י

「リリ、足が止まっているようだが」

「……あ?」

 ……目の前には、どこどこまでも続く水晶の床と橋。星の海と、星の空と、興奮気味に橋の上を滑っているミカの姿。そうだ、オレたちはアドナを助けて、アドナに橋を架けてもらったんだ。それでオレたちは果て先へ向かうために橋を渡っていて、それで――。

「記憶を取り戻したか」

 胸の裡で、ベルがいう。記憶……あれが、オレの記憶? 判らない。目覚めた直後から靄の向こうへ離れてしまう夢のように、もはやその輪郭もはっきりしない。ただ、ただそれでもかろうじて覚えているのは、そこに見えるすべてになんだか、なんだか無性に、泣き出したくなってしまいたくなるような何かを感じて――。

 ……いや。いや、いや、いや、いや! 違う、そんなはずはない。だってオレは泣かない。何があろうと、過去がどうだろうとオレは絶対に泣きはしない。泣きそうになんかもなったりしない。泣かないんだ、オレは、絶対に。絶対に、絶対に。

「……なあ、なんで判ったんだ」

「質問の意図が不明確だが」

「うっせーな……あの時のことだよ。初めて会った時の。言ってたろ、やっぱりって。何も思い出せないんだろっての」

「ああ、言ったな」

「なんで判ったんだよ」

「お前の瞳に、過去を厭う暗晦を見た」

 大真面目な顔で、ベルがいう。こいつは大概、こんな顔しかしないけども。

「なに言ってんのかよくわかんねーんだけど」

「感覚の話だ。言語化するのはむつかしい」

「なんだよ……つまり当てずっぽうってことか?」

「それは違う。私には判るのだ」

 ベルの調子に、変化はない。

「リリよ、過去とは時に残酷だ。目を背けたくなる過去との対向は、自傷に等しい痛みを生む。それが自ずから封印してしまうような傷跡であれば、尚更のこと。だが同時に、秘められた過去にこそ己を象る根源が隠されていることもまた、事実」

 その視線は、私にではなく。

「故に私は、紐解くことこそ重要であると考える。暴くのではない。紐解きながら、受け入れる。畢竟それが、最善への道であると――私はそう、考えている」

 あくまでも前を行く、少年へと向けられていて。

「お前の記憶が、正しくお前に紐解かれることを祈る」

「……それは、どーも?」

「リーリー!!」

 ミカが手を振り、「きーてー!」と声を張り上げていた。ベルを見る。ベルはもう口を閉じ、何も話すつもりはないようだった。ミカがさらに声を上げた。早く早くと、急かすようにして。オレはあえてゆっくりと、普段以上にのろのろとした足取りで歩を進めてやった。

「リリ、あれ! あれ見て!」

 橋の縁から身を乗り出し、全身を伸ばしてミカが指す。上下を星に囲まれた空の向こう、海を越えたその先へと。ミカの言葉に従い視線を向けたオレは、すぐにもそれを認めた。遥か彼方に聳える、それを。

「あれ、は……」

「リリ、あれはね、ラトヴイームだよ。果て先のラトヴイーム、ボクたちの目的地!」

「ラトヴイーム……?」

「うん!」

 ミカの声を聞きながら、オレはさらに目を凝らす。遥か彼方に聳えるそれは、距離感を失いそうになるほどに巨大な樹木だった。眺めているだけで吸い込まれてしまいそうになる、不思議な威容を感じる樹。アドナに感じたそれともまた違う。……それに、なんだろうか。あんなもの、知らないはずなのに。どこかで見たことがあるような、懐かしいような、なぜだか、そんな気が――。

「あのばかでかい樹が、オレたちの目的地なのか……?」

「そうだよ! 西の果てのその果て先で待つラトヴイーム! 大きな大きなあの樹の下で、ボクたちは誓いを立てるんだ!」

「誓い?」

 ミカが、オレの手をつかんできた。

「ラトヴイームはね、ケテルの使徒王さまが持ち帰った誓いの樹なんだ。大切な人を失った使徒王さまが、お別れをした大切な人との間に平和を誓った誓いの樹。この世にたった一本しかない孤独な樹で、仲間のいない悲しみの樹なの。だからねリリ、ボクはラトヴイームを守ってあげなきゃいけない」

