ו

 ぼくは人間じゃない。

 ぼくを見た人の反応は、大別して三つに分かれる。嫌悪を顕とするか、過剰なまでに怯えるか、自分を進歩的人間であるとアピールするための道具として扱うか。表れる態度にいくらかの差異があるとはいえ、根っこのところで彼らの意識は共通していたと言える。それはぼくのことを、同類と見なしていないという視点。別の何かと捉えている点について、彼らの意識は共通しているといえた。そしてそれは、余りにも正しい見方だった。

 ぼくは、不浄の存在だった。不浄の存在であることを、生まれてすぐに刻まれた。目元から顎にかけて、片頬に引かれた三本線。赤三本の入れ墨。それは、ぼくの身分を表すもの。いずれは処刑人となることを定められた、処刑人の子であることを表す印。そう、ぼくはいずれ処刑人になる存在。それがすべて。ぼくという――ベルという人間未満の生き物における、すべて。

 間違っていると思ったことはなかった。ぼくが処刑人の子として生まれたことも、みんながぼくを穢れたものとして見ることも。事実としてぼくは、穢れていたのだから。おそらくは生まれ出るよりもずっと前、魂が形作られたその時からすでに、もう。だから彼らの罵倒や投石も、甘んじて受け入れるべきだと思った。先に彼らを攻撃したのは、彼らの視界に入ったぼくの方なのだから。加害者はいつだって、ぼくの方であるのだから。

 ただ、みんなを不快にしてしまうことは忍びなかった。ぼくと関わった者は穢れ、不幸になってしまうと、ぼく自身がそう信じていた。だからぼくは、可能な限り誰とも関わらないようにしていた。誰にも迷惑をかけずに、ひっそりと穴蔵の奥に閉じこもる。それがぼくにできる、人間未満であるぼくにできる唯一の社会奉仕であると、ぼくはそう信じていた。

 それがずっと続くと思っていた。父と同じように処刑人となり、蔑まれ、憎まれ、恐れられながら命を奪って穢れ続けていくのだと、その生が終演を迎えるその時まで穢れ続けていくだけだと、それが、それだけがぼくの人生であると、ぼくはそう思っていた。

 彼と出会う、その時までは。


「はは、どうです! おもしろいでしょう!」

 振るわれた鞭が、道化の顔を強か打った。白塗りのメイクを施されたその顔が痛みに歪む。しかし歪んだのは、鞭を打たれた道化ではなかった。同じ格好に同じメイクの、同じ顔をした道化。痛みに息を吐いたのは、打たれた方とは別の道化だった。エティエンヌ卿が、道化を再び打った。やはり道化は、打たれたのとは異なる方が痛みに呻いた。

 道化は二人いた。二人でありながら、一つだった。一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。同じ顔をした双子のピエロ。鞭で打たれる彼らを、貴族たちが囲み見る。好事家として有名なエティエンヌ卿が、新たに手に入れた奇妙なおもちゃを。ある者は眉をひそめて、ある者は好奇に口を歪ませて、誰一人としてそれを止めることはしないまま、打たれるピエロを観察していた。

 ぼくも、そうだった。ぼくも、それに父も。エティエンヌ卿が主催したパーティに招かれたぼくらは、断ることもできないままにこの場へ赴き、こうして彼のお披露目会に出席させられている。周りの貴族たちはもちろんのこと、ぼくたちの来訪を歓迎してはくれなかった。嫌悪と好奇の視線を隠さず、ひそひそと当てつけるような言葉をささやきあっていた。

 おそらくはこれも、エティエンヌ卿の企みのひとつなのだろう。王に仕える処刑人であるぼくらを所有することなど、子爵であるエティエンヌ卿には叶わない。自分のものとして披露することはできない。けれど主催するパーティに呼びつけ、我が物のように見せつけることならば、可能だ。エティエンヌ卿はぼくたちも数に含めた上で、悪趣味な余興を開きたかったのだ。

 つまりいま、ぼくたちは同じなのだと言えた。ぼくと、あの、道化師たちとは。ぼくと同じく、人間未満の扱いを受けている彼らと。でも、だから、なんだというのか。ぼくには何もできなかった。鞭で打たれる彼らに対し、人間未満のぼくには、なにも。ピエロの二人と、目があった。ぼくは……目を逸らした。

