ב

 ガフくんと会うようになった。約束したわけではないけれど毎週の決まった曜日に私は紙芝居を見に行き、それからガフくんにお話の感想を聞いてもらう。これが恒例の流れとなっていた。ガフくんはやっぱりうんうんと私の話を、満足そうに聞いてくれた。私はそれに、自分で驚いていた。私ってこんなふうに話すことができたんだって、驚いた。

 ガフくんと一緒にいると、初めてのことがたくさんだった。知らないお菓子を食べた。紙芝居にも触らせてもらった。彼の持つナイフも見せてもらった。危ないよと私は怯えたけれど、ガフくんはそれを巧みに操ってみせた。リンゴの皮を剥いてみせたり、絵を描くためのペンを削ったりして。

「使いようだよ」と、ガフくんは言っていた。にっと、口の端を上げたいたずらな笑みを浮かべて。私と同じくらいの年のはずなのに、ガフくんはとても大人だった。そんな彼を私はすごいと思ったし、同時に私は、なんにも知らない自分のことが恥ずかしくなった。

 だからかもしれない。私はいつしか、こう思うようになっていた。私もなにか、お返ししたいって。

「すげー! なんだこれうめー!」

「よ、よかった……お口にあって……」

 私の部屋には、私の為のお金がいくらかあった。それはお稽古に関わる道具を揃えるためであったり、新しいお洋服を設えるために用意されたお金ではあったけれど、大半が手つかずのまま放置されていることを私は知っていた。

 それでもこれまでは一人で外出なんて考えてこなかったから、そのお金に手を付けることもなかった。でも、いまは違う。私はいま外に出て、ガフくんと会っている。どうすればそれが叶うのか判らないけども、私も、私だって、ガフくんの喜ぶことをしてあげたい。

 初めて会ったあの日。ガフくんはもそもそしたあの薄茶色のお菓子を食べていた。お菓子を食べるの、好きなのかな。お菓子をあげたら、喜んでくれるかな。家の近所のお菓子屋さん。入ったことはないけれど、パーティに出されたことがあるから味は知っている。それはとてもおいしかった――気がする。たぶん。私は、そう感じた。ガフくんには、どうかしら。おいしいって、言ってくれるかな。

 渡す時にはひどく緊張した。だって私がおいしいって思ったものでも、ガフくんにはあわないかもしれないから。おいしくない、いやだって思われて、それで嫌われたりしちゃったら……それは、とても、泣いてしまいそうになることだったから。でもガフくんは、おいしいって、うめーって言って食べてくれた。

 たくさん、食べてもらった。お菓子だけでなく、他のお店にも一緒に行った。ガフくんは食べるのが好きみたいだった。うめーうめーって、たくさんたくさん食べてくれた。うれしいって、思った。ガフくんが喜んでくれている。それがたまらなくうれしくてうれしくて、やっぱり私は泣きそうだった。

「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」

 ガフくんと会うためにいつもの路地裏を小走りしていたその時、数人の男の子たちに道を塞がれた。男の子たちはにやにやとした笑みを浮かべて私のことを取り囲み、手や肘でつついてくる。怖くて、震えて、何も言えずにうつむく私に男の子たちは、持ってるものを出せと命令してくる。

 持ってるもの? なんのこと? 男の子たちの言葉の意味が判らずまごまごしていたら、男の子の一人が言った。金だよ金、金を出せって。金? お金? そう言われてもパニックを起こしていた私はお金という言葉と懐のそれとを結びつけることができず、何もできずに固まってしまう。

 男の子の一人が、壁を蹴った。壁を蹴って彼は、こう言った。「金で友達買って、恥ずかしくねえのかよ」。すぐには、飲み込めなかった。彼が発した、言葉の意味を。金で、買う? 友達を? 誰が誰を、買っているの? ……私? 私が、誰を? ……ガフ、くんを?

