ט

 ダメだ!


 白紙のキャンバスをくぐった先で、オレは然とそれを見た。人生を。つらく、悲しく、余りにも残酷な苦しみに満ちた人生をオレは――“オレと私”は、共に見た。オレの想像など及びもしない、私では表現することも敵わない痛ましきその人生を、オレと私は見続けた。

 ミカの――ベルの生きた時代を。

「……リリ? どうしてこんなところにいるの?」

 オレはいま、立っている。鉄柵の門を越え、オレの時代とは異なる広場にオレは立っている。山のように折り重なった生首の死骸が、首の道が連なる場所<ベルの世界>に、オレは立っている。

「ダメだよ、時間がないんだ。こんなところにいちゃあ、ダメだ」

 壇上のベルが力なさげに声を出す。その身体はもはや切り落とした首の影の群れと同化しかけ、彼を彼たらしめるものも曖昧に、それらをまとめて炎に包まれようとしている。だのにベルはそんななりで、心からの心配を投げかけてくる。

「そうだ、ぼくが助けてあげるから。だから心配しないで。君のことだけでも、助けるから――」

「ばかこらぁ!!」

 足を、踏み出した。

「オレがお前に頼んだか。ここから出してと一度でも頼んだか」

 足元に、罪悪の感触が広がる。彼の感じてきたそれの、万分の一の感触が。

「なんでお前はそうなんだよ、助ける助ける助けるって、他人のことばっかりで」

 こんなものには耐えられない。人が耐えられる痛みじゃない。

「まずは自分を見てくれよ。自分がどれだけぼろぼろなのかちゃんと知ってくれよ!」

 一人では。

「だってお前、傷だらけなんだぞ。全身どこも、傷だからなんだぞ!」

 だから、言うんだ。

「そんなの、見てられるわけないじゃないか……お前を見ているとオレは……」

 言えなかったことを。

「だからオレは、オレは――」

 言わなければならなかったことを。

「オレは……オレは、オレは、オレはぁ――!」

 勇気を。

「助けてほしいさ!」

 絞れ。

「そうだ、助けてほしい! オレは助けてほしい! オレはオレだけじゃ生きられない! オレ一人じゃなんにもできない! サディンとの! ガフくんとの約束を叶えられない! あんたの! 手を! 借りなきゃ! オレは! 幸せに! なれない! でも! でも! でも!! それは!! こんなやり方でじゃ!! ない!!!!」

 涙が溢れる。涙に滲む。止めるな。否定するな。これもオレだ――これも私だ。オレが私を、否定するな――!

「友達が苦しんで……誰が喜ぶんだよぉ……!」

 手を伸ばす。ベルに。罪悪の炎に包まれるベルに。

「ちゃんと考えてくれよ、お前のミカがほんとは何を思っていたのか――」

 泥の中へと埋められたベルに。

「お前のミカが、どうしてお前に手を差し出したのか――」

 ミカを求めるベルに。

「どうしてお前を、見つけたか――!」

 ……ベルが、手を――。

「そうは」

「いかない」

 影が、生首が、一斉に集まった。ベルを中心として。ベルが呑まれる。ベルが隠される。うねる波の勢いに弾き飛ばされ、ベルの側から離される。その間も影は、首は、ひとつに集い、巨大な一個を形成し、やがてそれは確かな姿に、鱗持つ生命の形へと変じた。それは、蛇の、姿をしていた。

 ベルが蛇に、呑み込まれた。

「返せ、ベルを返せよ!」

 蛇に向かって走っていった。全力で、不安も恐れも振り切って。けれどどういうわけか、蛇のところへ辿り着けない。走れども走れども蛇との距離は縮まらず、視界の中の蛇の姿は全身を捉えた巨躯のまま。

「オレらの願いは、こいつの願い」

「願いのために、オレらは在る」

 瞳が光る。蛇の瞳が。緑の瞳のその中に、小さく人の、姿が見えた。左右の瞳のそれぞれに、見知ったピエロの首が在る。ピエロが動くその度に、蛇の口から声が轟く。

「オレらは呑み込み留める者。故に願いに留まらせる」

「オレらは識らしめ拓く者。故にお前に識らしめよう」

「なにを――」

 と、言いかけたオレの身体に異変が起こった。それは足元から始まった。火。炎。始まりの場所で聞かされた、七日を限りとしたセフィロトの壁。あのおっさんを、サディンを焼いた、焼いた後に再生し、再び繰り返すことを強要する、あの。それが、いま、オレの身にも。

 ……だが、しかし。その炎はけれど、どこか様子がおかしく。

「おめでとう、お前は願いの枷から解放された」

「おめでとう、お前はセフィロトから解放された」

 炎は、赤くなかった。赤ではなく白く、白色に発光していた。光り輝いていた。その火はオレを焼きながらも一切の熱を感じさせず、むしろ暖かな安らぎをすら感じさせる。「どういうことだ」と問うより前に、オレは答えに思い至った。

 オレの願い、ここへ来た願い――私を殺すという、あの願い。オレはもう、あの願いに拘泥してはいなかった。ベルが、ミカが、サディンが――サディンが聞かせてくれたあの声が、オレに教えてくれたから。私でいいと、教えてくれたから。でも――。

「炎の導にお前は目覚め、お前の現世にもどるだろう」

「願いの墓場のセフィロトを、二度とは訪れもしないだろう」

 でも、いまじゃない。まだ早い。まだ消える訳にはいかない。だってまだ、ベルがいまもそのままなんだ。このままではこれからも、ベルが繰り返してしまうんだ。あの地獄の体験を。あの苦しみの人生を。そんなことオレは、オレには――。

 炎が巡る。オレを祝福する白い炎が。それは留まることを知らず、とぐろを巻いてオレの身体を昇っていく。足も、胴も、肩までも、すでにオレの身体は消えかけている。

「さらばだ此方の惑い人、お前にとっての善き再誕を」

「さらばだ彼方の惑い人、お前にとっての善き終焉を」

 もはや音も光もなくなって。蛇の声も居場所も感じることはできなくて。だから、もう、他にはなかった。意識と無意識の狭間でオレは、やぶれかぶれに“それ”を投げた。届け、届けと祈りを込めて。届け、届けと想いを込めて――。

 そしてオレが、焼失する。

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