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「よう、酔いは覚めたかい」

「……あ?」

 頭上から投げられた問いかけに、頭がくらくらとした。前後左右もよく判らない。喉の奥もねじ曲がっている感じがして、すこぶる気持ちが悪い。「返事を聞くまでもないな」問いかけてきたものと同じ声が、同じく頭上から発せられる。「ほら飲め」と、口に何かを当てられた。言われるがままに口を開き、注がれるそれを口にする。獣の臭いがした。

 少しずつ、意識がはっきりとし始める。頭上からオレを覗き込む男の顔。誰だっけ、このおっさん。無造作な無精髭に、わずかに上がった口の端。ああ、そうだ。乾燥肉の。記憶が蘇っていく。教えてもらった、男の名。そうだ、確かこいつは、そうだ――サディン。

「疲れもあったんだろうさ。空間の移動は肉体への負担も大きいからな」

 そうだ、オレはこいつの、サディンの提案を受け入れたんだ。手を組まないかという、その提案を。サディンは言っていた。オレの友達――ミカ、それにベルは生きていると。自分の仕事を手伝ってくれたならミカとベル、二人を助けだすその手伝いをしてやると。

 ミカとベルが生きている。信じがたい発言だった。だってオレは見たのだ。ミカが、ベルが、あのばかでかい蛇に呑み込まれたのを。ミカ、ミカの……腕が、千切れ飛んだ、瞬間を。無事なはずがなかった。適当なことを言うなと、頭に血が上りもした。けれど――もし、本当に生きているなら?

 断る理由などなかった。サディンのいう仕事がなんであろうと、断るなんて選択肢はありえなかった。もちろん、こいつのことを完全に信用したわけではない。なにをさせるつもりなのかも判らないし、無精髭は胡散臭いし、やっぱり全部うそなのかもしれない。オレを利用するだけのつもりなのかもしれない。それでも、他に宛がないのも事実。だったら断る理由なんて、あるわけない。

 助けられるかもしれない。それが、すべてだった。

 そうしてオレはサディンの手を取り、サディンがその腰に備えた手斧で切り開いた空間の裂け目へと飛び込み、あの極彩色の空間を渡って――そうしたら目が回って、気持ち悪くなって、意識を失って――それで、ここは、どこだ?

「幾何対黄金のイェツィラ――その中心部に位置するティファレトの城塞さ」

「ティファレト……?」

 言われ、辺りを見回そうとする――が、その動きは即座に止められた。

「振り返ることはお勧めしない。自分の影に取り込まれるぜ。俺たちが目指すのは――あっちだ」

 振り返ろうとした動きを止めた大きくごつごつした手がオレの頭に触れたまま、異なる方向へと首の向きを誘導する。サディンが示した目指す方向、目的の場所に視線を向けたオレは、その余りのまばゆさに目を細める。

「眩しい……」

「そこは我慢だ。ま、じきに慣れるさ」

 強く、目を焼くような光の塊。まるで太陽のようなそれ。遥か彼方に位置するその光点を中心にオレは、自分がいまいる空間を見回した。何もなかった。白い、ただただ白い空間が、ただのひとつの異物もないままに広がっている。それはとてつもなく広い――ような、気がする。はっきりとは判らない。目印となるようなものが本当になにひとつ、ここには存在していなかったから。あの光点がどれだけ離れたところにあるのかも、判然としない。

「お前さんの友達な、あの光の先に囚われてるはずだぜ」

 上体を起こす。指先をまぶたにあて、押すようにして閉じる。一、二……三秒。目を開く。遥か前方の光の点を見据える。目を細めたがる肉体の反応を御して、しっかと目を見開き、目的の場所を見据える。立ち上がる。視線はそのままに。

「もういいのかい?」

「……あんたの目的地もあの光の点ってことでいいのか」

「ああ、その通りさ」

「なら、行くぞ」

 言って、オレは歩き始めた。いまにも走り出してしまいそうな早足で。背後から、サディンの小さく笑う声が聞こえた。

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