טו
「待って……!」
腕を、伸ばしていた。空に向かって。倒れ、横になっている。自分。背中には、土。緑色。木々、生い茂る。遠く差し込む陽の光。薄暗い空間。たくさんの木。木と木。森。森のなか。森のなかに、いる。オレは、いる。……なぜ?
「……ミカ」
そうだ、ミカだ。ミカを助けないと。助けるんだって、オレはそう決めたんだから。ミカ、どこだ。どこに行った。また何か見つけたのか? まったく、あいつは。勝手に動くなって何度も言っただろうが。ベルもベルだ。ベルがミカを叱らないから、ミカが言うこと聞かないんだぞ。おい、聞いてるのか。聞いてるのかって聞いてんだよ、おいベル。
「……ベル?」
なんだよ、ベルまでどこ行ったんだよ。ミカと一緒か? なんだよ、一言くらい言い残しとけっての。お前だってそんな格好なんだ、一人じゃなんにもできないだろ。オレがいなきゃ何もできないくせに。なにやってんだよ二人とも。どうしてこんな――こんな森のなかに、オレは一人でどうしてここに一人でいるんだ?
「……あ?」
何かが落ちていた。土と葉のコントラストの中に、異彩を放つある物体。オレは、なんの警戒もなしに、その落ちているものに近寄った。だってそれはただの落とし物で、オレにはなんら関わりのない、ただの落とし物のはずだから。オレにとっては特段気にする必要もない、ただほんのちょっとした好奇心で、それが何か確かめるための、それだけのものだったから。……それだけのものの、はずだったから。
「……あ」
後ずさっていた。後ずさって、バランスを崩して、尻餅をついた。そこに落ちているものが何かを認めた瞬間、足から力が抜けていた。拳を握る。握った拳で、胸を叩く。機械的に、何度も、何度も、拳で胸を打ち付ける。そこに落ちていたのは――腕だった。人の腕。子どもの、手と、指の、ついた、腕。
ミカの。
「……うそだ」
思い出した。全部、思い出した。空を見上げる。遥か遠く、高い空。あの空から、落ちてきたんだ。あの空にあった地面が割れて、それでオレは、ここへ。あの、蛇――巨大すぎて確信は持てないものの、おそらくは蛇であった、何か。あれのせいで、オレはここへ。それで、それから……ミカは、ベルは。
なんで、なんでだ。なんでオレは、すぐにもミカの手を取らなかった。なんでオレは、先に行けと叫ばなかった。なんでオレは、あいつを助けてやらなかった。なんで、なんで。なんでオレは、“また”……!
胸を叩く。叩く。痛みも、衝撃も、感じない。感じなくとも、叩く。叩いて、叩いて、叩く。なぜそうするのか、判らなくとも、叩く。止められなかった。止めたいとも思わなかった。止めることができないままに、オレは、自分を、叩いて、叩いて、叩いて、叩いて――。
「なあ、ほんとにこっちであってんのか?」
「間違いない。確かにこちらから聞こえた」
「はてさて、どんな美女が待ち受けてくれているのかね」
「冗談言ってる場合か。気を引き締めろ、奴かもしれないぞ」
森の奥から、声が聞こえた。聞き覚えのない大人の声が、二人分。二人の大人はなにやら会話をしながら森の中を進んでいる様子で、その声は次第次第に、こちらの方へと近づいてきていた。拳の動きが止まる。服をつかみ、自然と息を殺していた。目の前の木々が、扉のように開かれた。
「おいおいたまげたね、こんなところにガキンチョがいるぜ」
そこには、男性がいた。顔の下半分がもじゃもじゃのひげに覆われた男性。ごつごつと岩のような印象を受ける、荒々し気な男が。角の生えた兜を被り、鎖の鎧をまとった格好で。値踏みするような目つきで男がじろじろとこちらを見る。思わず身を引く。すると男は、何が楽しいのか口角をわずかに上げた。いやな、態度だった。
ひげの男の背後から、また別の男が現れた。先の男に比べてやや線の細い、額に斜めの傷が入った男。傷の男がひげを押しのけ、オレのすぐ目の前まで近づいてきた。呼吸が、更に浅くなる。