 会場が、にわかにざわめき出した。

「おお、これは公爵閣下! まさかお出で下さるとは!」

 百万都市の。王系傍流の。ラトヴイームの。貴族たちのささやき声が聞こえてくる。そのささやき声の中心をすらりと背の高い、けれどどこか顔色の悪い男性と――その男性と同じように身なりの良い衣装をまとった少年が、並んで歩いていく。

 ささやく貴族の壁を割るようにして歩き、ぼくの前を通り過ぎようとした、その時。少年の方が、ぼくの存在に気がついた。こちらに気づいた彼は――にこっと、ぼくに、微笑んだ。これまで見たことのないような、自然な笑みで。よく判らない感情が走った。無意識に頬の赤線を、てのひらで隠そうとしていた。

「ご子息も遊んでみますかな?」

 エティエンヌ卿が少年に、自身で振るったその鞭を差し出す。少年はその鞭を受け取り、二人で一つのピエロに向かう。ピエロたちが、怯えるように後ずさる。後ずさるピエロの前まで、少年が赴く。そして少年は――鞭を置き、ピエロたちを抱きしめた。

「痛かったね、怖かったね」

 二人のピエロは呆気にとられた顔をしていた。そしてそれはピエロたちだけでなく、ここにいる誰もが同じように。ただその少年と、おそらくはその少年の父である公爵閣下を除いて。少年が、抱きしめるのをやめてピエロから離れた。

「エティエンヌ卿、どうしてこんなひどいことをなさるのですか?」

 その声には、問い詰めるような響きはなかった。純粋に、ただ純粋に、判らないものへ問いかけているといった、そんな風情で。しかし問いかけられたエティエンヌ卿は見るからに狼狽えた様子で、きょろきょろと視線をあちらこちらへと向けている。

「大人になれば理解できますよ、小さな紳士」

「そうでしょうか。ぼくにはそうは思えませんが」

「であればあなたは、大人になれますまい」

 もういいでしょうと、エティエンヌ卿が手を叩いた。彼の使用人たちが命令に従い山のような料理を次々運び出し、入れ替わるようにしてピエロたちが広場から引っ込められていった。エティエンヌ卿が場の注目を集めるように、掲げた両手を打ち鳴らす。

「さあみなさま、余興は終いです。後は思い思いに!」

 そこから、特に代わり映えのしない、極々当たり前のパーティへと切り替わった。それはつまり、ぼくたちがいる理由もなくなったということ。父もそれは理解していた。名を呼ばれたぼくは、小さく「はい」と返事する。ここにいても、良いことはなにもない。ぼくにとっても、みんなにとっても。だからぼくは足早な父に続き、足早にこの場から出ていこうとした。

「待って」

 まだ声変わり前の子どもの声が、ぼくを呼び止めた。振り返る。そこには、さっきの少年がいた。ピエロたちを抱きしめ、まるで……まるで人間のように労っていた、あの。

「君は?」

 少年が尋ねてくる。真っすぐな瞳を――星のようにきらきらと輝く瞳をこちらに向けて。ぼくは――父を見上げた。何も言わず、ただ、そうした。父も何も言わず、ただ、小さく、うなずいた。

「……ベル、です。閣下」

「閣下だなんて」

 そう言って、少年は破顔する。そしてそれから、それから少年は信じられないことに、ぼくの前へと手を差し出してきた。まるで握手を、求めているかのように。

「ボクはミカエラート、家族からはミカと呼びれています。よろしくね、ベルくん」

 瞳が、ぼくを見る。星のような瞳が。差し出された手が、もどらない。引っ込まない。握手。本当に、そうなのだろうか。そんな求めを、これまで受けたことはなかった。本当に、ぼくが、それをするのか。

 頬に、触れていた。片頬に。赤三本の、処刑人であることを証明するその線に。しばらく、ぼくは、そうしていた。けれど――ミカと名乗ったその少年は、微笑んだままにぼくを見ていて。

 手を、握った。人の、体温。人間の。久しく感じることもなかった。それが、ぎゅうっと、強まった。「よろしくね」と、ミカが再び繰り返した。ぼくは小さく、「はい」と返した。じわりと広がる熱を感じながら、ぼくは彼と、握手した。