「……なに言ってんだ?」

 ミカを見る。ミカの鉄仮面は、彼方に聳えるラトヴイームに向いている。

「リリ、ボクはラトヴイームの守り手なんだ。ずっとずっと、そうだったの。ずっとずっとずっと昔から、そう決まっているの。だからねリリ、ボクはラトヴイームを守りに行く。果て先に行く。だって、だってだってそれが――」

 ぎゅうと、握るその手に、力がこもった。

「ボクの願いなんだから」

 鉄仮面に阻まれて、ミカの顔は見えない。どんな顔で、どんな目で話しているのか、鉄仮面に阻まれて伺えない。

 ミカが何を考えているのか、オレには見えない。

「いや、いや待てよ。お前、確か、父親の為って――」

「待て」

 ベルがオレの言葉を遮った。同時、異音が耳へと飛び込んできた。背後で、どろどろとした何かが立ち上がりかけていた。不定形などろどろとした何かは徐々に徐々に輪郭を固め、確かな形を象っていく。それは人の形をしていた。黒一色に塗りつぶされた、輪郭だけの人の形。ただ一点だけ、明確な欠落を感じさせるその姿。――首のない、影。

「こいつ……!」

 間違いない。こいつはあの時、ミカからベルを奪おうとしたやつだ……! オレはミカにベルを押し付けると懐から頼りの獲物を取り出し、両手でそれを構えた。

「来るなら来いよ! 今度もまた! オレが! めちゃくちゃにしてやるからな!」

 自身を奮い立たせるように気炎を吐く。ばか、こらと、さらに付け足して。しかしその声も、次に起こった出来事によって消沈してしまう。首のない影の周りには、他にもどろどろとした何かが蠢いていた。それらがまた、人の形を象っていく。次々と、次々と首のない影が増えていく。一〇では足りず、あるいは一〇〇をも越えるような数の影が、来た道を塞ぐようにして橋を埋め尽くしていく。

「……ミカ!」

 ミカの手を取り、駆け出した。それが合図となったかのように、影たちも一斉に動き出す。ひしめきあう影たちが追いかけてくる。影はその姿に相応しく人のように駆ける者もいれば、獣のように四足で移動する者、関節の動きが明らかに人のそれとは異なる嫌悪感を催す者もいた。影たちは協力している訳ではないらしく、目の前の影が転げればそれを踏み潰し、呑み込み、我先にとこちらへ手を伸ばしている。そしてその手は明らかに、ある一点へ。

「ふむ。どうやら狙いは私のようだ」

「なにそんな落ち着いてんだよ!」

「性分だ」

 影たちの足はそこまで早いわけではなく、全力で走り続ければそうそう追いつかれることもない。しかし――こちらは影ではなく、人間。無限に走ることなどできはしない。こいつらはどこまで追いかけてくるのか。どこまで走れば逃げ切れるのか。ゴールの確証を持てない行為は身体の重みを倍加させる。過剰に吐き出される酸素に、脳が萎縮する。

 苦しい。痛い。走るのがつらい。捕まったらどうなる。そもそもオレは捕まるのか。狙いはベルだけなんじゃないのか。ベルを渡せば済む話なんじゃないのか。案外なんてこともなく、すぐに返してもらえるんじゃないか。後ろ向きに都合の良い考えが脳裏をよぎる。

 だが。

「オレが! 助けて! やるから!!」

 鉄仮面を揺らして走るミカに向かって、掠れた声で叫びあげる。ミカ。先程の発言――ラトヴイームとかいうばかでかい樹を守ることが自分の願いだという、ミカの発言。あの発言の真意は判らない。

