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「あのね渡し守さん。ボクね、いろんなところを旅したよ」

 深く深くローブを被った渡し守。深海のように光の届かないその裡には、どのような面貌が秘されているのか伺えない。ボクはしかし何故だか声を張り上げる気にならず、機械のように櫂を漕ぎ続ける渡し守に声を潜めて話しかける。

「たくさんの大人の人達に襲われていたリリを助けたんだ。首だけで川に落とされちゃったアドナも助けた。子どもの楽園でもみんなの願いを叶えて助けようとしたんだよ」

 風はなく、川には波一つなく、ボクの話す声以外に音という音がここにはなかった。水を掻く櫂すらも波紋を立てることはなく、ただ景色の動きだけが、時の止まっていないことを証明していて。

「でもね、願いはいまも叶ってないの。ボクの願いは、もっともっと遠くにあるの。だって、だってね――」

 伺うように、渡し守を見上げた。

「ボクの願いは――」

 ローブの奥の、光の届かないその暗闇を。

「渡し守さんは……無口だね」

 渡し守さんはなにも言わなかった。ボクも口を閉じた。そうして一切の音が消えた。景色だけが流れていく。音もなく、ボクらを乗せた小舟が果てなき川を進んでいく。

 抱えたものを見た。指と指とをこすりあわせ、右の小指に触れようとして、存在しないその場所を通り過ぎ、胸にかかえるものを擦った。胸の中のベルを擦った。無言の時間が続き、その間ずっと、ずっとずっとボクは、胸の中のベルを擦り続けていた。

「あ」と、ボクは声を上げた。何かが水中から浮かび上がってきたから。それは、魚ではなかった。鯨でもなかった。それは、首だった。女性の首。うつろな瞳、乾いた唇、生気の失せた、女性の面。女性の生首が、ボクを見つめていた。

 それは、ひとつではなかった。女性の生首は、次々と浮かび上がってきた。音のない川を女性の生首が埋め尽くしていく。隙間なく、びっしりと、女性の首が密集する。それらすべてが、こちらを見ている。音なく進む小舟に掻き分けられながら、散らされながらもこちらを向く。どこへ行っても、どこまで行っても、こちらを向く。胸の内のベルを抱きしめる。潰れよとばかりに強く、強く。

 渡し守さんに、名を呼ばれた。

「どこへ行きたい」

「ボク、は」

 右手が何かを握っていた。小指を失った右手が何か太く、荒々しい縄を握っていた。縄はボクの頭上を越えて、上へと伸びて、伸びて、曇天の空のその更に上までも伸びていた。曇天の空に隠されたものへと、結びついていた。

「ボクは――」

 何かを言おうとした。ボクは確かに、何かを言おうとした。――しかし、ボクは何も言えなかった。何を言い出すこともできなかった。“いままでと同じように”。

 渡し守さんが櫂を止め、こちらを向いていた。深く被ったローブに手を添わせ、暗闇に覆われたその面を顕にした。顕となったその双眸で、ボクを見下ろしていた。何も言わずに、ただ、ただ。そして、渡し守さんが、頭を、垂れた。――ボクは、縄を、引いた。

 空が、裂けた。音が、生まれた。鉄の塊が、落下する。斜めに設えられた刃を先端として。そして、そのまま、そして。

 渡し守さんの、首が――。

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