「もーいーかい!」

 戸惑っていた。ぼくは戸惑っていた。ミカエラートの――ミカの行動に、ぼくは困惑していた。木々の影に身を隠していたぼくを発見した彼が、「みーつけた!」とぼくに触れる。「次はベルくんの番だよ」と言って彼は、木々の間を走っていく。ぼくは言われた通り手頃な木へと頭を伏せて、遅めのリズムでカウントする。いーち、にーい、さーん……十まで数え終え、そしてぼくは、どもりながらも声を上げた。「もーいーかい」。

 コンタクトを取ってきたのは、ミカの方からだった。エティエンヌ卿のパーティで見た時とは異なる平民の子のような動きやすそうな格好をしてきた彼は、ある日とつぜんぼくの家へと訪ねてきた。ぼくの、そして父の家は街外れの森林の中へと人目から隠れるように建てられており、来客などは滅多になく、況やぼくへの客だなんてこれが初めてのことだった。

「ベルくん、ボクと遊んでくれませんか?」

 彼の真意が判らなかった。身分の違う彼の命令に逆らえるはずもなく、ぼくは彼の“お遊び”に付き合った。付き合っているあいだ中ずっと、疑問が頭を支配していた。彼はぼくに、何を求めているのか。ぼくといることによって有益な何かが、彼にあるのだろうか。何もないわけはない。何もないのにぼくなんかを連れまわす理由など、あるわけがない。

 企みがあるならば、それでも構わなかった。使うだけ使って、捨ててくれればそれでよかった。利用する理由がなくなれば、いずれは離れていってくれる。そう考えれば、安心できた。けれど……けれど。彼の、瞳。きらきらと星のように輝く瞳。その瞳からは、僅かな裏も見て取れず。まっすぐぼくを、ぼくに付随する何かではなく、ぼく自身を見つめていて。

 だから、不安だった。彼がぼくに何を求めているのか判らなくて、不安だった。この関係が、この状況がいつまで続くものか判らなくて。判らないまま、不安なままに、ぼくは彼に従った。彼に従って、遊んでいた。何週間も、何ヶ月も、一緒になって遊んでいた。

 父は、余計なことを言わない人だった。あらゆる物事を黙々とこなし、自らの職務についても一切語ろうとしない。規律のために己を定め、それを遵守するために自らを動かしている。そのような印象を抱く、正確で、無比で、近寄ることの躊躇われる人だった。

 その父が、顔を腫らしていた。驚くべきことではなかった。ぼくたち親子が暴力の標的にされるのは、そう珍しい事でもなかったから。謂れなき――いや、“不快にさせてしまった”という謂れのある暴力によって負った傷だろうと、その時ぼくは、日常の一シーンとしてその出来事を処理しようとしていた。けれど、今回は、事情が違った。

「息子を使って公爵家に取り入ろうなどと」

 風の噂が耳に入った。父が怪我を負った理由。公衆の面前で侮辱され、家畜のように鞭打たれたその理由。それはすべて、ぼくの行いに責があったらしい。浅ましくもミカと同じ時を過ごしたぼくに。ぼくはぼくの行いによって、父を傷つけてしまった。迷惑を、かけてしまった。

 今回も、また。

「父さん、ぼく……」

 父と囲んだ静かな食卓。いつもは無言で食べ始め、無言で食べ終えるだけのその儀式の最中、ぼくはそう、切り出した。ぼくのせいで父さんに迷惑をかけてしまいました。申し訳有りません。これからはこのようなことがないようにします。彼に付き合うことも、もうやめます。申し訳有りませんでした、父さん。申し訳有りませんでした。

 ぼくはそう、確かにそう言うつもりだった。真実それは、本心だった。けれど、言えなかった。黙々と機械のように食事を口に運ぶ父を見ていると、それだけでぼくはもう、何も言えなくなってしまった。それでもぼくは謝ろうと、言葉にならない声で呻く。――すると父が、スプーンを置いた。

