כח

 仰向けになっていた。仰向けになって、空を見ていた。空が高い、高くて青い。清々しく心地の良い風が吹いている。時間の流れがゆったりとして、切り取られたいまが永遠に続いているかのような、そんな穏やかな心地がした。

 寝転んだまま、隣を見た。ベルがいた。ベルの向こうに、ミカがいた。ミカがこちらを向いていた。仮面の奥のきらきらと星のように輝く瞳が、どこかいまは落ち着いた潤いを湛えていた。

「リリ」

「ああ」

 二人一緒にベルを抱え、緑の続くその地に立った。緩やかな稜線を描く丘が、青の空を背景に佇んでいた。オレたちは、その丘を登る。そこに力は必要なかった。微弱な風が背中を押す。手をつないで、二人で歩く。そこには何の障害もありはしなかった。そうしてオレたちは、その樹の前に立った。丘の上の大樹――ラトヴイームの、その前に。

 しばらく無言で、その樹を見上げた。そよ風に吹かれ、さわさわと擦れ合う葉の音。永遠に固定されているようでいて、確かな生を感じさせる瑞々しさ。目でも耳でも感じ取れない、けれども感じるその呼吸。なぜだか、涙が溢れそうになる。目元を拭った。

「願い、叶えないのか?」

「……リリは?」

「オレは……」

 ラトブイームの肌に触れる。ラトヴイームの鼓動を感じた。不思議なことにそれは、自分自身の鼓動をより一層はっきりと感じさせる。オレ。オレの、願い。願いの、想い。想いの、過去。すべてを思い出せた訳では、なかった。自分が何を願い、その願いを抱くどのような想いを抱くに至ったかの、そのすべてを思い出せた訳ではなかった。

 けれどオレは、過去を見た。少女の過去。“私”の過去。泣き虫で、弱虫で、臆病者。いつでもなにかに怯えて困って、だからといって逃げ出すこともできない愚者。……オレによく似た、いつかのどこかに生きた少女。オレはあいつを体験した。己のこととして、その感情を追体験して。

 あれは、もしかしたら、オレなのかもしれない。オレの願いは、オレの想いは、あれの中にこそ隠されているのかもしれない。もう一度あれと重なり、あれの生を辿ればオレは、そこへと辿り着けるのかもしれない。ラトヴイームの脈動が、“私”を強く感じさせる。でも、けども――。“オレ”は、やっぱり、“私”じゃない。

 ラトヴイームから、手を離した。

「オレは……オレは、いい。それよりもミカ、お前だ。お前は、どうなんだよ」

「ボクは……」

 ミカの手。ミカの手が、ラトヴイームに触れた。喪われたはずの右手で。異なる人間の腕が生えているかのように、違和感を覚えるその手で。小指を喪失した、その手で。

「ボクの、願いは……」

 ミカは、口ごもっていた。仮面の奥でこぼした声が、くぐもったままに聞こえてくる。その大人しさはオレの見てきたミカの像とはかけ離れ、まるで別の、別の誰かがミカの姿を象っているかのように感じる。肘から先の右の腕。小指の欠けた、だれかの腕。

「願いは――」

「ミカ、お前の願いは私が知っている」

 ベルの声。ミカの左腕に抱えられたベルが、ミカを見上げている。

「お前がそれをどれだけ切に願い、故にこそその願いを封じてしまったその理由を、私は知っている」

 ミカがベルを見下ろしていた。静かに、落ち着いた様子で。しかしその手が、ラトヴイームと触れたその手が震えているのを、視界の端でオレは見た。

「お前が願いと向き合うためには、時と順序が必要だった。忘却に堕するでもなく、拒絶に埋没するでもなく、真正面から己が願いを受け止めるには、絡み合ったお前の過去を紐解く必要があった」

「ベル、違うよ。ボクは、ボクだよ」

「故に私は導いた。畢竟それがお前を苦しめ追い詰めることになろうとも、このセフィロトの道を私はお前と共に歩んだ。なぜならそれは、私にとっての願いでもあるのだから。故にミカよ」

