ג

「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ! お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」

 そう言って彼は、深緑の瓶を勢いよく煽った。口の端から茶色い液体を溢れ零して、それが顎から首に、首から服の襟にまで伝わっているけどもそんなこと、彼はまるで気にもしない様子で。やがて彼はその震える手で酒瓶をひっくり返し、口の側を空いた片手に押し付けたり、片目で底を覗き見たりしていたけども、とつぜん「クソ、クソ!」と悪態を吐きながらその酒瓶を壁に向かって投げつけた。

 割れ散ったガラス片が、私の顔にまで飛んでくる。猿ぐつわ越しに悲鳴を上げた私を、彼が睨んだ。

「い、い、いいか、動くなよ! にげ、逃げ出したら、逃げ出したら、ただじゃ済まさねえからな!」

 彼はそう言い、部屋を出ていく。扉の向こうからがちゃがちゃと鍵を掛けるのに手間取っている気配と、「おんぼろが」と苛立たしげに呻く彼の声が聞こえた。それも、やがて、途絶えた。声も音も、なくなった。私は――私はそれで、動かなかった。手も足も荒い縄に縛られ、椅子に固定された私に、動くことなどできなかった。

 いや、たぶん。たぶんそんなふうに拘束されていなかったとしても、私はたぶん動かなかった。声を殺し、息を潜めてじっとじっと、そこに留まり続けていただろう。だって私は、私だから。私はだって、こんなにも情けのない私なのだから――。


 あれから。ガフくんに秘密基地へと案内してもらったあの日から。私たちは多くの時間を共有してきた。紙芝居を見て、一緒においしいものを食べ歩いて、こんなふうにしたらどうかな、こういうのはどうかなって、ガフくんが絵を描くのを見守って、使徒王さまの紙芝居について意見を交換したりして。

「もしかしたらね、私、思うのだけど」

 こんな時間があるなんて、私は知らなかった。

「使徒王さまって、きっと、たくさんの、たくさんのお別れをしてきたんだよね? つらくて、悲しい、たくさんのお別れを」

 痛いも怖いも不安もない。こんな時間があるだなんて。

「だからね、使徒王さまはセフィロトにね、会いに行ったってこと……ないかな。大切な、その、誰かに」

 暖かくて、安らいで、幸福な――こんな、かけがえのない時間が。

「いまはもう会えない、大切な人に――」

 私はこの時間が、この幸せな時間がずっと続くと思っていた。ずっと続くといいなって、そう思っていた。ガフくんの隣で、そう思っていた。これからもずっとずっと、ずっとずぅっと、同じ時間を過ごすんだって。ガフくんと、私と、同じ時間を――。


「なんて、なんて浅ましいことをしてくれたんだお前は!!」

 お父様が帰ってこられた。すべてを理解し、そのすべてに目を血走らせるほどに激高した上で。私は私なりに自分の行いを隠してきたつもりだったけれど、それは所詮子供の浅知恵で、大人たちはみんな、私のことなんてお見通しのようだった。一人で紙芝居を見に行ったこと、外で買い食いしていたこと、男の子と二人で一緒にいたこと。それらは全部、私の知らない私を知る人達の目によって監視されていた。好奇と噂という名の檻の中で。

 お父様が何を許せず、何にお怒りになっているのか。それは判るようで判らなかった。けれど、重要なのは私の理解なんかじゃ決してない。お父様を怒らせてしまった。それがすべてで、それが、恐怖だった。私にとって神にも等しいお父様の怒りを買ってしまった。それが、すべてだった。

「お前は修道院に送る! 成人するまで帰ってこなくてよろしい!」

 あらゆる物事は私の手の届かない頭上で決定され、私は街を離れなければならなくなった。一度も着たことの洋服や一度も使ったことのない日用品などが、私とは無関係のところでまとめられていく。変わりつつある状況を私はただ、見ていた。手を出そうなどとは思わなかった。怖くて。それに、悲しくて。軟禁されて、外に出られなくて、私は泣いてばかりいた。

 ガフくんに会いたかった。ガフくん、ガフくん、ガフくんと、私は繰り返した。言葉は虚しく空を回った。それでも私は繰り返した。ガフくん、ガフくん、ガフくん。

 もしかしたらそれは私にとっての精一杯の抵抗で、あるいは彼に向けた贖罪であったのかもしれない。こんなに苦しんでいるんですという無意味で無価値な、自己嫌悪と自己憐憫の入り混じった形だけのポーズ。誰かに見つけてもらうことを期待した、浅ましく他力本願な訴え。当然そんなものに、現実を変える力なんてあるはずもなく。

 そして、その日。私は馬車に乗せられた。遠く遥かな修道院へと向かう場所に。私は抵抗しなかった。心の中でガフくんと繰り返す、それ以外の抵抗を。鞭を打たれた馬が歩を進め、車輪がからからと回りだす。石畳に舗装された道を、かたこと揺れながら馬車が進む。ガフくんに会いたい。私はそう思う。ガフくんと一緒にいたい。私はそう思う。ガフくんと離れたくない。私はそう思う。