 父親と母親を会わせてやる。それが願いだと、ミカは言っていたはずだった。うそを吐いていたのか。判らない。うそなんて吐けるようには思えないが、だとしてもあり得ないと言い切れるほどにミカのことを理解しているわけでもない。

 もしかしたら全部がうそなのかもしれない。こいつらは詐欺師かあるいはただの虚言癖の持ち主で、もしかしたらオレは騙されているだけなのかもしれない。だってオレは、きらきらと輝く星のような瞳以外、ミカの顔を見てすらいないのだから。信じる方がばかなのかもしれない。

 だが、関係ない。オレは決めたのだ、こいつを助けてやると。“今度こそ助ける”と、そう決めたのだ。血反吐を吐いて、足が千切れても、助けてやる。ミカも、ベルも、オレが。オレが、オレが、オレが――。橋の、終わりが見えた。

「渡りきれ、あれがゴールだ!」

 ベルが吠える。なんでそう言い切れるんだよ。そんな思いが去来する。しかし――。

「……信じるぞ、こらぁ!」

 ミカの手を、一層強く握りしめる。どちらにせよ、橋を渡る必要はあるのだ。それなら根拠があろうとなかろうと、乗っかってやったほうが力に変わる。信じたほうが、力に変わる。だから走る。無心に、ミカの手を握って、走る。ゴールはもうすぐそこだ。もうすぐ渡りきる。もうすぐ、もうすぐ――。

「あ」

 ミカが、小さく声を上げた。影が一体、すぐ側にまで迫っていた。影の伸ばした手が、ベルに触れていた。ミカの腕の中から、ベルがこぼれた。こぼれたベルが、空中に舞った。ベルを追って、ミカが飛んだ。無数の黒い影が手を伸ばす場所に向かい、ミカが飛んだ。

 その、次の瞬間。水晶の橋が、砕け散った。巨大な何かが海を割り、水晶の橋にぶつかり、眼の前のそれを砕き割った。――王鯨アドナが、自ら作り出したその橋を砕き割った。

 足場を失った影たちが海へと落下する。一人残らず、落ちていく。オレは――オレは、無事だった。橋を渡りきり、岸へと辿り着いたオレは、驚くべきことに無事でいられた。ミカも、無事だった。

 あの時、空中へ放り出されたベルをつかもうと飛び出したミカ。そのミカの手を、オレは離さなかった。つかんだまま、引っ張った。力の限りに引っ張った。だからミカも、無事だった。いま目の前で無事に、その背をオレに晒していた。

 しかし、ミカは動かなかった。背を丸め、何かを抱えるような格好のまま、その場に固まっていた。まるでそこにあるはずのものを、抱えているはずのものの残滓を見つめてでもいるかのように。まさか。そんなはず、あるか。オレたちは渡りきったんだ、無事に逃げ切ったんだ。だったら、そんなことあるわけない。でも、まさか、まさか――。

「海中を泳ぐアドナの姿が見えた。彼女ならば我々を助けてくれると思ったが、間一髪だったな」

「び…………っくりしたー!!」

 ミカがひっくり返った。ひっくり返ったミカの手には――ベル。頭だけのベルが、しっかとミカにつかまれていた。仰向けになったミカは足をばたばたと上下させながら、びっくりしたね、アドナすごかったねと興奮気味にしゃべくりまくっている。その受け手となったベルも、ひとつひとつ律儀に相槌を返している。日常のような平生っぷりで。……はあ? …………はあ~?

