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「いやだ、死にたくない、死にたくない!」

「撃て! 撃て! 殺せぇ!」

「腕、腕が……足も……」

「母さん、ぼく、ぼく、母さんのシチュー、残すんじゃなかった……」

「死にたくなければ殺せ! 帰りたければ殺せ! 殺せ、殺せ、殺すんだよぉ!」

「見えない見えない見えない見えない……」

「ああ、神よ……」

 ……なにが、起こった。どこだ、ここは。サディンは。ミカは。あの――少女は。誰もいなかった。側にいるはずの者たちは、誰もここにいなかった。人はいた。ヘルメットを被った人々。泥だらけの血だらけで、苦しげに喘ぐ人々の群れが。――銃を抱えた人々の群れが。

 目の前の人が、立ち上がって銃を構えた。ヘルメットが割れ、頭が砕け、ぐらりと大きく身体を倒した。思わず、手を伸ばしていた。そこに、何か棒状の、先端に筒状の黒い物体がいくつもくくりつけられている何かが飛んできた。それが、破裂した。頭を砕かれ倒れた人の身体が、その爆発によって飛び散った。散った“それ”が、駆けずり回る人々に踏み散らかされた。誰も、気に留めてもいないようだった。気に留める余裕もないようだった。

 なんだ、ここは、なんなんだ。オレはただ、見ていた。何に触れることもできず、まるで幽霊かなにかのようにその場に浮かんで、ただただそこで巻き起こされる惨状を目にしていた。それは、まさしく、地獄だった。人間は容易く千切れ飛ぶ消耗品で、誰もが公平に死と隣合わせの窮地に立たされていた。みんながみんな生きるために走り、走った直後にその生命を失っていた。

 いやだと叫んだ。叫んだはずだった。けれど声はでなかった。オレには声がなかった。オレは観察する者だった。見たくはなかった。けれど目を逸らすこともできなかった。だからオレは見た。人が死んでいくところを。銃に撃たれ、手榴弾に吹き飛ばされる、あまりにも脆い人間の身体を。だからオレは見た。二つの車輪に備え付けられた、いくつもの銃身が束ねられた化け物みたいな兵器の姿を。だからオレは見た。回転し、すさまじい轟音と共に無数の弾丸を乱射するその兵器が、人々を紙切れのように粉砕する様を。だから、オレは――。

「いかがですか閣下、この威力。本格的にこれを導入すれば、戦争は確実に変わることかと」

 場所が、変わった。手入れの行き届いた綺羅びやかな庭に、それと似つかわしくない人を紙切れのように粉砕したあの兵器。その兵器の前に立つ二人と、鋼のように背筋を伸ばした同じ表情の人達が数人。閣下と呼ばれた男が、確かめるように目の前の兵器に手を触れる。

「どれだけ用意できるかね」

「三〇機程度であればいますぐに。二週間ほどお待ちいただければ、更に三〇ご用意してみせます」

「判った、買おう」

 ありがとうございますと、若く背の高い男が頭を下げた。その直後、屋敷の方から声が響いてきた。幼く、遠慮のない、あらん限りにのどを震わせた泣き声が。

「赤子か」

「ええ、娘です。先日生まれたばかりでして」

「子は宝だ。君にとっても、国家にとっても。君は商売人だが、この戦争を勝利へ導いた英雄として、後の世に名を残すことだろう。君の娘も大きくなればきっと、君を誇りに思うはずだ」

「これは、もったいなきお言葉を」

 二人の男が話している間も、赤ん坊は泣き続けていた。何が悲しいのか、何が恐ろしいのか、聞く者の神経を逆撫でする悲痛な声で。悲痛な声が、オレの耳を震わせた。耳を塞いでも、なにをしても、それはまるで己の裡から轟くかのように、頭と心とを揺さぶった。そしてオレは、気が付いた。オレはその、赤ん坊だった。

 硬いベッドに寝かされた赤ん坊のオレはこれでもかという程に泣き、泣き、泣き続け、泣き続けながら大きくなっていった。大きくなってもオレは、泣き続けていた。声を限りにとはさすがにしなくなったが、めそめそと、しくしくと、泣かない日はないのではというほどに、泣き通した日々を送っていた。