 違うよ。私、そんなこと、してないよ。そう、反論しようとした。けれど、声はでなかった。なんで、どうして。ガフくんをお金で買ってるなんて、私、そんなつもり、ない。私はガフくんに喜んでもらいたくて、ただ、それだけで。

 でも、でも……他の人には、そう見えるの? お金でガフくんと友達にしてもらってるって、そう、見えてしまうの? もしかして、みんな、そう思ってしまうの? ガフくんは、ガフくんも……本当は、みんなみたいに?

「ひゃーっひゃっひゃっひゃ!」

 高らかな笑い声が、路地裏で反響した。男の子たちがなんだなんだと辺りを見回す。しかし男の子たちがその声の正体を見つけ出すよりも先に、何かが彼らの足元で弾けた。

「く、くっさ! なんだこれ!」

 男の子たちが弾けたそこから飛び退き、遠巻きにそれを観察する。そこには薄いゴムの塊と、濁った色の水たまりが生じていた。そしてその水たまりからは、なんとも形容しがたい嫌な匂いが立ち上っている。男の子たちが「てめぇ」とか「この野郎」とか怒鳴っている。その怒鳴る男の子の洋服で、再び何かが弾けて散った。

「汚水爆弾じゃい! くらえくらえーい!」

 水を包んだゴムの塊が、いくつもいくつも降り注いできた。男の子たちは先程までの威勢もどこへやら、悲鳴を上げて逃げ惑い、「かーちゃーん!」と叫んだりしながら散り散りに去っていった。

「ひゃーっひゃっひゃっひゃ、おととい来やがれってんだ!」

 上空から、勝利を宣言する声が聞こえてくる。その声は、屋根の上から響いていた。屋根の上の声の主が、滑るようにして壁を伝い、私の前まで降りてくる。目の前のその人。それは、やっぱり、思っていた通りに――ガフくんだった。

「なんだ、ひっかぶっちまったか?」

 心配そうな表情で、ガフくんが私の顔を覗き込む。私は……私は、泣いていた。違うの、そうじゃないの。そう言おうとして、だけどそれらは声にならず、ただただ私は泣いていた。「お金、お金」と繰り返しながら、私はただただ泣いていた。

 手を、握られた。

「来いよ、いいとこ連れてったる」

 いつかのように手を握られて、引っ張られて、私は彼に付いていった。右へ左へ曲がり曲がって、街の外れの山にまで。山を登って私と彼は、黒々とした闇の続くそれの前まで――ぼろぼろに寂れたトンネルの前に立っていた。ガフくんから、古ぼけたランタンを押し付けられた。

「いいから来いよ、すげーんだって」

 閉鎖されて久しい山中トンネル。散らばった瓦礫を当たり前のように払って彼は、光の種すらない暗闇へと足を踏み入れていく。危ないよと、私は思う。子どもだけでこんなところに入るなんて、絶対にいけないことだよって。けれど私は、思いを言葉にはしなかった。だから私はおっかなびっくり、すえた臭いの漂う暗闇のトンネルへと踏み込んでいく。弱々しくて心許ない、いまにも消えてしまいそうな古ぼけたランタンの火を頼りとして。

 かすかな明かりに照らされたトンネルの内部は壁も天井もないような有様で、当然そこはもう道なんて呼べるような道ではなく、大きな瓦礫の上を登ったり、逆にくぐったりしながら私は、先へ先へと軽快に進む彼の後を追っていった。

 待って、待って、お願い待ってと私は思う。置いていかないで、一人にしないでと私は思う。けれど私は、思いを言葉にしなかった。それを言葉にするだけの勇気を、私は持ち合わせてはいなかった。だから私は先へ先へと軽快に進む彼の背を、無言のままに追い続けた。ただひたすらに、他の何にも目をくれず、ただただ彼を追い続けた。それで――ランタンを落としてしまった。

 本当の暗闇に、視界と皮膚とが包まれる。何も見えない、感じない。彼の存在を感じられない。怖かった。暗闇に包まれた状況そのものよりも、在るはずのものを感じられないことが怖かった。在るかどうか定かでないものに思いを巡らせてしまうことが怖かった。このまま置いていかれてしまうのではないかって、怖くて怖くて仕方がなかった。涙が溢れてくるくらいに。