「おい、野郎の仲間かもしれないぜ」
「まさか、まだ子どもだぞ」
「そう油断させておいて背中からブスリ! ……なーんてな」
「お前はまたそうやって……」
二人の男が言い合っている。その光景をオレは、何もせずにただ見ている。呼吸が浅い。息が苦しい。
「きみ、なぜここにいる。ここで何があった」
傷の男が問いかけてきた。何か、応えなければ。そう思いながらも、声がでない。いまさらながらに走った痛みが胸の奥を圧迫して、呼吸がうまく整わない。傷の男が、手を差し出してきた。
「この森はいま、とても危険なんだ。こんなところに一人でいるべきではない。我々に付いてきてくれるね?」
「ったく、かったりぃな」
手を差し出した傷の男を押しのけ、ひげの男が前に出る。
「さっさと連れてっちまえばいいんだよこんなガキはよ」
そしてその手で無遠慮に、オレの胸ぐらをつかんできた。「あ」と、思った。“以前にも”こんなことがあった。その時のオレは、どうしただろうか。その時のオレになく、いまのオレにあるものは。オレに、できることは――。それは、意識による行動ではなかった。
「……てめえ!」
男の手から、赤い雫が垂れている。ぽたぽたと、ぽたぽたぽたと、垂れた雫が地面を赤く染めている。その血の赤と同じ色が、オレの手元にも付着していた。オレは、ナイフを握っていた。握ったナイフで、男の手を、知らぬ間に斬りつけていた。ナイフを構えて、立ち上がっていた。呼吸が浅く、荒く、痛い。
「おい、なにをするつもりだ!」
「うるせえ!」
ひげの男が、腰の獲物を引き抜いた。オレの持つナイフなんかとは比べ物にならない長さの、刀身の所々が欠けている鉄の剣。血濡れた手を握り、男がその暴力の塊を構える。
「よせ、まだ子どもだぞ!」
「年齢なんざ関係ねえ、こいつはてめえの都合で斬りかかってきやがったんだ。だったらこいつは戦士だ。相手が戦士なら、こいつは生命の奪い合いだ」
「馬鹿を言うな、それはもはや古き掟だ。我々は兵士になったのだぞ!」
「魂は戦士のままだ!」
ひげの男がにじり寄ってくる。呼吸が更に早くなる。剣の切先が、目のすぐ前まで迫ってくる。殺す気だ。殺す気だと感じた。男はオレを殺す気だと。なら、迎え撃たなければ。迎え撃たなければ、すべてを奪われる。一方的に、全部、奪われてしまう。なくなってしまう。だから、迎え撃て。その手に握ったナイフは、そのためのものだろう。
だというのに、頭では判っているのに、どうしても身体は動かなかった。身体は震えて、前に進み出せなくなった。このナイフの鈍い光が、相手の中へと収まる光景を想像すると、それだけでもう、動くことが――。
ひげは違った。ひげはそれが日常であるかのように剣を構え、迷いのない眼光でこちらを見据えていた。オレには、なにもできなかった。ひげが、剣を振りかぶった。――その時だった。何かが、高速で、飛来したのは。
「これは――」
「野郎の!」
何かが、飛来した。オレとひげの間を割るように、すさまじい速度で。それが何かを確かめる暇はなかった。暇もなかったし、意識もそこには向かなかった。視界が捉えていたのは、空中に浮かんだ奇妙な裂け目。歪んだ光景の映るその裂け目から、「飛び込め!」という声が聞こえてきた。考えることはなかった。オレはすぐに、その裂け目に飛び込んだ。
飛び込み、完全に裂け目の内側へと身体を移したその時オレは、地面に転げた友達の腕を視界の端に捉えた。だがしかし、裂け目はすぐにも閉じ塞がり、後はただ、極彩色にうねり回る光景に目を回しながらオレは、不可思議なその道をどこどこまでも転げていった――。
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