טז

 また、空を見ていた。木々と葉とによって細かに裁断された空。陽の光はなく、辺りはすでに夜の帳が落ちている。どれだけの間、あの不可思議な空間を転がっていたのか。一瞬であったようにも、数日間転げ続けていたようにも感じる。ともあれいまは、転がっていない。いまは地面に倒れ、空を、見ている。

「よう、災難だったなお前さん」

 全身に緊張が走った。腰を捩り、身体を回して、声の聞こえた方向に向けて構える。

「そう警戒しなさんな――と言っても、むつかしいかね。こんなおじさんを前にしちゃ」

 ぱちぱちと火の粉の爆ぜる焚き火の側に、一人の男がいた。火の光を浴びたその顔には不揃いな無精髭が、まばらに生えている。男はこちらを見るでもなく、ぱちぱちと爆ぜ続ける焚き火に薪をくべていた。

 それでもオレは警戒を解くことはせず、男と男の周囲を入念に観察する。何よりも目に付いたのは、男の腰に備えられた斧。さして大きなものではなく、大人の男性であれば片手で優に振るえそうに見える。けれど使い込まれていることが一目で判るその雰囲気からは、大きさや見た目だけでは測れない、空恐ろしいものが感じられた。

「生ぬるい水と数日前まで新鮮だった乾燥肉さ。口にしたけりゃ好きにやりな」

 焚き火の側に置かれている袋。その袋に視線を向けていると、男がやはりこちらを見ないままにそう言った。そして男は焚き火をいじるために握っていた細い枝を火の中に放り込むと、そのまま寝転がってしまった。無防備な格好で、背中を向けて。

 よく判らなかった。おそらくあの時、あの二人組の男たちに襲われた時、「飛び込め」と言ったのはこの無精髭の男だろう。であればあの空間の亀裂、どのような方法でかは判らないけれど逃げ道を作ってくれたのも、おそらくはこの男の仕業なのだと思う。でも、なんのために? その理由が、まるで判らなかった。この男は、一体、何者なのか。ただ、それよりも――。

 水と、食料。袋のなかに入っているという、それ。ここまでずっと感じることのなかった飢えと乾き。それがいまは、強い衝動となって己自身に訴えかけてきた。ゆっくりと、近づく。そろそろと、音を立てずに、焚き火の側へ。男は動かなかった。もう一歩、近づく。男に反応はない。袋を手に取り、開ける。そこには確かに男の言った通り、乾燥肉と動物の革を用いた水筒が入っていた。男の方に意識を集中しながら、それらに手を付ける。

 肉は、硬かった。本当に硬くて、噛みちぎれないかと思った。口に入れてからも硬くて硬くて、顎が痛くなる程だった。水も、確かにぬるかった。水筒のせいかそもそもの水のせいか獣臭のえぐみが気になり、飲んでいると度々むせそうになった。それをリリは、夢中になって噛み、飲んだ。幾度も噛んで、幾度も飲んだ。

「ごめん、ごめんなさい……」

 いつしかオレは、謝っていた。謝りながら噛み、謝りながら飲んでいた。謝るという意識も、噛むという意識も、飲むという意識もなく、一連の動作を繰り返していた。ただひたすらに、そうしていた。ごめんなさい、ごめんなさい。そうオレは、謝り続けた。

「お前さん」

 声。前から。寝転んだ男から。慌ててオレは、目元を拭う。

「察するにお前さん、叡智の蛇に大事なものを獲られたな?」

 背中を向けて寝転んだまま、男が話を続ける。叡智の蛇。男はそう言った。確かアドナも言っていた。識らしめる者であり、同時に呑み込み留まらせる者と。だから、気をつけなさいと。叡智の蛇――蛇。緑の、瞳。

「いや、詮索する気はないんだ。ただ、おじさんみたいな人種にとっちゃ出会いは貴重でね。貴重な機会を大切にしておきたいのさ。で、だ。お前さん、何を獲られたんだい?」

 オレは答えない。男は一人で話を続ける。背中を向けたままで。宙に立てた指で、ふらふら円を描きながら。

「その様子だと……物じゃあないな、人か。大切な人。家族か、兄弟か、それとも――」

 指がぴんと、一点に止まった。

「友達か?」

 ――オレは、答えない。

「いやすまないすまない、本当に詮索するつもりはないんだ。ただひとつ、教えてやった方がいいかと思ってね」

 頭を掻きながら男が、上体を起こした。そして、覗き込むようにして首を回し、こちらの方へと視線を向けた。

「その友達な、生きてるぜ」

 言葉にならない、声が漏れた。握りしめた乾燥肉が、ぱきりと乾いた音を立てる。男が口角を上げた。口の端を上げて笑みを見せ、無精髭の生えたあごには指を添わせて、言った。

「なあお前さん、おじさんと手を組まないか?」

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