סוף
א
「なあお前、泣いてたろ」
生まれる前から怖かった。いつも怖くて悲しくて、いつでもどこでも泣いてばかりいた。そうして泣いてばかりいる自分のことが、私はとても、嫌いだった。泣きたくなくても泣いてしまう、感情任せの自分のことが、とてもとっても嫌だった。嫌だと思えば思うほどに、私の涙は加速した。
お父様は、私のことが嫌いだった。たぶん。たぶんだけれど、私が泣いてばかりいるから。お父様はいつでも何かに苛々として、私が泣くとその苛々が、余計に酷くなるそうだった。泣くなと何度も叱られて、叱られる度に泣き出す私を、お父様はきっと大嫌いなはずだった。だから私も、余計に私が嫌いだった。こんな私を好きになってくれる人なんてきっとどこにもいないんだって、そう思って私はずっと、生きてきた。
でも、彼は、違った。
ある日、私は見た。お稽古の帰りの馬車の中から、涙の向こうのその光景を。広場に集まった子どもたち。ずらりと並んだ真剣な表情。その表情の向けられた、広場の一点。そこから聞こえる、朗々と張り上げられた迫力のある声。それが何かは判らなかった。張り上げられたその声はびっくりするほど大きくて、びりびりと肌の震えるのを感じた。
でも、不思議と怖くはなかった。どころかもっと、聞きたいと思った。もっともっと、知りたいと思った。それから私はお稽古から帰る度に、広場で行われるその行事を見続けた。見れば見るほどに、聞けば聞くほどに私の興味はいやにも増して、いつしか私は、実際にそこへ行ってみたいと思うようになっていた。
そうは思っても、初めはきっと無理だと思っていた。けれど父が出張し、街の子たちと同じような服を手に入れ、状況は私を後押しするように整っていって。もちろん、怖かった。こんな私が行ってもいいのか。父が知ったらなんと思うか。それに、一人で外へだなんて。行かない理由はいくつもあった。生きたい理由はひとつだった。だから私は――行くと決めた。
何度も何度もシミュレートして、それでも迷った道を通り、鉄柵の門を開いて私は、夢にまで見たその場に入る。入った瞬間に、感じた。馬車の中とは、熱が違う。子どもたちが集まる熱も、喧騒も、想像していたよりもずっとずっと熱くてすごくて、賑やかだった。
それで、それで――どうすればいいのだろう。子どもたちは友達同士、思い思いに話をしている。私は辺りをきょろきょろ見回すばかりで、誰かに話しかけようだなんてそんなことは考えられない。はしゃぐ子どもが私にぶつかり、「あ、ごめんなさ――」と言ったそのすぐ後には、その子の姿は遠くに消えて。私はせめて邪魔しないようにと縮こまり、広場の端に背中をつける。
「はいはいみなさまおまたせっしたー!」
あの声だ! よく張り上げられた、大きな声。馬車の中から、何度も聞いた。てんでばらばらに散っていた子どもたちが、わっと声の下へと集っていく。いいのかな、いいのかな。そう思いながら私も、そっと彼らの後についていく。
子どもたちが視線を向けるその先には、木組みで立てられた舞台があった。三つの扉が大きく開き、木枠の裡が目に入る。そこには紙が、収められていた。文字と、絵。台を操る男の人が、あの大きく響き渡る声で、紙に描かれた文字を読み上げた。それはこれから始まる物語の――ひとつの完結した世界に冠された題の名だった。
男の人が、表の紙を横へと引き抜く。隠れた紙が、顕となった。新しい絵、世界の黎明。絵にあわせて男の人が、気持ちと力をたっぷりに、大きな声を張り上げる。朗々と、謳うように、物語の内側へと導き誘う。
そこには宇宙があった。小さな宇宙。絵と声と、促されし想像によって成り立つ小さな小さな小宇宙。けれど確かに存在している、心と魂の描き出す実像。そこには人がいた。人間がいて、感情があった。私達と変わりなく生きる人々が、苦しみながら、戦いながら、それでも強く生きていた。