「どうしたリリ、そんなに口を開いて」

「…………あー!!!! もー!!!!」

 叫び声を挙げ、オレもひっくり返った。疲労がどっと、襲いかかってきた。もう一ミリだって動きたくない。腹立ちとともに、そんな思いが全身を包む。「リリー!」と呼ぶミカの声にも、「知らん!」とそっけなく返す。けれど同時にリリは、心地の良い充実感を覚えてもいた。それは涼やかな外気と共に、身体の内側を駆け巡っていく。リリは、噛み締めていた。オレはやったんだ。守ったんだ。オレはこいつらを守りきったんだ。

 オレがこいつらを、助けたんだ。

「まるでカモシカのような走りっぷり、見事だったナ、なあタヴ」

「バタバタとみっともない逃げっぷり、滑稽だったナ、なあテト」

 身体を起こし、ナイフを構えた。この人を喰ったような、癇に障る声色。聞き間違えるはずもない。こいつらは――。

「御一行様さっきぶり、縁があったなとタヴが言ってるゼ」

「御一行様ひさしぶり、ただの偶然だとテトが言ってるゼ」

「ピエロども!」

 ピエロたちの前でナイフを振るう。しかしピエロたちは怖い怖いと言いながらおどけた調子で難なく翻り、声を揃えて笑い出す。

「お前らの仕業か、さっきのは!」

「ひどいなタヴ、濡れ衣着せられちまったゼ」

「笑えるなテト、いまさら気づいたみたいだゼ」

「あっははははははは!!」

「あっははははははは!!」

「ふっざけんな――」

「待て、リリ」

 いつの間にか、ミカが隣に立っていた。ミカと、それからミカの抱えるベルが。常に変わらぬ態度のままに、ベルが口を開いた。

「ここはセフィロト。魂の在り方を反映する場所。そこで起こる出会いに無意味なものはなく、すべては必然の上に成り立っている。然るに――」

 淡々と、変わらぬトーンで告げる。

「お前たちがここの案内人だな?」

 道化師たちが、ベルを見ていた。冷めたような、白けたような、これまでにない態度で。

「……つまんねえ野郎だな、お前」

「……くだらねえ野郎だな、お前」

「好きに評すればいい。私にとって重要なのは果て先へ辿り着くこと、その一事であるのだから。それで、如何か。お前たちは何故、ここに在る」

 ベルと道化師がにらみ合う。静かに、しかし有無を言わさぬ対立を顕としながら。――先に音を上げたのは、道化師たちの方だった。

「いいサ、案内してやるよ」

「案内するまでもないけどナ」

 へらへらと薄笑いを浮かべた普段の態度で、道化師たちが指を鳴らす。すると道化師たちの背後の空間に、カラフルな色彩が浮かびだした。色合いなどまるで考慮しない様子で並べられた無数の色が立体的に、パーツごとに組み合わさっていく。そうしてそこに、ひとつの家が現れた。目に痛い原色をでたらめに並べた、らくがきのような家が。

「さっさと来いよ、待ってるゼ」

「待っててやるから、慌てんなヨ」

 重々しく開いた扉の中へと、道化師たちが滑り込む。その先は暗く、ひとつの明かりも見受けられない。そこに何が待ち受けているのか、外からでは何一つ見て取れない。

「……どうするよ」

「無論、進む」

「でもよ……」

 あの道化師たちのこと、何をしでかしてくることか。碌な出迎えなんて期待できない。水晶の橋の時のように、あの首のない影をけしかけられる可能性だってある。そうした危険性を考慮するに、おいそれと足を踏み入れていいものか。オレはそう、ベルに告げる。しかしそれでも、ベルは断言する。

「先にも述べた通りだ。このセフィロトに、無意味な出会いは一つもない。やつらの態度に思うところがあるのは理解するが、だとしても、進まないという選択肢は存在しない」

「ボクもそう思うよ!」

 ベルを抱えてミカが一歩、ぴょんと跳ね跳び前へ出た。

「だってここ、すっごく楽しそう!」

 そうして能天気に、行ってみようと誘ってくる。天を仰ぐ。ため息を吐く。……判ったよ。なにがあっても、やることは同じだ。

「手、貸せ」

「うん!」

 ミカの手を取る。きらきらと輝く星のような瞳がこちらを見る。うなずくと、瞳も同じようにうなずいた。そうしてオレたちはこのらくがきみたいな家へと、暗闇の中へと入っていった。

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