 ――やっぱり私、嫌われているんじゃないかって。

「手ぇ、放すなよ」

 声が聞こえた。手を握られた。姿は見えない。けれど、存在は感じた。見えない手のその先が、私を引っ張った。私はそのまま、引っ張られるに任せた。彼が私を呼んだ。私も彼を呼んだ。彼が私を呼んだ。私もまた、彼を呼んだ。自分がいまどこをどのように動いているのかも判然としないまま、けれどもわずかな恐れも抱かずに私は、先を進む力に身を任せた。

 そうしてそれが、どれだけ続いたことだろうか。遠く、光が見えた。暗く長いトンネルの、出口を示す光が。一層の力で、先を行く手が私を引っ張る。握るその手に力を込めて、私も後についていく。走って、走って、一緒に走って。そうして私たちは、辿り着いた。そうして、そうして、辿り着いたその先には、光差すその先には――。

「……わぁ」

 見渡す限りの緑の世界が、目の前に広がっていた。おとぎ話に出てくるような、光り溢れる神様の楽園。そんな言葉が、自然と浮かぶ。私たちが暮らす山のすぐ側にこんな素敵な場所があっただなんて。その余りにも現実離れした光景に私は見惚れ、しばらくそのまま言葉を失った。

「とっておきの秘密基地さ」

 へへっと鼻の下をこすりながら、ガフくんが自慢げに腰を反る。それからガフくんはこっちだと言って、再び私を引っ張り出す。晴れやかな青の空を背景に頂く、緩やかな稜線を描く緑の丘。その丘を私たちは、ゆっくりゆっくり、噛みしめるようにして登っていく。

 なんだか、どきどきした。あのトンネルで感じた怖さが残っているのか、この光景に対する感激なのか、それともそれらとも違う、あるいはそれら全部をひっくるめたなにかなのか。その正体は判らないけれど、とにかく私はどきどきしていた。そしてそれは、決していやなどきどきではなかった。

「なあお前、ケテルの使徒王物語って知ってる?」

 丘の天辺には小さな、本当に小さな小屋があった。張り合わされた板は不揃いで、全体的にどこか歪んでいる、手作り感満載な小屋。それは到底、人が住めるようなものには見えなかった。家を建てようとしてこれを作られたら、殆どの人が怒り出すかもしれない。そんな印象を抱いた。

 でも私は、この歪んだ小屋を見て、一目でいいなと思った。その不揃いさが、楽しんで作ったといった風情が、これを作った人の、その人柄を反映しているみたいで。「オレが作ったんだ」と、ガフくんは言った。やっぱりって、私は思った。

 ガフくんが小屋の前に座った。私もその隣に座る。するとガフくんが、藪から棒に聞いてきたのだ。ケテルの使徒王物語を知ってるかって。おとぎ話の、英雄譚。絵本にもなっているそのお話を、私はもちろん知っていた。

 でも、私の知っているお話が本当に正しいものなのか。間違っていなかったとしても実はまだ聞いたことのない、もっと詳しい話もあるのではないか。そう考えると、知っているとは答えられなかった。

 それに……ガフくんがあんまり、きらきらと期待するような目で私を見つめるものだから。だから私は知らないよって、うそとも言えないうそをつく。なんだなんだよしゃーねーなーと、ガフくんはうれしそうに頭をかいた。

 ケテルの使徒王さま。戦乱の世をひとつにまとめ、平和な世界を築いた伝説上の王様。嘘か真かはともかくも、いまはいくつにも分かたれた私たちが暮らす国々の、その礎を築いた偉大なる祖王とされる方。その王様の物語を、ガフくんは話して聞かせてくれた。情感たっぷりに、時には謳うように。その話し方にはどこか、紙芝居をする彼のお父さんの面影もあって。たった一人の聴衆に向けて開かれたそのお芝居を私は、間近の特等席で聞き続けた。