男の子がいた。離れ離れになった友達を探す男の子。友達を探す旅に出た男の子。見知らぬ土地を渡り歩いて、騙されたり、事件に巻き込まれたりしながらも、めげずに旅する男の子。その子の旅の軌跡を思って、私は知らず、応援していた。心の中で――声にも小さく言葉に出して、旅する男の子を応援していた。がんばれ、がんばれ、がんばれって。
それで、それで……私は、泣いていた。その子の苦しみに、その子の悲しみに胸の奥がきゅうと痛くなって。そして――その子の迎えた結末に、「ああ」と嗚咽を漏らすことしかできなくなって。私は泣いていた。いつものように泣いていた。だけどいつもの泣き虫と、今日のそれは違う気がした。こんな涙は、初めてだった。
「よーしガキンチョども、お駄賃回収すっから逃げんじゃねーぞ!」
子どもたちが一斉に、ぶうぶうぎゃあぎゃあと騒ぎ出す。紙芝居の男の人は「うっせーぞ!」とがなりながら、子どもたちの間を回っていった。そして男の人はバスケットに入れた何かと交換に、子どもたちからお金を受け取っていく。
え、お金、お金? お金、いるの? そんなものは持ってきていないことを百も承知の上で私は、お洋服を上から下まで確かめたり、ポケットを裏返したりした。もちろんそこにはお金なんて、硬貨の一枚だって隠れてはいなかった。そうこうしているうちに、男の人が私のすぐ側にまでやってくる。「おらよ、持ってけどろぼー!」と、隣の男の子が叫んだ。私の番が来た。
「おら坊主、出すもんだしな」
男の人が、私を見下ろす。大きい。お父様も大きいけれど、この人はそれよりもずっと、もっと、大きい。大きな大きなその人が、私を見下ろしている。その事実だけでもう、いつもの涙が込み上げてくるのを感じた。
「あ、あの、私……」
「あん?」
「わ、私、私……」
声が涙に歪んでいるのが、自分でも感じ取れた。ごめんなさいって言わなきゃ。ごめんなさい。お金、持ってないんです。知らなかったんです。ごめんなさい。頭の中で、口にするべき言葉を整理する。けれど口は、のどは、頭のようにやさしくなくて。結局私は、私、私と繰り返すことしかできなくなって。
その時だった。私の背後から、にゅっとその手が伸びてきたのは。
「ほらよ、これでいいだろ親父」
からん、と、小銭がバスケットに放り込まれた。肩の後ろから、顔が出てきた。男の子の顔。知らない子。その子はにひっと、私に笑いかけてきた。わけが分からず私は涙を湛えたままに、小さくその場で会釈する。
「なんだ、お前の連れかよ。だったらいらねーよ、息子にやった小遣い回収する親があるか」
「とっとけとっとけ、どうせ今月も金欠だろーが」
「なんだこのやろ、親に向かって生意気な」
「へっ、説教なら帰ってから聞いてやらぁ。ほら、行こうぜ!」
「え、あの、はい……え?」
手を、つかまれた。と思ったら、引っ張られた。男の子が走り出していた。強い力で、私を握って。走るの? 付いて行った方がいいの? 疑問を浮かべるも答えのでないまま、抵抗することなく私は彼に付いていく。
「日が落ちる前には帰ってこいよ! 今日はおめぇーが飯当番だかんな!」
「わぁーってるよ!」
あっという間に広場を出て、街の中をあちこち走り回って、いつしか私は、見たこともないその場所に出た。太陽の光を反射してきらきら輝く水の流れ。本で読んだことがある。たぶん、きっと、これが川というものだ。これが、川、川なんだ。なんだか……なんだか、すごい。
「ほい、お前のぶん」
川のすぐ側に男の子が座り、何かを私に手渡してきた。それはあの紙芝居の男の人が、お金と交換して子どもたちに渡していたもの。薄茶色の円形の物体で、とても軽く、表面は硬い。これがいったいなんなのか、私にはよく判らない。
悟られないように、男の子を覗き見る。男の子は、その円形の物体をかじっていた。ぱきっと、硬いものの割れる音が響く。食べるものなのかしら。おいしいのかな。そんなことを思いながら男の子を見ていると、視線に気づいたのか男の子が私のことを見上げた。慌てて視線を逸らす。