 ガフくんと、離れたくない。

 声が聞こえた。朗々と張り上げられた、迫力のある声。外を見ないでも判った。馬車が、私が、いまどこにいるのか。この近くでいま、何が行われているのかを。その熱気を、固唾をのんで一点に集中する子どもたちのすがたを、私は見ぬままに感じ取れた。これまでそこで起こったこと、そして――そこで出会った人のことを思った。

 このままでいいのと、私の中の何かが訴えた。このまま彼に会わないまま、遠い遠いどこか知らない場所に送られて、本当にそれでいいのかって。いいはずがなかった。紙芝居の主人公たちも、そうだった。動かないことに後悔して、だから動いて、動いて、願いに向かったのだ。あの子も、あの子も、あの子も。……私、だって。

 飛び出した。馬車から。何も考えずに――なんて言えるほどまっさらではなかったけれど、怖かったけれど、お父様に怒られることを想像してしまったけれど、それでも私は飛び出していた。それで私は広場に――は、向かわなかった。そっちではない気がした。ガフくんがもし私を待ってくれているなら、私と会ってくれるなら、そこではない気がした。だから私は、走り出した。山に向かって。街の西の――私たちの“セフィロト”に向かって。

 ガフくん、ガフくん、ガフくん。私は繰り返す。走りながら繰り返す。私は動いている。止まらないで動いて、願いに向かって走っている。ガフくん、ガフくん、ガフくん。会いたい、会いたい、あなたに会いたい。そう願いながらも私はちゃんと、願うだけでなく進んでる。街を駆け抜け、山を登って、私は彼に近づいている。

 トンネルの前までやってきた。心臓は破裂しそうで、顔は熱いを通り越してひりひりとした痛みを感じたけれど、でも、あとちょっとだった。あとちょっとだと思えば、あとちょっとで会えると思えば、こんな痛みなんてへいちゃらだった。

 明かりも何もなかったけれど、でも、きっと身体が覚えてる。彼と通ったこの道を、私は絶対覚えてる。だから私は手ぶらのままに、楽園へと続くトンネルへ入ろうとした。腕を、つかまれた。ガフくん? 振り返った。

 知らない男の人が、そこにいた。胸ぐらをつかまれ、頬を叩かれた。


「お、お、お、お前たちが先に奪ったんだ! だから俺は取り返すだけだ! お、俺は悪くないんだ! 俺は、俺は!!」

 どもる彼は口から泡を飛ばしながら、怒鳴り声で私に様々な言葉をぶつけてきた。俺たちはあの戦争で戦ったんだ。国のため、正義のために戦ったんだ。クリスマスまでには帰れるはずの戦いだった。簡単に勝てるはずだった。

 それをお前らが、お前ら商売人が儲けるために武器を、見たことも聞いたこともない兵器をばらまいたから戦争はどんどんどんどん長引いた。長引いて、みんな死んだ。肉屋のアランも、学生だったニコラも、みんな死んだ。ガキの頃から一緒だったレナルドも死んだ。俺だって、俺だってこんなになっちまった。全部、全部、お前らのせいで。

 なのにお前らはのうのうと暮らしている。戦ってないくせに、戦争にも行っていないくせに、いいもんを食って、いい服を着て、いい暮らしをしている。戦ってもいないのに。なんの苦労もしてないくせに、俺らの屍の上で幸せそうに暮らしてやがる。こんなの不公平だ。この国は、俺たちの国は、自由と公平の革命によって生まれ変わったはずなのに。

 だからこれは、革命なんだ。俺の、俺による、俺のための革命。奪われたものを取り戻す、資本家どもに対する革命。お前たちが奪ったものを、俺がこの手で奪い返すための。だからこれは正義の革命で、悪いのはお前たちで、俺は悪くないんだ。俺は、俺は、お、お、お、俺、俺、俺は、俺は。

 手に持った酒瓶を煽り煽り、彼は私に話し続けた。私たちがどんなに卑劣で、醜悪で、度し難い存在であるのかを、手と足とを拘束し、口を抑え、固く椅子に縛り付けた私に向かって訴え続けていた。そしていつしか部屋の中の酒が尽きたのか、古ぼけ錆びた扉に鍵をかけて、部屋の外へと出ていったのだ。

 私は、誘拐されたらしかった。なんのために、どんな目的で。おそらくは先程までの訴えに関係する何かを叶えるためなのだろうと、そこまではなんとなく判った。けれど肝心の、彼の訴え続けていた言葉を私は、何も理解できていなかった。それどころではなかった。あの山で、トンネルの前で頬を叩かれて以降、私の中にはショックと”怖い”以外の何物も消え去ってしまっていたから。

 どうしよう、どうなるの。怖いのは嫌だよ。怖いのは怖いよ。どうして怒っているの。私が何かしたの。私が臆病だから? 私が泣き虫だからですか? いやだ、怒らないで。怖いことしないで。こんなところにいたくない。逃げたい。でも怖い。逃げるのも怖い。動くのも怖い。息をするのも、心臓が動くのも、生きるのも、全部、全部――。怖い、怖いよ。誰か助けて。誰か、誰か――。

