יג

「こっちだ!」

 オレは走った。オレたちは走った。あのばかピエロたちの家から飛び出てからも、オレたちは走り続けていた。背後からはあの影たちが、いまなおこちらを追いかけている。頭のないその姿からは、なにを考えているのか、そもそもなんらかの意思があるのかも読み取れない。だからオレたちは、オレは走った――先導者となって、ミカとベルを誘導しながら。

「こっち!」

 どういうわけか、オレには判った。どこをどう進めば目的地に辿り着けるのかが。複雑な裏路地がどのように交差しているのか、オレにはなぜかそれが判った。――この道に、オレは、見覚えがあった。

「そこを右だ!」

 そう、ここを右に曲がる。ハニエル亭から漂う焼きたてのパンの匂いを嗅ぎながら、十字路を右に曲がる。いつか口にしたいと思いつつなんとなく機会を得られないでいるそのパンの香りに後ろ髪を引かれながら、右に曲がって先へと進む。

「下るぞ!」

 エメラルドの装飾が綺羅びやかな宝飾店の前で、坂を下る。ウインドウに並べられた宝石が陽の光を反射した、まるで灯台のビームみたいな光の束を背に負い下っていく。

「そうだ、このまま! このまままっすぐ行けば――」

 そう、後はまっすぐ、まっすぐ走っていく。大通り、細い路地、猫の通り道をまっすぐ走る。そうすると右手に、何を宣伝しているのかいまいち内容の判らない、無造作に落書きされた金星の看板が飾られている。そうすればもうすぐ。もうすぐ目的の場所に辿り着く。このまままっすぐ、直進すれば――。

『行っちゃダメ!』

 足が、止まった。

「リリ?」

 目の前には、すぐ目の前には、目的地。判っている。オレは理解している。この先へ進み、次の場所へと渡れば、影たちは追ってこれないということをオレは理解している。それなのに、なぜ。どうして、足が。“あの鉄柵の門を見た瞬間、これ以上ダメだ、と”。触れる。懐に。懐にしまった、ナイフに。

「リリ、早く!」

 影が迫ってきている。もうすぐそこまでに。……そうだ、何をやっている。助けるんだ、助けるんだろう。オレが、ミカを、ベルを、助けるんだって、そう決めたんだろう。なら、行け。行けよ。行けるはずだろ、お前がお前であるのなら。“だってオレは、違うんだから”。

「リリ!」

 足が、動いた。走り出す。滑り込む。鉄柵の門を、くぐる。くぐって、阿吽の呼吸で、ミカと共に門を閉める。閂を差して、鍵にする。影の群れがぶつかってくる。鉄柵がぎしぎし軋んで前後に揺れる。もみあいへしあい影たちは、次々門へとぶつかってくる。「長くは保たないな」と、ベルが冷静に状況を解説する。早々に、次の場所へと渡らなければならない。次の場所へ渡るための道を、見つけ出さなければならない。

「これ、なにかな」

 ミカが、言った。広場の中心で。広場の中心に置かれた、小さく、簡素な、木組みの舞台のその前で。幾枚の紙をその裡に収めた、小さな小さな小宇宙のその前で。

 ――ああ、これだ。これが、“道”だ。

「かみ、しばい……」

「紙芝居?」

 繰り返してミカが言う。三枚重ねに閉じられた、板と板と板の扉に触れながら。心臓が早鐘を打つ。知らない。オレは、こんなものは知らない。見たことも聞いたことも、絶対にない。ただの、みすぼらしい、木製の、組み立てられた、よく判らない、判るはずもない、何か。ただそれだけ。それだけに過ぎないものだ。そのはずなんだ。でも、でも……いやだ、怖い。怖い。

「……これか、道化師たちが言っていたのは」

 ベルが言う。三枚重ねの扉を見つめてベルが言う。どうやらそこには、鍵がかけられていた。ダイヤル式に四桁数字を入力する、おもちゃみたいなパッドロック。聞き出すことのできなかったパスワード。閉ざされた先への道。