「食べねーの?」
「あ、はい……いただき、ます?」
そう言って私は、けれどすぐには口をつけなかった。私だけ立ってるの、おかしいかな。直に座って、いいのかな。怒られないかな。男の子は、川を見ながらぱきぱきと、手元のそれをかじっている。伺うようにそっと、彼の隣に腰を下ろした。彼は何も言わなかった。だから私はそのまま、手渡された薄茶色で円形のそれを、彼がそうしているようにかじってみる。
もそもそした、不思議な食感だった。舌がぴりぴりする味で、おいしいというよりも、おもしろい。「うまいだろ」と、彼が尋ねてきた。私は慌ててうなずいた。うなずいてぱきぱきと、彼がそうするように手元のそれをかじった。ぱきぱき、ぱきぱき。きらきらと輝く川の前で、私達の鳴らす軽い音が響き渡った。
「なあお前、泣いてたろ」
すっかり手元のそれ――たぶん、お菓子?――を食べ終わって、ゆらゆら揺れる川の流れを見ていた時のこと。前置きなく、彼がそう言ってきた。怒られる――! 瞬間的にそう思って私は、身体の芯まで凍りつく。
「あ、わ、私……」
「あん?」
「ごめ、ごめんな、ごめんな、さい……私、私なにもわかんなくて、だから、だから……」
「なに謝ってんだ?」
しかし彼は、心底不思議そうにしながら私の顔を覗き見ていた。その顔には、お父様が私に向けていたような肌に突き刺さるような痛みはない。……どうして?
「怒って……ないんですか?」
「なんで怒るんだ?」
なんで、怒らないの? だってお父様は、私に泣くなって。私が泣くと、苛々するって。だからあなたも、私を怒ろうと思っていたんじゃないの? あなたは、違うの? 私のそんな考えを他所にして、彼は身を乗り出して顔を近づけてくる。その距離の近さに、思わず首を丸めてしまう。
「聞かせろよ。今日の紙芝居、どう思った?」
「か、紙芝居……ですか?」
「そうだよ、見たろ?」
「は、はい、ごめんなさい……」
「だからなんで謝んだって。それと敬語もいらねーよ。むずがいーし」
「わ、わかりました……」
「ましたー?」
「あ、えと……わ、わかり……わかった、です」
「……んー、まあいいか。で? 紙芝居、どう思った? 聞かせてくれよ」
「あ、あの……あの、ね……」
目を光らせて私を見つめる彼に、私は少しずつ、少しずつ語っていった。紙芝居。友達を探して旅をする、男の子の物語。こんなことを言ったら怒られるかもしれない。そんなことを話したら嫌がられるかもしれない。そう思いながら私は言葉を選び選び、慎重に思ったこと、感じたことを彼に話した。
彼は怒りも嫌がりもしなかった。うんうんと都度都度うなづいて、それでそれでと度々先を促して。だから私も段々と、言葉の限りを払っていった。自分が思ったことを、感じたことを、可能な限り間違いなく伝えられるよう、自分の内側を探りに探って語っていった。私がどんなに好き勝手話しても、彼は私を拒絶しなかった。拒絶せずに、話の下手な私の話を聞いてくれた。うれしそうに、聞いてくれた。
彼は私を、拒絶しないでくれた。
それで、全部、話し終わった。彼は変わらず、私を見ていた。私はなんだか恥ずかしくなる。視線を下げる。川の光はいまはもう、夕の赤を映していた。私の顔も、同じくらいに赤かったかもしれない。
「オレ、ガフ。お前は?」
「り、リリ……」
「リリ!」
手を、取られた。両手で握られた。ぶんぶんと、ぶんぶんと上下に振られた。男の子の、力強さで。
「また来いよ!」
それだけ言い残して彼――ガフくんは、その場から一気に駆け去っていった。すごい、足、早いなあ。私はそう思いながら彼の姿が見えなくなるまで見届けて、それから手元を、夕焼けに染まるてのひらを見つめた。彼の手のぬくもりが、まだそこに残っている気がした。
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