 ガフくん――。

「リリ!」

 初めは、なんだか判らなかった。名前を呼ばれたことも、誰が私を呼んだのかも。だから私は怖くって、止まった呼吸をさらにぎゅっと固めて止めて。でも、二回目に。もう一度、呼ばれた時に。うそだって、私は思った。だってこんなところに彼が、彼がいるはずなんかないって。彼を求める私の頭が、都合よく彼の声を響かせているだけなんだって。でも、違った。

 彼の手が、縛られた私の手に触れた。

「なあリリ、オレ、わかったんだよ。お前と会えなくなって、わかったんだ」

 視界の端に、ナイフの煌めきが映った。彼がいつも持ち歩いているナイフ。りんごの皮とか、絵を描くためのペンを器用に削る彼のナイフ。そのナイフが私の手元へと、私の手首を縛る戒めへとするりと潜り込んでいく。

「お前が来なくなって、正直むかついた。むしゃくしゃした。意味わかんねーって親父の菓子を貪り食って、ぶん殴られたりもした。だってお前、あんまりいきなりなんだもんよ。だから秘密基地で、お前のこと散々にバカコラって怒ったりもした。でも、でもよ。違ったんだよ、そうじゃねーんだよ」

 ぎゅうぎゅうに締め付けられて麻痺しかけていた手首に、留まっていた血液がどっと送られていく。次いでナイフは、足へと向かう。右足、左足と、私の身体が椅子から解き放たれていく。

「オレ、寂しかったんだよ。お前と一緒にいるのが楽しかったから、とつぜんいなくなられてショックだったんだよ。オレは楽しかったのに、お前は違ったのかよって。それに、それに、絵だって白紙のままなんだ。描けないんだ、描きたいんだ、一緒に。お前と、紙芝居、完成させたいんだよ。だから、だから、あー……あーもー!」

 そして、猿ぐつわが外されて。自由になった私は立ち上がって、振り返って彼を、わずかに顔を赤らめている彼を――ガフくんを、目の前に捉えて。

「オレにはお前が必要なんだよバカコラ!」

「な、な、なんだ、なにしてやがる!」

 扉の向こうから、怒声が轟いた。ガフくんがこっちだと、背後の壁へと身軽に飛ぶ。そこには小さな窓が、ガフくんや私のような子どもがぎりぎり通れる程度の小さな小さな窓が開いていた。ガフくんはその窓へと身体を通し、一度向こうへ抜け出てから反転し、窓から部屋へと上半身だけで乗り出した。

「来い、リリ!」

 ぐぅっと目一杯といった様子で、彼が私に手を伸ばす。彼の手。大好きなガフくんの手。ずっとずっと、ずっとずぅっと会いたかったその人の。私はその手を見つめる。その手を見つめる私の背後では、もはや言葉にもなっていない怒りの悲鳴と、がちゃがちゃと扉を揺さぶる音、乱暴に鍵をいじる音とが重ね合わさった騒音を立てていた。

「リリ!」

 ガフくんが私を呼ぶ。私を必要だと言ってくれたガフくんが。うれしい(怖い)。私もだ。私も一緒にいたい(怖い、怖い)。ううん、いる。これからも一緒にいる。ガフくんの紙芝居を、私も一緒に作る(いやだ、やめて)。

 だから動いて。お願い動いて私の腕。差し伸べられたガフくんの大好きなその手を、私のその手でぎゅっとつかんで(お父様が怒ってる。扉の向こうで怒ってる)。だから動いて私の足。前に進んで地面を蹴って、ガフくんのもとまで飛び上がって(やだ、やだ、やだ、やだ、ごめんなさい。ごめんなさい、ごめんなさい)。

 ほら、動いて(怖い、怖いの)。お願い動いて(怖くて身体が動かないの)。泣いてなんかいないで。涙を拭って(見つかることが、怒らせてしまうことが怖いの)。ガフくんが呼んでるから(逆らうことが怖いの。動くことが怖いの)。ガフくんが待ってるから(怖いことが……怖いの)。ガフくんが――。

 怖い。

 扉が、開いた。男の人が、いた。それを構えて、立っていた。それは、お父様が、売っていた――。

 最後に見たのは、砕けたナイフ。

 無数の破片が、宙へと散って。きらきら輝き、それはなんだか、幻想的で。

 とっても、とっても、きらきら、綺麗で。

 とっても、とっても、とっても、綺麗で――。


 ガフくんは、やさしい人。嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。

 ガフくんは、お茶目さん。いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。

 ガフくんは、照れ屋なの。絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。

 ガフくんは、手先が器用。欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。

 ガフくんは、ばかこらって言うのが口癖。やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、なんでもかんでもばかこらって付け足してる。

 他にも、たくさん、ガフくん。ガフくんは、ガフくんは、ガフくんはね ――。


 ガフくんは、もういない。

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