「また泣いているのか」

 あの兵器を売っていた若く背の高い――いや、あの時からいくらか年をとったその男が、オレを睨みつけて言った。そう言われたオレは身体を縮こまらせ、のどをひくつかせ、声を抑えようとする努力も虚しくやはり泣いていた。男がため息を吐く。

「いったい何が不満だ。きれいな服を着て、栄養のある食事を摂れて、これ以上私に何を求めるつもりだ、なあ?」

 男はずいぶんと痩せこけていた。痩せこけ、疲れた顔で、どこか正気を失った目をしていた。あの、人が簡単に生命を失う場所の、地獄のような場所で戦っていた人たちと、同じような目をしていた。

「私の何が間違っているというのだ? そうだ、私は間違っていない。私は祖国のために働いただけだ、働く場所が違っていただけだ。私は武器を調達し、才のない者が戦場に立って武器を持つ。それの何がいけない。プロレタリアートどもめ、貴様らの無価値な労働は我々の資本の上に成り立っているとなぜ理解できない。教養がないからか? それとも元々の知能が違うのか? なあ、どう思う。答えろ、答えなさい」

 男がオレを問い詰める。オレは、何も答えなかった。ひくついたのどは決壊し、抑えていた声は努力も虚しくこぼれだした。

「泣くな!」

 男の怒声。その声が更に、オレの泣き声を助長する。男はテーブルを蹴り飛ばし、棚をひっくり返した。それでもオレは、泣いていた。

「私は、私は国に尽くしたのだ。私は英雄なのだ。私が戦争を長引かせたなどと、断じて、断じて非国民などと――」

 男は更に室内を破壊し、何事かと駆けつけてきた従者を押しのけて、部屋の外へと出ていった。ぶつぶつと、未だ治まらない怒りを何事かつぶやきながら。その一部始終をオレは、オレの中から見ていた。何を話すこともせず、ただただ泣き続けるオレの中から見続けていた。

 オレはまだ、泣いていた。何が悲しいのか、なぜ泣いているのか、それすらも判らないままに、オレはいまも泣いていた。泣いたままに、馬車に揺られていた。それは定期的に通っている教室の帰りで、この帰り道では次にまたこの道を通る時の憂鬱さを思い、泣きながら馬車に揺られるのが恒例となっていた。

 けれどオレは、それにいやだとは言えなかった。それは父の決めたことだったから。父に逆らうことなど、怖くて出来はしなかった。だからオレは俯いて、俯いて、ぽたぽたと腿を濡らす涙を見つめて泣いていた。

 だからオレは、それに気づくのにしばらく時間がかかった。馬車の外。街の中心に位置する広場の、その脇を通っていた時のこと。張り上げた声が広場中に広がっているのが聞こえてきた。普段であれば大きな声など聞こえたら萎縮して、動くこともままならずに息を潜めて泣いてしまうところだが、今日は、そしてこの声からは不思議なことに、恐ろしさを感じなかった。

 オレはどうしようと迷いながらも、馬車の覆いをちらりと開ける。そして見た。広場の中に、大勢の子どもが集まっているのを。そしてその子どもたちが一人残らず、広場の中心を見つめているのを。けれど、見えたのはそこまでだった。オレを乗せた馬車はすぐにも広場から離れていってしまい、その時はまだ、なんだったのだろうという微かな疑問を抱いただけに終わった。

 本格的に興味を惹かれたのは、次にこの道を通った時だった。その日もオレは俯いて泣いていたが、あの張り上げた声が聞こえた途端、この前のことを思い出した。今度は躊躇わず、覆いを開けた。広場ではこの前と同じように子どもたちが集まり、真剣な顔で広場の中心に視線を送っていた。

 広場の中心。今回は、見ることができた。そこには一人の男の人と、木組みのなにか、台のようなものが置かれていた。男の人は台に手をかけながら、張り上げた大きな声で子どもたちに語りかけている。芝居がかったその様子に、オレは目を離せないでいた。

 台の内側にはなにかの絵が描かれているようだったが、遠くてそれが何かは判らなかった。けれど、胸の沸き立つ思いがした。これが何か判らない。判らないけども、こんな気持ちは生まれて初めてだった。もっと間近で、それを見たい、感じたいと思った。けれど馬車は無情にも、オレを運んで広場から遠ざかっていってしまう。