「いい」

 一言。静かに、しかしきっぱりとした口調で、父はそう言った。そしてそれ以上、父は何も言わなかった。傷のことについても、ぼくとミカのことについても、何も言わなかった。何も言わずにスプーンをつかみ直し、また機械のような食事を開始した。だからぼくも、それ以上何も言えなかった。ただ「はい」と小さく返事をし、後はいつもどおりの、無言。

 ぼくは人を不幸にする。

 ミカは不思議な少年だった。憎むでも、恐れるのでもなく、ましてや自分の価値を上げるためにぼくを使うのでもなく、そのどれでもない、ぼくの知らない動機を元に、ぼくと一緒にいようとしていた。きらきら輝く瞳を向けて、まっすぐぼくを見つめていた。

 彼は純粋だった。純粋で、一片の穢れもない、太陽の化身だった。数ヶ月ものあいだ一緒にいて、ぼくは確信した。彼には裏などない。企みなどない。彼はただ、彼なのだ。そう成ろうとしているのでもなく、そう偽るわけでもなく、ただただ彼は、彼なのだ。ミカという一個の存在として、ここにいるのだ。ここにいて――ぼく<ベル>の前に、現れるのだ。

 だからこそ。

「なぜ、ですか」

 だからこそ、このままにはしておけなかった。

「なぜ、ぼくなのですか」

 だからこそ、終わらせなければならなかった。

「あなたはなぜ、ぼくと、遊ぶのですか」

 だからこそ、ぼくは――。

「一目見た時にね、思ったんだ。君とならって。……ううん、違う。それも違うや」

 切り揃えられた前髪を左右に揺らして、ミカがいう。

「きっともっとね、もっともっと、もっともっと単純に――」

 いつものようにぼくを見て、いつものように微笑んで、当たり前のようにミカがいう。

「ボクはね、きっと、こう思ったんだよ」

 ミカという太陽が、ぼくにいう。

「君と友達になりたいって」

 友達。

 信じられないという思いと、やっぱりと得心する気持ち。かつて感じたことのないような胸の締め付けられる心地と、過去に感じた以上の足元がとつぜん喪われるような感覚。相反する感情が、瞬時にぼくのうちを駆け巡った。友達。ぼくが。ミカの――。

 ――ダメだ、そんなの。

 ダメだ、ダメだよ。君とぼくとは、まったく違う。身分も、生き方も、存在の次元もまるで違う。なにもかもが違うんだ。ぼくと一緒にいたらいつかは必ず、避けようのない迷惑が君にも及ぶ。不浄なぼくの落ちない穢れが、無垢な君にも移ってしまう。このまま君がぼくといたら、ぼくは、ぼくはきっと――。

 ぼくはきっと、君を不幸にしてしまう。

 彼の迷惑にはなりたくなかった。彼の不幸にだけはなりたくなかった。けれどもぼくは、それを告げるだけの勇気も言葉も持ち合わせてはいなかった。いなくならなければならないのに、どういなくなればいいのか判らなかった。だからぼくは、そのままの関係を続けた。森林の中を一緒に遊んで、一緒にかくれんぼをして――誰かに後頭部を、殴られた。

「不公平だ、お前だけが人間扱いされるだなんて」

 気づくと、土の中にいた。深く掘られた土の中。膝を抱えて縮こまって、土の中で座していた。土の上には、いつかの彼ら。一つの胴に二つの腕、二つの足に二つの頭。涙を湛えた白塗りメイクのピエロたち。身体中を傷だらけに、人間未満と打たれた彼ら。穢れたぼくと、同じように。

 土が降る。掘られた土の空間に、塊となった土が降り注ぐ。不快なぼくを覆い隠すように、光を遮り土が降る。

 必然だと思った。だって、彼らの言うとおりだ。ぼくは人間じゃない。人間でないものが人間扱いされるわけにはいかない。人間でないのだから。人間未満なのだから。人間でないものが人間と関わってはいけない。人間でないものが人間の中で生きていてはいけない。

 結論は、いつだって明快だった。生きているから、いけないんだ。生きているから、苦しいんだ。生きているから、嫌な思いをさせてしまうんだ。いなくなれば――死んでしまえば、すべては解消されるのだ。

 怖くはなかった。喪われていくこと、無くなっていくことに、恐ろしさはなかった。死ぬことは怖くなかった。怖かったのは、不快にさせてしまうこと、不幸にさせてしまうこと。ぼくはずっと、それだけが怖かった。なにも持たないぼくにできるせめてもの善行が、これ以上の迷惑をかけないことであると信じていたから。

