יח

 腕がない。ボクの腕が。どこにあるの、ボクの腕。ボクの、ボクの、ボクの腕。腕がある。知らない腕。肘から先の破けたところに、皮膚の下から生えた腕。知らない、知らない、誰かの腕。だってこんな細くて痩せた、“小指の欠けた”腕だなんて、そんな腕は、ボクのじゃない。どこ、どこ、ボクの腕。どこにあるの、ボクの腕。

 腕を探して、ボクは駆けた。薄暗く、埃の積もる邸宅の中を闇雲に、四方八方駆け続けた。腕はなかった。どこにもなかった。自分の腕などどこにもなく、自分以外の誰かの腕が、腕のあるべきその場所に、それが己と主張するかのように脈動していた。欠けた小指が己を主張し、その主張から耳を塞ぐべく、拳を握って存在しない小指を隙間に隠した。

 部屋はあった。部屋はあった。いくつもの部屋はあった。腕はなかった。見覚えはなかった。見覚えはないけれど、どこに何があるのかは判った。見知らぬ誰かの邸宅だけれど、そこに息づく気配と生活を知っていた。

「これ、は」

 絵があった。絵が飾ってあった。女性の絵。赤子を抱いた女性の絵。懐かしさなど決してない、懐かしさを覚える女性の。知らない。知っている。その声、その微笑み、その暖かさ。そして、その――。

「あ、だめ」

 亀裂が走った。絵の中に。絵の中の女性に。絵の中の女性の首に。亀裂が走った。首から。液体が、流れ出した。絵の中に、赤い、液体が。女性の皮膚から、血の気が失せていく。土気色に変わっていく。液体は止めどもなく溢れている。溢れ、溢れて、胸の赤子に降り注いだ。赤い液体が赤子の頭を、身体を、足を、止めどもなく濡らし続けていく。止めどもなく、赤く染めていく。目に、口に、流れ込んでいく。血を含んで赤子が、ふくふくと膨れ上がっていく。生命を、強めていく。

 だめだと思った。いけないと思った。こんなことは間違っていると、正さなければいけないとボクは思った。けれどボクは、何もしなかった。何をすればいいのか判らなかった。何かをすることが怖かった。何をするでもなく立ち尽くして、堂々巡りに頭の中を巡らせた。そうだ、腕を探さなきゃ。こんな腕は違うから。ボクの知らない女の人をボクは知らない。どうして小指がないの。どうして懐かしいの。どうして、どうして。

 どうして、ぼくは――。

「ミカ!」

 絵画の変化が、止まった。女性の首は斬られていなかった。女性は生きていた。それは知らない女性だった。首を下げた。腕の中を見た。生首が、抱きかかえられていた。

「……ベル、どこにいたの?」

「ずっと側に。お前の最も近い場所に」

 ベルはいう。ベルの言葉はむつかしい。何を言っているのかわからない時がたくさんある。でも、ベルはボクの友達。大切な友達。だから、ベルがそう言うのなら、その通りなのだと思う。だってベルは、ボクの友達だから。

「ベル、腕がないの。ボクの腕がないの。たぶん、ここにはないの。だからボク、外に行くの。外に行かなきゃいけないの」

 ベルを抱えて、屋敷を走る。道は判っている。知らない場所だけれど、道は知っている。だから走る。出口に向かって、ボクは走る。扉を開けた。外に出た。外は、水に囲まれていた。一面が水で、川だった。屋敷の周りを、ぐるりと回った。どこへ行っても、水しかなかった。水しかなくて、どこにもいけなかった。腕を探しに行けなかった。それはとても、困ってしまうことだった。

「ミカ」

 ぐるぐるぐるりと屋敷の周りを回りに回って、ボクはそれを発見した。不揃いに並べられた板の橋が、川の方へと突き出しているのを。そこに浮かんだ、小さく簡素な木組みの小舟を。小舟の先端に立つその人を、ボクは見つけた。

「何があっても、私を手放すな」

 顔の見えない、渡し守が、見えない顔で、ボクを、見ていた

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