 それからは、教室へ通うのが楽しみになった。あんなにいやで、悲しくて仕方なかったのに、馬車の中で泣くことはもうなくなっていた。何度も、何度も、あの広場の前を通って、何度も、何度も、あの光景を眺めた。何度見ても色褪せることはなく、何度見てもそれは心を浮き立たせた。それと同時に、ある想いがオレを支配するようになっていった。馬車からでなく、直にあれを、見たい。“私”もあの場に、行きたい。

 地図を、用意した。屋敷からあの広場へ行くにはどのルートを通ればいいのか、頭の中で何度も何度もシミュレートした。シミュレートするだけで、本当に屋敷から出るつもりはなかった。そんな勇気はなかったし、自分にそんなことができるとも思えなかった。父がオレを家から出したがっていないのを、オレはきちんと知っていたから。

 けれど、でも、チャンスが訪れたなら。そう思わなかったかと思えば、うそになる。チャンスがあれば、行ってみたい。見てみたい。それは偽らざる本音で、そうした日が来ることをオレは、密かに待ち望んでいた。……そして、その日は本当に訪れた。

 長期の間、父が国外に滞在する予定だと聞かされた。理由は判らないけれど、父はオレを連れて行くつもりはない様子だった。父という管理者にして支配者が、突如としてオレの前からいなくなることになった。

 さらに、小間使として働いていた少女が実家へ帰るという出来事も重なった。彼女とはほとんどまともに話したこともなかったけれど、出自が北方の田舎町であることは聞いており、その私服が街の男の子のくたびれたそれと同じようなものであることをオレは知っていた。だからオレは、こう持ちかけた。私のお洋服とあなたのお洋服、交換しませんか、と。彼女は喜んで応じてくれた。

 整ってしまった。外へ出るための、あの広場へ行くための準備が、本当に整ってしまった。信じられなかった。夢かと思った。同時に、恐ろしかった。いざ外へ出ようという時に、とつぜん父がもどってくるのではないか、鉢合わせてしまうのではないか、そんな想像をしてしまって。それはオレにとって、なにより恐ろしい想像だった。

 一方でオレはもう、この湧き上がる感情を抑える術を失っていた。あの人は何を語っていたのだろう。あの台の中には、どんな絵が収められているのだろう。どうして子どもたちはあんなに真剣に、あの空間に集まっていたのだろう。想像すればするほどわくわくは止まらなくなる。父への恐怖と、このわくわく。これら二項を天秤に掛けてオレは――初めて一人で、家を出た。

 何度も何度もシミュレートした、広場までの道のり。頭の中で描いた地図と実際の光景はまるで異なり、早くもオレは迷いそうになる。けれど、目印となる店や建物が、あらぬ場所へと行きかけるオレを都度都度引き戻してくれた。

 漂うパンの香りがお腹に響くハニエル亭。灯台のビームみたいに行き先を指し示してくれる宝飾店のエメラルド。父の会社のロゴが描かれた、酷い言葉で落書きされている金星の看板。ここまでくればもうすぐだった。もうすぐであの広場に、夢にまでみたあの場所に辿り着く。このまままっすぐ、まっすぐ走って、あの、大きく分厚い、鉄柵の門を超えれば――。

(行くな!)

“私”が、立ち止まった。胸を抑えて、辺りを見回して。不安そうな顔で、いまにも泣き出しそうになって。“私”は、目の前の鉄柵と、ここまで来た道とを見比べていた。心臓が、痛いくらいに拍動していた。けれど――。

(行くな、行くな!)

“オレ”は叫んだ。けれど“私”は震える手で鉄柵に触れた。まだそれを押すだけの力はこもっていない。しかしその柵は見た目に反し、軽く押せばそれだけで簡単に開いてしまう。それを“オレ”は、よく知っている。ほんの少し、ほんの少し“私”が力をこめればそれだけで、もう――。

 出会ってしまう、“彼”に。

(行くな……)

“私”の手に、力がこもる。

(ダメだ……)

 鉄のこすれる微かな音。

(やめろ……)

 開かれた広場の光。

(やめて……)

 その、中心に。中心に――。

「困ったやつだね、お前さんは」

 空間が、裂けた。目の前の。目の前の裂けた空間から、手が伸びてきた。伸びた手が、“オレ”をつかんだ。つかんで、それで、そのまま、引きずり込んだ。極彩色の世界を強い力で引っ張られ、引っ張られ、引っ張られてオレは――気づけば、白の世界に立っていた。

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