「それ以上はダメだよ。それ以上言ってしまったら、だってボクは、ボクが――」

「いまこそ己と向き合い、交わした約束を果たす時だ。ミカ。いや――」

「ボクが、ボクでは――」

「お前の、本当の名は――」

「あっははははははは!!」

 とつぜん、目の前が炎に包まれた。身体を引く。一歩下がる。足元に、違和感を覚えた。泥を踏んだような、気色の悪い感覚。地面を見た。あるべき緑は色を失い、そこには影が広がっていた。影。首のない、影。ひしめきあう首のない影の群れ。それらが地面を覆い尽くしていた。足首を、つかまれた。

 悲鳴を上げて、もがく。けれど影は、影の手は、振り払っても振り払ってもオレをつかまえ、泥のような自らの元へと引きずり込もうとする。逃れる術を探して、手を振り回した。焼ける熱に、手を引っ込めた。燃え立つ炎、炎の粉。それは空へと舞い上がって、青きそれを黒の色へと塗りつぶしていく。世界が火の手に燃えていく。世界の中心が燃えている。

 ラトヴイームが、燃えている。

「あんな道のりで果て先に辿り着けただなんて、お前ら本気でそう思ったのかい?」

「全くおめでたい奴らだナ。だからお前らここまで来ても、紛い物のままなのサ」

 人をばかにした、癇に障る笑い声。間違いようもなかった。猛る炎に照らされた二つの人影。白塗りの面に、頬まで伸びた赤い紅。涙を模した三角マークと、二股に分かれたジェスターハット。見まごうことなき道化師が、そこには二人、立っていた。互いに向かって片腕伸ばして、手と手の間に、何かを挟んで。挟まれたそれが、弾ける火の粉に照らされる。その大きさが、その形が、それの姿が顕となる。

 ミカの方を、向いた。ミカの、胸を見た。――ベルが、いなかった。

「やはりそうか。お前たちも、私と同じ――」

「一緒にするなよ生首野郎。タヴとお前じゃまるで違う」

「テトの求めるその願いは、お前なんかのそれとは違う」

 樹が、火が、燃え爆ぜる音。空と雲が轟く音。蠢く影がひしめく水のような濡れた音。それらの混じった音の洪水。音の洪水に満たされたこの空間において、なおその音は、遠く小さく離れているはずのその音は、オレの耳の奥を揺らした。

 少しずつ、少しずつ、わずかに、わずかに、互いの距離を縮めていく道化師たちの腕と腕。その間に挟まれたものが歪み、ひしゃげ、その形が本来のそれから遠ざかれば遠ざかるほどに、構成するその内側が砕けていけば砕けていくほどに、隙間を潰していく道化師たちの腕と腕。

 挟まれたベルが潰れれば潰れるほどに。

「お前は結局失敗したのサ」

「後は俺らに任せておきナ」

 樹は燃えていた。影はしがみついてきた。ミカは固まっていた。道化師は笑っていた。ベルは無表情のままだった。何がどうなっているのか判らなかった。どうしていいのか判らなかった。何かを叫んだ気もするが、なんと叫んだのかは判らなかった。何を思っていたのかも、何を感じていたのかも判らなかった。ただ、これだけははっきりしていた。オレたちは――オレは、間違えてしまったのだ、と。

「ミカ。決して、決して私を忘れ――」

 ――そうして、ベルが、潰された。

「ルール違反に罰則を」

「ペナルティは公平に」

 重ね合わさった道化の手から、何かが絶えず滴り落ちている。それが何かなどとは、考えたくもなかった。しかし道化師たちは重ねたその手を折り曲げ離し、その接面をこちらにまっすぐ向けてきた。

「似ても似つかぬ誰かの模倣」

「そんな真似事、もうおしまい」

 赤と黒のコントラストを見せつけた格好のまま、道化師二人が近づいてくる。ひしめく影を踏みつけ潰し、火の粉を浴びてやってくる。ぐちゃり、ぐちゃりと影が跳ねる。道化師二人が近づいてくる。どうすればいいか判らない。

(怖い)

