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いい加減、おかしくなりそうだった。歩いても歩いても遠い遠いあの光は大きくも小さくも変わりはしない。時間も距離感も喪失し、本当に前へ進んでいるのか、自分が歩いていのかも疑わしくなってくる。光に満たされた白の世界。歩けば歩くほどに、現実感が喪われていく。
「だから」
だからオレは、話し続けた。隣を歩く、この男に。この白の空間における、オレ以外の唯一の異物に。無精髭のサディンに。
「なんで一気に行かないんだよ、その斧使ってよ」
サディンが答える。あの空間の移動はそこまで精緻に行き先を決定できるものではなく、ともすれば時空の狭間に落ちて二度と元の場所にもどれなくなってしまうかもしれない代物であると。なるほどそういうものかと、オレは納得する。納得しかける。
「……いや、ちょっと待て。てめえ説明もなく、そんな危ない道を渡らせやがったのかよ」
「はっはっは!」
「『はっはっは!』……じゃねーよ!」
「はっはっはっ!」
サディンは何であの光点に向かうんだ。お前も果て先を目指してるのか。そうした問いにサディンは真面目に答えはせず、あれやこれやとはぐらかしていたが、それでもオレは構わなかった。こいつが何を目指していようとオレには関係ないし、何を目指しているのかに関係なく轡を並べて進めていることに間違いはなかったのだから。
悪い男ではないと、オレはそう思うようになっていた。どこかいい加減で、だらしなく、胡散臭さだけはどうしようもなく漂っているものの、悪人ではないとオレには感じられた。半信半疑であったこいつの言葉――ミカとベルの生存も、いまでは真実だと信じられた。
だからオレは、二人のことを話した。この西の果てのセフィロトで出会った、二人の友だちのことを。二人の友だちと旅した冒険のことを。話しながらに振り返り、今更ながらにありえないことの連続だったとしみじみ思う。現実離れした、おかしな出来事ばかりであったと。
しかし、現実とはなんだろうか。現実。現実の記憶。記憶はまだ、取り戻せていない。まばらに浮かぶ記憶らしきものに触れることはあっても、それは一瞬の邂逅に過ぎず、すぐにも手からすり抜けてしまう。痛烈なその、痛みと共に。痛みの伴う過去。記憶。それに――願い。オレの、願い。
「願いがな、あったんだよ」
何に代えても絶対に、叶えなければならない願い。けれど。
「でも、思い出せないんだ。記憶を失ったってことだけじゃなくて、あいつらに……ミカとベルに会って、あんまり意識することもなくなってたっていうか……」
ミカ。天真爛漫で、純真無垢で、厄介事ばかり起こす面倒な――弟みたいに目の離せない男の子。
「でも、あいつらと別れてさ。別れてすぐはそれどころじゃなかったけど、あんたと会って、ここを歩いて……そしたらさ、なんか、思い出して」
助けてやるって意気込んで、押して、走って、一緒に逃げている間は、それで手一杯で余計なことを考える余裕がなかったように思う。もしかしたらそうして没頭することで、目を背けていたのかもしれない。大切な――けれど同時に、痛みを伴う何かから、もしかしたら――。
「よく、わかんねーけど……オレ、願いに誠実じゃなかっていうか、なんか、なんかさ……なにか、大切なもんを、裏切っちまったような気がして……」
……違う。違う違う。なんだオレ、なんでこんな辛気臭い話してんだ。気恥ずかしくなる。なにか別の話題に切り替えないと。なにかないか、なにか。あ、と、頭に浮かぶ。そういえばミカのやつは、何かというとこれで遊ぼうとしていたな。ベルも含めて、三人で。そう、このお遊戯で、そうだ――。
「……しりとりでも、するか」
「お?」
サディンが、意表を突かれたような表情でこちらを覗き込んできた。顔が、熱くなった。
「違う、間違えた。なんでもない、気にすんな、忘れろ……忘れろ!」
「いいじゃないか、しりとり。おじさんは楽しそうだと思うがなあ」
「う、うるさい! ばか! こら!」
サディンがくつくつと押し殺した声で笑う。……あーもー。こんな子どもっぽい遊びをしようだなんて。それもこれもミカのやつのせいだ。あいつ、再会した時にはひどいからな、ばかこら。
「……おじさんはな、まあそれなりに長い間ここにいるんだ。だからまあ、お前さんよりはここのことを理解しているつもりだ」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くサディンを見上げる。
「ここは――セフィロトはな、時間も空間もねじ曲がった場所だ。一万里もかけ離れた二点を折り曲げてひとつに、寸毫の刻を一千の時間に、千年の先と万年の以前を同時に、良かれ悪しかれあり得ない重ね合わせを実現してしまうって、そんな常軌を逸した場所だ。だがそんな不可思議なセフィロトにも、ひとつのルールが存在している」
「ルール?」
「願いがなければ訪れることもできないってルール」
「願い……」
「願い。結実し、現実に現すことを至上の命題とする祈り。……だがな、おじさんは思うんだ。見つめるべきは、願いそのものじゃないってな」