 しかし。

「ミカ、お前なら判るはずだ」

 鍵に触れる、ミカの手が止まる。ミカがベルを見つめる。

「……ベル、どうしてそんなことをいうの? なんで? ボク、わからないよ」

「いや、お前には判る。判るはずだ。これはむしろ、お前にしか判らない数字なのだから」

「なにを言っているの? ベルが何を言っているのか、ボクにはぜんぜんわからない」

 大きな音が、背後から聞こえた。鉄柵の方から。ひしめきあった影。影に押された扉。その圧力を受け、折れかかっている門の閂。

「ミカ、よく聞け。順番だ、ひとつずつだ。慌てることはない。ひとつ、ひとつ、向き合っていけばいい」

「でも、ベル……」

「リリがいる。私も付いている。ラトヴイームも、お前を待っている」

「けど、けど……」

「ミカよ」

 淡々と、けれど冷たさは感じない、声色。

「約束を、しただろう?」

 震える手。その手が鍵を、確かにつかんだ。確かにつかみ、ひとつ、ひとつ、ダイヤルを回した。かちり、かちりと、金属と金属が嵌まる音が、微かに響き渡る。かちり、かちりと断続的に、けれど確かにその手は指は、確かな正解へと向かっていた。その一部始終を、オレは見ていた。背後に轟く影の音と、目の前の少年が拓こうとする音とを聴き比べながら、オレはそれを見続けていた。けれど、でも、オレは――。

 鍵が、落ちた。扉が、開いた。

「急げ!」

 白紙の紙束が収まった、舞台の中。小窓のように開かれたその場所めがけ、ミカが勢い手を伸ばした。伸ばしたその手は弾かれることなく、紙の向こうへ潜っていく。指先、手首、ひじから肩へ、ミカの身体が潜っていく。ミカの抱えるベルも共に、向こうの側へと移っていく。その姿が、見えなくなっていく。

 でも、オレは。

 背後からの音が、さらに大きくなっていた。鉄柵が、大きく歪んでいた。

「リリ!」

 手が、伸びていた。差し出されていた。身体の向きを反転させたミカが、頭を出して、肩を出して、腕を伸ばして、その手の先を差し出していた。眼の前まで、鼻の先まで。その空疎が、その断絶が、果てしもなく遠かった。閂が、さらに折れ曲がっていた。

 動かなければいけない。逃げなければいけない。そんなことは判っていた。でも、動かない。身体が動かない。足が動かない。動け、動けと念じても、脳と遮断された肉体はより根源的な命令に従って。――いやだ、怖いに、従って。違う、泣いていない。泣いてなんかいない。オレは泣かない。泣いたりなんか、しない。しないんだ。

「あ……」

 かろうじて、動いた。手だけが、腕だけが、動いた。動かせた。鉛でも詰められたかのように異様に重くて、痛くて、苦しいけれど、それでもなんとか、腕を伸ばせた。

「あ、あ……」

 騒がしかった。周囲の空気が膨張して、歪んで、耳の奥が圧迫されて、小さな音まで騒がしかった。自分の内側も、外側も、世界は音と振動に満たされていた。閂が破られた。鉄柵がひしゃげて開いた。影の群れがなだれこんできた。ミカが叫んだ。声を限りに叫んで呼んで、指の先をぴりぴり揺らした。それが、遠い。まだ遠い、まだ重い。 

 ばか、こら、ばか、こら、ばか、こら、ばか、こら! 浮かぶ二語を、繰り返す。言葉の槌で己を叩く。まだ遠い、まだ重い。開いた舞台の木枠の小窓、白紙の束のその先が未だに遠く、未だに遠い。でも、でも、でもでもだ――“オレはでも、私じゃない”。

 ミカの手に、触れた。


 いいや、どこまで行こうとお前はお前だ。


 それは、一瞬の出来事だった。永遠に等しい一瞬。音はすべて、後から訪れた。地面が割れる音。舞台が砕ける音。巨大な何かが、空を裂く音。そして、そして――それが、千切れる音。音は、後からだった。感触は、すぐにも訪れた。指の先から伝わるその感触は、すぐにも、判った。

 ミカの腕が、飛んでいた。

 目の前を、地面を割って現れた巨大な何かが目の前を、ミカも舞台も巻き込んで、通過した。目の前が、それいっぱいになって、全容も、なにも、まるで、見えない、それは、早く、早く、高速で、移動して、表面は、鱗で、ぬめりのある鱗で、びっしりと、びっしり、覆われていて。

 緑の瞳の、蛇。に。ミカが。呑まれた。

 絶叫を――上げる間もなかった。地面は砕けて、地面はなかったから。そこにはもう、思考の入り込む余地などなかった。ただ、腕を伸ばしていた。無数の影と共に崩落する空間を落下しながら、ミカのいたはずの場所に――“彼”のいたはずの場所に、手を伸ばしていた。

 落ち行く最中、オレはつぶやいていた。つぶやいたことも気づかぬままに、ただ一言、その名をつぶやき、呼びかけて、後は、意識を、閉じる――。


 ガフくん。

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