 ミカは動かない。動かないミカに影が登る。首のない影がミカの身体を引き込んでいく。埋まりかけたミカ。埋まりかけたミカの前で、道化師が止まる。そしてその手で、ミカに触れる。赤と黒に塗れた二つのその手で、ミカを覆った仮面に触れる。

 亀裂が、走った。

「虚飾の殻を砕き割り」

「真の己と向き合おう」

 交互に重なる道化師の声。その声が響く度に、鉄を溶かして固めただけといった風情の、ミカの面を覆い隠すその仮面に亀裂が走っていく。呪文のように唱えられる道化師の言葉。巻き起こる音の洪水と同化したそれは、より一層の激しさを加速させ、そしてそれは来るべき頂点へと達し――一瞬の静寂の下、道化師たちが、声を揃えた。

「さあ、悍ましき自分をいまこそ」

 仮面が、割れた。ミカの仮面が。隠されていたものが、白日の下に晒される。そこには、少年の顔が存在していた。少年。赤い線の引かれた少年。目元から片頬を通り、あごへと向かって引かれた三本の赤い線。その模様は、どこかで見た覚えのあるものだった。けれど――けれど、注目すべきは、そこではなかった。だって、これは。この顔は――。

「そうだ、お前が――」

「――真の、“ベル”だ」

 ベル。ベルだった。見間違えようもないほどに、完璧にそのまま、ベルそのものだった(怖い)。意味が判らなかった。だってベルは、ついさっきこいつらに。でも、どう見ても、目の前のこのミカはベルだった。ミカがベル? なら、ミカは? 仮面の奥から見えた星のようにきらきら輝く瞳。その瞳はいまや、くすんだ灰に光を失して。

「言ったはずだ、ここには何もないと」

 声が聞こえた。聞き覚えのない声。どこかで聞いたような気もする声。声の先には、ローブをまとった何者かが立っていた(怖い)。全身を覆うローブ。足も、腕も、頭も見えない。光の吸収を拒むかのように深く濃い暗闇が続くフードの中。見えない顔。その顔が、フードが、正体不明のその人物自身の手によって、めくられた。

「お前を連れてきたのは、私だと」

 赤い、三本の線。目元から頬に、頬からあごへと伝わる紋様。それは、同じだった。隣で固まったままのミカ――ベルに描かれているそれと。血の涙のような、それと。

「……父さん」

 ミカ――ベルが、つぶやいた。

「生きるべきは、ぼくじゃありませんでした――」

 ぷつ、ぷつ、と、赤い玉がローブの男の首に浮いた。ひとつふたつ、みっつよっつ――数える間もなくいくつもの玉が男の首に浮かび上がり、隣り合うそれらは結び合って連結し、やがてそれは一本の線となった(怖い、怖い)。首をぐるりと一周する、赤い線。

 その線を基点として、男の身体と首が、ずれた。動いているのは、首の方だった。ずるずると紅い雫を零して滑る首。なめらかな動きで切断面をなぞったそれは、ついには支えを失い、影の待つ地へ落下した。

 それが、契機となった。

 首のない影が、ミカの――ベルの肩まで抱きつき、その頭まで手を伸ばし、己が裡へといよいよ呑んだ。助けなければいけないと思った。助けるんだ、助ける(怖い)。違う、泣かない。オレは泣かない(怖い、やだ、怖い)。影たちがまとわりつく。オレは怒っている。怒鳴りつけている(いやだ、怖いよ、怖いよ)。オレは助けるために来たんだ。助けられるためじゃないんだ(やだ、やだ、やだ、やだ)。だって、そうじゃなきゃ、そうでなければオレは、何の為に、ここに――。顔面が、影の手に、つかまれた。

 怖い。

 引きずられた。引きずり下ろされた。引きずり下ろされ、呑み込まれた。影の中に、底の底に。光の届かない、影の世界に。なにかをつぶやいた気がする。怒ったようにも、謝ったようにも思える。そのどちらでもない気がする。確かめる術は、けれどなかった。もうここには、音もないから。何も聞こえなかったから。何も。“私”も。何も――。


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