「……どういうことだよ。大事なのは、願いなんだろ?」
「願いも大事さ。だが、見つめるべきは願いそのものじゃなく、なぜその願いを抱くに至ったかだ。大切なのはそこさ。抱く願いが真実であればそこには必ず、ある重要な要素がその裏に存在しているはずだ」
「ある、要素?」
「想いだよ」
「……想い?」
「どんな願いであろうと、願いだけがひとりでに生じるわけじゃない。“貧乏で生活が苦しい”から“金がほしい”とか、“弱くてばかにされる”から“強くなりたい”とか、願いの裏には願いを生み出す想いが隠れているもんさ。そして、想いを満たす解法は存外ひとつってわけじゃなかったりもする」
願いの裏の想い。オレの、想い。オレの想いから生じた……生じていたはずの、願い。
「いいか、願うことが悪いとは言わない。そいつは確かに前へと進む活力になるだろうさ。だが、願いのための願いはいずれどこかで破綻する。だから、見つめ直してやりな。こんなとんでもない所に来てまで叶えたいと思ってしまったお前さんの願いの、その発端となった想いってやつを」
「……見つけ、直せるかな」
「直せるさ。なに、心配することはない。想いは時だって超えるものだからな」
未だに大きさを変えない光点を目指しながら、隣を行くサディンを見上げる。サディンは、オレを見下ろしていた。無精髭に囲まれた口を、いかにもニヒルとでもいったように歪めて。……軽く、本当に軽く、くすっと笑みがこぼれてしまった。
「……似合ってねーぞ、顔に」
「はは、辛辣だな」
「でも――」
でも――そこに続く言葉を、オレは素直に口にしようとした。本当に、素直な心地で。しかしその言葉が声になることはなかった。オレは足を止め、その場で振り返りかけた。しかしその動きはサディンによって止められた。サディンが片腕で、オレの動きを制御する。
「影が濃くなって来たんだ、光の近くまできた証拠さ」
「でも……!」
聞こえたんだ。確かに、オレの耳に、その呼び声が聞こえたんだ。あいつの声が、あいつがオレを呼ぶその声が聞こえたんだ。ほら、今度こそ間違いない。さっきよりもはっきりと、はっきりと聞こえてきた。
リリ、助けてって、ミカの声が!
「離せよサディン、ミカが、ミカがそこに――」
「いない。あれは影の呼び声だ。お前さんを引きずり込むための、ティファレトに仕掛けられた罠さ」
「……だけど」
「さっきも言ったろう? おじさんはそれなりに長くここにいるのさ。ここの仕組みも理解している。断言してもいい、お前さんの友達は背後にゃいない。お前さんを待っているのは、あの光の先だ」
「……ん」
気にならない、訳じゃない。すぐにも振り返って確かめたい、そんな気持ちはもちろんある。でも。オレをつかむ、この腕。この腕の、力強さ。そこにうそは、ないように感じた。信用できる、気がした。だからオレは、進む。再び先に、光の下に。さらに大きくなる呼び声に耳を塞ぎながら、光点に向かって歩く。未だに大きさを変えない、その光点に向かって――。
いや、違う。光点に、違和感。これは……大きく、なっている?いや、違う。それも違う。これは、距離が縮まっているんだ。近くまで来ているんだ。光の放つまばゆさは一層強まり、背後から聞こえる声はほとんど叫び声となって塞いだ耳を貫通してきたが、けれど、確かに、本当に、太陽のように遥か彼方と感じられた光が、いまやすぐそこにまで迫っていた。
「もう少しだ、がんばれ」
励ましの声をサディンが上げる。もう少し、本当に、あともう少し。終わりの見えなかったゴールに、もう少しで手が届く。そうした安堵が心の端に浮かんだ瞬間――ふと、気になった。
サディンは、長い間ここにいると言っていた。でもそれって、おかしくないか。だってここは――セフィロトは、七日の間しか滞在できないんじゃないのか。そのための炎の壁なんじゃないのか。でもサディンはこの白の空間のことも、セフィロトのこともオレなんかよりもずっと詳しく知っている様子で。
サディンは、いったいいつからここにいるんだ。
疑問が、足を止めた。サディンの身体が、オレよりも前にでた。直後、あれだけ騒がしかった声が一斉に消え去った。静寂――を、破った、声。ミカのものではない。背後から響いた知るはずのない――しかし、どうしようもなく胸を締め付けてくる、“彼”の、声が。
――どうして見殺しにしやがった。
振り返っていた。考えるよりも先に、声の方へ振り返っていた。――そこには、少女がいた。めそめそと泣きじゃくる一人の少女。知らない――知りたくもないやつ。誰だ、お前は。そう、思う。思うだけで、声はでない。声はでず、身体は硬直し、ただ、少女を見ていた。めそめそと泣きじゃくる少女を見て、そいつが、涙でぐしゃぐしゃに、ぐじゃぐじゃになった醜い顔で、醜悪な顔で、憎々しい顔で、殺したくなる顔で、オレを覗き見、口を開いたのを、見た。そいつが、言った。
ごめんなさい。
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