ד

「ケセド」

「ど、ど……ドア!」

「……あかげ」

「ゲブラー」

「ら、ら……ラトヴイーム!!」

「……むげん」

「“ん”ー! リリ、“ん”ー!!」

「いや、ラトヴイームってなんだよ」

「ラトヴイームはラトヴイームだよ! それじゃリリ、リリから、今度はリリから!」

「……」

「リーリー!」

「……ああもう、わかったよ!」

 穏やかな川沿いを歩いていた。ゆったりとした足取りで。

「うふふ、ここもやっぱりパチパチする。ほらねリリも触ってみて! 星が当たるとパチパチするの!」

 星屑の流れる川を遡っていた。のんびりとしたペースで。

「おいこら、うろうろすんな! いきなり走り出すな!」 

「うふふふ、お手々つかまれちゃった。リリにお手々取られちゃった、うふふ」

 どこどこまでも緑と夜空と海が広がる、幻想的な光景の下を移動していた。時折置き去りにされている藁積みの荷車を横目に見ながら、寄り道したがる悪童を引き戻しながら。

 いや、ダメだろう、これは。

「おい」

「どうした、リリよ」

「本当に、こっちであってるんだよな」

「肯定する。我々の目指す場所はこの川を遡ったその先にある」

「その割には、ぜんぜん景色が変わらねーんだけど」

「もう間もなくだと思われる」

「数時間前にも聞いた言葉だ」

「ならば数時間分近づいているということだ」

「ベル、一緒に歌お!」

「うむミカ、了解した」

 川は分かれている。葉の裏に浮かぶ脈のように、無数の支流に枝分かれしている。ベルはこの川の源流へ向かえばよいと言っていたが、果たしてこの道は本当に正解のそれなのだろうか。分かたれた支流の、誤った一本を選んではいないだろうか。星屑を運ぶ川が、暗い海と合流している。塊となった星の明かりが暗い海にばらばらと拡散していく。ゆっくり、静かに。ミカとベルの歌声だけが響く中で。

 間に合うのか、こんなことで。

 背中に熱を感じる。振り向く。そこには何もない。熱の原因もそこにはない。だからこれは錯覚だ。いつ燃え出すかもしれないと気にする、オレ自身が生み出した錯覚。しかし――おっさんが、眼鏡のおっさんがあの断頭台の前で燃えたのは、錯覚ではない。

 眼鏡のおっさんは言っていた。セフィロトにいられるのは七日だけで、その七日の間にも留まることのできる場所は狭まり続けていると。そしてオレは、肌で感じた。もしあの炎に呑み込まれてしまったなら、そこから抜け出すことは二度とできなくなると。永遠に、焼かれ続けるだろうと。

 このままではオレも、おっさんと同じ末路を辿ることになるのではないか。あの焼け焦げた人影のひとつとなって、“願い”に囚われ続けるのではないか。そしてそれは、オレだけでなく。リリはちらと、手を握った相手とその相手が抱えるものを見た。二人は歌い続けていた。ミカは陽気に。ベルは、淡々と。呑気に、歌っていた。

 本当に、いいのかよ、このままで――。

「あ!!」

 とつぜん、ミカが声を上げた。声を上げ、直後、彼とつないだ手が強く引っ張られた。

「お、おい!」

 その勢いがあまりにも強かったため、リリはミカとつないだ手を離してしまった。しかしミカはそれを気に留める様子もなく、勢いそのままに走り出して行ってしまった。

「待てよ、待てって!」

 勝手に走るなって、うろうろすんなって言っただろうが。なんでオレの言うことが聞けねーんだよこのばか、こら。悪態を吐きながら鉄仮面をぐらぐら揺らしながら走るミカを追いかける。代わり映えのしない景色の中で、ただひたすらに追いかけ続ける。――が、そこに、変化が生じた。

 なんだ? ミカが走っていった先に、これまで見かけなかった何かがあった。川を堰き止めて鎮座するそれは大きく、近づくほどにその巨体さを肌に感じられる。まるで山のようなそれには目と、口らしき部位が見受けられた。なめらかな表面の所々から、星の光を反射し輝く水晶が張り付いている。その水晶の一端に、ミカがその手を触れていた。ようやくミカに追いついたリリは、肩で息をしながらその異様を見上げる。

「なんだ、これ……」

「アドナだよ! こんなところまで飛ばされてたんだ」

「アドナ?」

「ケテルの使徒王に国の治め方を説いた、伝説上の神獣だ」

「使徒王? 神獣?」

「神より使命を与えられし王と、王を王たらしめた鯨のことだ」

 ミカの腕の中で、ベルが補足する。しかし、補足されても結局理解には至らない。オレに判ったのはこれがとんでもなく巨大な鯨であることと、その巨体が川を堰き止めていること。そしてこいつが、すでに絶命していることくらいだった。アドナという鯨の目にはもはや光の欠片もなく、そもそもその体躯のほとんどがここには存在していなかった。

 荒々しく引き千切られたことが容易に想像できるアドナの断面からは夥しい量の血液が流れだしており、星屑の川を赤く染めている。痛々しいその傷口は見るに堪えず、辺りは血と油の激烈な臭いが立ち込めていた。できるなら今すぐにでもここから離れたい。

「……よくわかんねーけど、オレたちには関係ないだろ」

「そんなことないよ!」

「あ?」

「ね、リリ」

 きらきらと星のように輝く瞳が、オレを見つめる。

「アドナ、海に還してあげよう?」

「……はぁ?」

 ミカを見る。鯨の死骸を見る。その、巨体を。

「……どうやってだよ」

「ふたりで押せば、どうにかならないかな」

「いやよく見ろよ、こんなんまるで山だぞ。どうにかできるわけねーだろ」

「でもこのままじゃ、アドナが可哀想だよ、可哀想。だからね、だからこそボクが――」

 瞬間、嫌な予感がした。

「助けてあげなくちゃ」

 頭に、血が上るのが判った。

「また! またお前は! そうやって!」

「だって、放っておけないもの」

「放っておくもなにもねーだろ! こいつはもう死んでんだ、死んだもんは助けを求めやしねーんだよ!」

「でも、それでも助けないと」

「助けないとなんだってんだよ!」

「ボクがボクでなくなってしまう」

 きらきらと輝く瞳が、オレを見つめる。鉄仮面の奥から、ゆらぎのない意思を感じさせる目つきで。拳をグーに握ったオレは、その手を宙空に漂わせ、結局自身の太ももを打ち付けた。力一杯、何度も何度も。

「そんなに言うならオレは行くぞ! お前なんか置いて一人で先に行っちゃうからな!」

「うん、わかった」

「……ベル!!」

「ミカがそう決めたのなら、私に異論はない」

 抑揚のないベルの声。突き放すようなその冷たい響きが、決定打となった。

「そーかよ! そーかよそーかよ! オレの言葉より死んだ鯨の方が大切かよ!」

「アドナを還したらすぐに追いつくから、リリ、ちょっとだけ待っててね」

「知るかばか! お前らなんか勝手に燃えて死んじまえ、この、この……ばかやろー!!」

 そうしてオレは、赤く染まった川を蹴り飛ばし、鯨の側のミカから離れた。そのまま地面を踏みつけるようにして歩きだし、振り返り、未だ鯨の死骸に触れているミカに対しもう一度「ばかやろー!」と叫んだ。ミカが大きく、無邪気な様子で手を振った。その態度がまた酷く、トサカを刺激する。今度こそオレは完全に背中を向け、ミカとベルから離れていった。

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