「……あん? 使徒王さまはどうしてセフィロトに向かったかだって? ああそれはな、それはだな――」

 ガフくんが口を閉ざし、感無量に手を叩いた私は、良かった、本当に良かったと、ちょっと照れくさそうにしている話し手の彼に直接伝える。それから私は溢れる言葉を抑えようともせず、思いつくままに感じたそれらを述べていった。それはガフくんの話し方そのものについてだったり、物語そのものについてだったり。

 そうした言葉の奔流の一環の中で私は、ほんの気なしに、聞いだのだ。使徒王さまは、どうして王様を辞めてセフィロトに向かったんだろうね、と。するとガフくんはなにやら考え込むようなポーズを取って、それから自作の小屋に上半身を突っ込み、もぞもぞとなにやら動いたかと思えば、紙の束を取り出した。

「なあこれ、これ見てみろ」

 そこには絵が描かれていた。幻想的な街や、幻想的な自然の描かれた絵。星の川、光の冠、見たこともない大きな鯨。迫力と勢いと、なによりも情念をそのままキャンバスにぶつけたかのようないくつもの絵。「ガフくんが描いたの?」と私が問いかけると、彼は自慢げな笑みを浮かべた。

「お前さ、泣いちゃいけないって思ってんだろ」

 ケテルの使徒王物語を描いた絵だとは、すぐに判った。これは星の飛沫の流れるアッシャーで、これは使徒王さまが神様から授かった宝冠。それにこれはきっと、黄水晶の王鯨アドナ。一枚一枚、穴が空くくらいにじっと見ていく。どれもどの絵も、絵だけに収まらない、本当にここに在るかのような存在感が確かにあって。

「泣いたらみんなを、いらいらさせちゃうから……」

「んなこたねーよ」

 けれど描かれた絵は四枚ほどで、あとは描きかけのもの、まったく白紙のもので、むしろそちらの方が圧倒的に多かった。

「お前の涙は、お前だけが持ってるもんだろ」

 こいつを完成させるのがオレの夢で、“願い”なんだとガフくんはいった。

「だってよ、お前だけなんだぜ。親父の紙芝居見て、あんなふうに泣いてたやつ。他の誰にもできないことを、お前だけがしてたんだ。それってすげーことじゃんか」

「……すごい?」

「ああ、すげー。だから、お前だって思ったんだ。お前とならってさ」

 でも、ガフくんはこうも言った。使徒王がなにを願ってセフィロトへと向かったのか、果て先にある光とはなんのことなのか。どんなに考えても、オレにはそれがわからなかったと。だけどよと、ガフくんは付け加える。

「わからんもんは話せもせんし、描けもせん。だからよ、正直お手上げだったんだ。適当にでっちあげて台無しにもしたくねーし、こいつぁーお蔵入りかねーって。……でもな、お前と会って、泣いてるお前を見て、思ったんだよ。もしかしたら……もしかしたらだけど」

 ガフくんは、言った。

「もしかしてお前となら、使徒王物語を完結に導けるんじゃないかって」

 ガフくんはそう、言ってくれた。

「……まーよ、もしダメだったとしてもそれはそれでいいんだ。だってオレ、お前のこと好きだしな!」

 ガフくんは私に、そう言ってくれたのだ。

「お、見たことない表情! デッサンさせれ!」

「……や、やー」

「なんだよ、なんで隠すんだバカコラー!」

「やー……」

 泣いてばかりいたこんな私に、ガフくんは、そう――。


 ガフくんは、やさしい人。嫌なことや悲しいことに傷ついた日は、黙って側にいてくれる。

 ガフくんは、お茶目さん。いたずらするのが大好きで、街の大人やお父さんによく叱られている。

 ガフくんは、照れ屋なの。絵を描いてるところを見つめると、なんだよって口をとがらせそっぽを向いちゃう。

 ガフくんは、手先が器用。欲しいものは買ったりしないで、特別なものを自分で自由に造ってしまうの。

 ガフくんは、ばかこらって言うのが口癖。やさしい時にも、お茶目な時にも、照れてる時にも、造った時にも、なんでもかんでもばかこらって付け足してる。

 他にも、たくさん、ガフくん。ガフくんは、ガフくんは、ガフくんはね――。


 ガフくんと、離れたくない。

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