!」

 そして遂にぼくたちは、一人のベルへ統合し――。

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