ז

「お星さまがいっぱいだ!」

 きらきらと目を輝かせ、ミカが駆け出した。ベルを抱え、オレもその後を追う。跳ね回るミカが叫んだ通り、無数の星屑がうず高く積み重なって川から氾濫しかけていた。川を堰き止めているアドナの死骸を覆ってしまいそうな勢いで、いまにも押し流してしまいそうな緊迫したバランスで。

「だが、これだけではまだ足りない」

 ベルがさらなる手順を指示してくる。川を横断する形で敷き詰めた、橙色の水銀花。水に溶けたこの橙色は薄く長い一反の布となってアドナの死骸のその下側を潜り、死骸のその向こう側へと伸びていた。

 柔らかいのに衝撃を与えるとすぐにも硬く変質し、どんなに引っ張ってもちぎれる様子のない丈夫な布。この布を予め用意しておいた車輪に結びつけるよう、ベルがいう。言われた通り川のこちらと向かいに分かれ一六の車輪ひとつひとつに水銀花の布を結んでいくと、布はぴんと皺なく張って、アドナの死骸を支える下敷きとなった。

「二人の息を合わせよ。力を重ね、車輪を回すのだ」

 川の向こうで、ミカがぶんぶんと大きく手を振っている。オレは小さく手を上げ、一瞬の躊躇の後にミカに負けないくらいに大きく手を振り返す。合図はベルが出すことになっていた。それまでオレとミカは、最前の車輪に備えた取手をつかんで待つ。静かに、静かに、周囲の音に耳を澄ませて待つ。――源流の方角から流れてきた星の一群が、ひときわ激しい音を立てて星屑の丘に衝突した。

「押せ!」

 全身全霊を込めて車輪を押す、車輪を回す。じりじりと、じりじりと、地面に轍が刻まれる。しかし、そこまで。あまりにも重い車輪の動きは、意思があるかのようにそれ以上進むことを拒絶している。歯を食いしばり、顔を真っ赤にさせても、動かない。息が苦しい、手が痛い。動かない。どうしても、動かない。無理だ。こんなのやっぱり、不可能だ。どう考えても現実的じゃない。ネガティブな思考が、頭の中を埋め尽くしかけていく。手を離したくなる。

「リリー!」

 川の向こうから、叫び声が聞こえた。ミカだ。鉄仮面を被ったミカが、鉄仮面の奥からオレのことを呼んでいた。いまにも倒れんばかりに身体を傾け、車輪の取手を押している。ぎゅうぎゅうと、絶対にそれを離さないと、絶対に下がらないとでもいいたげな姿で。

 ……ああ、ちくしょう!

「……ミカ!」

 一層の力を込める。車輪は動かない。更に力を込める。車輪は動かない。振り絞って力を込める。車輪は動かない。最後の一滴まで絞り出す。車輪は――車輪が、わずかに回った。回りだした。回り回り、回り回った。すさまじい音が、川と川の周辺を揺るがした。車輪の速度は際限なく上昇し、もはや追いつくこともできない早さで前進していった。張られた布に乗ったアドナが、一六の車輪と流れ行く方向を発見した星屑の丘の力によって運ばれていく。水晶の山が眼の前で、海に向かって爆進していく。

 川の向こうでミカが、流れ行くアドナの死骸を追いかけていた。オレは切り株に乗せたベルを抱え、その後を追う。その向かった先で、轟音と共に水柱が上がった。天まで届こうかというほどに伸び上がった水柱は空の高きで拡散し、雨となって降り注ぐ。星屑の装飾で輝く雨の下を、オレは走っていった。星屑の装飾で煌めく雨の下で、天を仰ぐミカが喜ばしげに踊っていた。

「リーリ!」

 川の中へと足を踏み入れ、ミカがこちらに駆け寄ってくる。オレもまた川へと入り、ミカの下へと近づいた。ぱしゃぱしゃと川の水を跳ねさせながら側まで来たミカが、高く高く手を挙げる。オレはその手の先を見て、一度目をそらし、けれども何度も主張してくるミカに根負けし、自分の手も高く挙げ、てのひらとてのひらを合わせた。乾いた音が波紋となって、広く辺りに響き渡った。

「ありがとう子どもたちよ。おかげで私を取り戻すことができました」

 声が、響き渡った。大気を震わせる、けれど恐ろしさは感じさせない、癒やしを感じる声が。川の終点にして、海への入口となるその接点から。海へ還った、アドナから。直後、死骸のはずのアドナが飛んだ。自身を海まで押し流した大量の星屑を従え、宙を舞った。

 宙空を舞うアドナと、付随する星屑。その星屑が、形を為していく。アドナの失われた身体を模すように鯨の形を為し、そしてそれは真実、アドナの一部へと変じていった。つややかな皮膚に、黄水晶が張り付いていく。その尾の先まで、元にもどっていく。そうして飛び上がったアドナが再び海へと潜るまでのその間に、アドナはその本来の姿を完全に取り戻していた。

「アドナ、王鯨アドナ!」

「ええそうですよ、愛らしい仮面の子。私はアドナ。黄水晶の王鯨アドナと人は呼びます」

 巨大なアドナの鼻先に抱きつくミカを、慈しむような瞳でアドナが見つめる。それはやさしい、母親のような顔をして。

「いと高き鯨の王であるアドナよ、教えて欲しい。我らの道が途切れている。次のセフィラへ渡るために、我らはどうすればよいのだろうか」

 腕の中から、ベルが問いかけた。アドナの瞳がこちらへ、オレの抱えるベルの方へと向けられる。癒やしの声を旋律のように奏で、アドナが答える。

「セフィロトは心の反映。道が途切れているならばそれは、あなたがたの心が深層への接近を恐れていることを意味します」

「しかし我々は進まねばならない。我々にはそれぞれ、成就せねばならぬ願いがあるのだから」

「存じております。だからこそセフィロトは、私とあなたたちを交わらせたのでしょうから。留まりに恐れを抱くと共に先を求めるあなたがたに、ならば私は教え導く者として、進むべき道を示さなければなりません」

 アドナが、その尾っぽを振り上げた。高く、高く振り上げられた鯨の尾。それが、海の表面を激しく叩いた。海が割れる。遥か海の彼方まで、海が割れていく。それだけではなかった。割れた海が、固まっていく。硬質な音を立てて彼方の先まで固まり、それはやがて、橋の姿を形作っていた。海を割るような形で、水晶の橋が架かっていた。

「果て先を目指さんとするあなたがたに、老婆心ながらに節介を」

 透き通り、その床の下の深海までをも見通せる水晶の橋へ、ミカが足を踏み入れ飛び跳ねていた。オレもまた、恐る恐る確かめるようにして一歩を踏み出す。

「真実への道は最果てへ近づくごとに狭く、鋭利に尖っていくものです。過たずそれは、自らを窒息させてしまうほどに。ですから子どもたちよ、気をつけることです。時には足を止めて振り返り、すでにあなたが抱いている裡なる世界を見つめ返して。そして――」

 二人が橋へと足を踏み入れたその後に、アドナが再び宙を舞った。人の言葉とは異なる長く雄大な鳴き声を轟かせて。

「そしてなによりも、叡智の蛇には気をつけなさい。あれは識らしめ拓く者であり、同時に呑み込み留まらせる者でもあるのだから」

 長く長く響き渡る鳴き声を背にして、二人とひとつの生首は水晶の橋を渡っていった。

「あなたがたの果て先が、光輝の輪に照らされんことを」

 星屑がきらめく海の上を、果て先を目指して彼らは渡っていった――。

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