 雨が降ってきた。土が濡れる。濡れた土が泥になる。泥となった土が、身体を覆う。身体を覆う土が、身体との境界を喪わせる。溶けた泥は僅かな隙間も生むことなく、包んだそれを侵食していく。泥と自分が一体化するような感覚を覚える。泥のように意識のないなにかに変じていくのを感じる。そして、これが死かと、理解する。そうか、これが、死、と。

 呼吸は止まり、鼓動も弱まっていた。父のことが、わずかに頭をよぎった。ぼくが死んで、父は何を思うだろうか。父の暮らしに、何か変わりはあるだろうか。想像できなかった。きっと父は変わらず正確で、無比で、機械のような生活を続けることだろう。ぼくがいなくなってもきっと、悲しみはしないだろう。そう思うと、心の安らぐのを感じた。

 涙がこぼれたのが判った。悲しくないのに、流れる涙。それは生物としての自己が振り絞りだした、最後の抵抗だったのかもしれない。生きたいなどと願う、浅ましい生物的本能の。あるいは、あるいはそう――彼を、ミカを巻き込む前に逝けることへの喜びか。あの太陽の輝きを、ぼくという人間未満によって穢さないで済んだことへの。

 ぼくのことなど、すぐに忘れてほしかった。この生命が尽きた瞬間に、まさにその瞬間に、ぼくの存在など頭の片隅にも残さず消し去ってもらいたかった。彼のこれからに、わずかな陰りも残しては欲しくなかった。それがぼくの、願いだった。止まった時で、抱いた願い。生命の時が、終わりを迎えようとしていた。何も見えない、何も感じない。これでいい。生まれて初めて垣間見る、死する静寂との邂逅。後にはもう、音もなく――。

 ――存在しないはずの音が、聞こえた。雨を伝わり、泥を伝わり、裡に抱えるその物体に、喪われた生命の振動を伝わらせた。泥が、土が、掻き出される音が聞こえた。まさか。そう思った。泥が、土が、掻き出される振動が伝わった。うそだ。そう思った。泥が、土が、掻き出される光が伝わった。そんなはずはない。だって、そんな。そんなことって。敷き詰められた地上との壁が、取り除かれた。そして、そして――そしてそこには、“ミカ”がいた。

 雨は、止んでいた。空には、陽が昇っていた。陽を背にして彼が、そこにいた。彼が、手を、差し伸べていた。出血し、指と爪との間に泥とも土ともつかない汚れが詰まったその手を彼は、微笑みながら、差し伸べてくれていた。

 どうしてなんだと、ぼくは思う。そんなにも汚れて、血まで流して、どうしてぼくのことなんか。こんなこと、ぼくは望んでいない。ぼくの願いは、君の幸せだ。君が君らしく生きることだ。だから、ダメだ、ダメなんだよ。ぼくは君を不幸にしてしまう。決まっているんだ、そういうものなんだ、逃れることはできないんだ、生まれることを自分で選べないように!

 ……それなのに、それなのに君は、どうして。涙がこぼれた。まだぼくの裡に残っていた涙が、こんなにも残っていたのかと思うほどのそれらが、これまで抑え込んできた分まで流れ出した。その涙が、ぼく自身に教えてくれた。ああぼくは、ぼくの中の彼は、こんなにも、こんなにも、大きく――。

 もーいーかい。

 ――君と友達になりたい。ミカはそう言っていた。なら、ぼくは? ぼくは、どう思っている。考えるまでもなかった。ぼくは、つぶやいていた。「いいの」とか細く、声にもならない微かな声で。微笑む彼が、こくんとうなずく。

 涙が更に、溢れ出した。滲む空、滲む太陽、滲む彼、滲む彼の、瞳。滲む世界の中にあって唯一確かなその瞳を、きらきらと星のように輝く彼の瞳をまっすぐ見つめ、ぼくはそうして、その手を取った。差し伸べられた手を取りぼくは、ぼくは彼を、彼のその名を、呼んだのだ。友達の名を、呼んだのだ。

 ミカという名を、呼んだのだ。

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